表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国和倉温泉  作者: いばらき良好
第4章
10/58

4の1 家康の印象

 昨夜はわずかな酒で酩酊した石川達也殿。

 前田利政は、護衛がお役目だったので出来る限り控えた。随所に見られる遠い未来や広い世界の話など、石川殿にはとても興味が湧いた。


 天正十八年(1590年)五月二十日の早朝。

 皆で箱根湯本温泉に入った。谷筋に湧く温泉は透明でつるっとしており、両側に迫る山の緑と青い空が気分を爽快にさせた。

 朝食の膳は、御飯に焼き魚と瓜の漬物、菜っ葉の味噌汁も付いていた。食後に茶を立てて頂き、戦陣にありながらも利政たちは、石田三成殿から手厚い持て成しを受けた。


 石田殿の年は三十一歳なので、石川殿(満年齢)三十歳や兄の利長二十九歳と同じくらいだと昨晩打ち解けて、とても親しくなった。

 共通の敵は「徳川家康」である。一体、どんな奴であろうか。のちの天下人とは、征夷大将軍とは。


「では急いで我ら、前田の陣に戻ります。石田殿、有難うございました」

「前田殿、衛兵をつけましょう」

 石田殿は見送りに寺の門前まで出てくれて、配下から五〇名もの兵士を道中警護に付けてくれた。北条の残党を避けて、急ぎ武蔵の鉢形城まで行く。今日も暑い。


「父上、ただいま戻りました」

 父の前田利家に帰陣した報告をすると、父も嬉しそうだった。

「おお三人とも無事か。城攻めは利長が終わらせた。敵の北条氏邦は剃髪して降伏し、寺に蟄居した。あとは城の武器を取り上げるのに一〇〇名もあれば良いだろう」

 二日酔いの石川殿はふらふらして見るからに疲れていた。

「石川は大丈夫か、しばし休め。孫四郎は勉強として軍議に出よ。筆を頼みたい」

「分かりました」


 その後の短い軍議は父の利家が主導した。兄利長は前田軍の副将である。

「我が子、孫四郎利政が記録取りとして軍議の末席に加わること、諸将の皆にお伝えする。関白殿下から督促の文が届いた。そこで北国軍を二手に分ける。前田軍二万は忍城を攻め、上杉軍一万と真田軍三〇〇〇は石田三成の三〇〇〇と合流して八王子城を攻める。城を落としたら再び合流することにしよう」


「石田(三成)殿は何故に。軍監でしょうか」

 家老の直江兼続(三十一歳)が交渉事を行うようだ。上杉景勝(三十五歳)は寡黙だという噂の通りであった。軍神(上杉謙信)の甥で眼光鋭く、まるで抜き身の真剣を持つような重さがある。


「戦の経験が少ない石田治部だ。関白殿下の使いとして参加させてほしい。生意気な奴だが、智慧もある。うまく育ててくれと頼まれた」

 関白殿下の今度の采配は親心のようなものだ。

「承知しました」


「真田も異存ありませぬ」

 真田昌幸(四十四歳)は、武田、北条、上杉、織田、徳川、豊臣と世渡りして、生き残って来た謀将だ。妙に人懐っこくて面白い漢に見えた。

「では、明朝出立で頼む」

 父の言葉で軍議は終了した。


 それから二日、大きな池と泥田に囲まれた忍城は使者を立てて開城させた。山奥にあり石垣が堅い八王子城も夜襲からの力攻めで落城した。石田三成殿も戦い方を学んだらしい。

 初陣の利政も実際の斬り合いこそは無かったが、軍議に参加出来て良い経験になった。

 北国軍三万三〇〇〇は小田原包囲陣に合流した。


「機は熟した。木々を切り倒せ」

 関白殿下は石川殿の歴史より一ヶ月も早く、小田原城西方の笠懸山(のちの石垣山)の樹木を切り倒した。予め樹木の裏で、城を造っていたのだ。


 五月二十六日の未明、敵は小田原城中から朝日に映える「石垣山一夜城」を見上げることになった。見事に組んだ高石垣の上に、三重の天守櫓がそびえている。

 驚いた北条家の重臣らは、籠城継戦派と条件降伏派で対立し、昼も夜も評定が続いているとのこと。石川殿いわく「小田原評定」という。

 援軍の来ない籠城戦は負けであろう。


 数日後に黒田官兵衛(孝高)が「軍使」として、小田原城内に入って行った。上手いこと喋りで敵に信用させ、あるいは騙して降伏させるのが「軍使」の務めである。これは作戦を練る「軍師」とは少し違う。


 六月一日、苦悩する二十九歳の若き当主北条氏直は降伏した。

 関白殿下は乱取り(略奪)禁止を命じた上で小田原を占領し、城兵から武器と鎧、蔵にある金銀銭を押収した。


 この時、天下の茶頭で堺の豪商千利休が、密かに小田原へ鉛と硝石を売っていた事実が判明した。正義感の強い石田殿は「利休は敵方に味方した」と怒ったらしいが、関白殿下は豪快に笑い飛ばして「茶器でも随分儲けているようだな」と利休に矢銭一万貫(5億円)を要求した。

 小田原落城の知らせを受けて、伊豆韮山城は降伏開城した。


 六月七日、検使のもとで四代目の前当主北条氏政と氏照(氏政三弟)は切腹した。

 五代目現当主北条氏直(氏政嫡男)は高野山に追放。弟の太田氏房、千葉直重、北条直定、叔父の北条氏忠、北条氏光も高野山へと従った。


 元韮山城主の北条氏規(氏政四弟)は統率指揮に優れた人物で、関白殿下の御伽衆に加えられて知行二〇〇〇石を獲得、近侍して関東の歴史を語ることになった。


 元鉢形城主の北条氏邦(氏政五弟)は、前田利家預かりとして、前田の家来に加わった。文武に秀で、領内で養蚕と絹織物を奨励していたらしい。


 利政は父に付いて軍議の記録係をこなし、石川殿からは歴史や地理を学んだ。

 私戦を行った罪で安房の里見義康に「お取り潰し」が下された。小田原の陣のどさくさに、旧鎌倉公方を旗頭にして三浦半島へ勢力拡大を謀ったからだ。


 そして利政は、初めて徳川家康を見た。

 小太りで大黒様のように豊かな風体、眼の奥には鋭い炎が見て取れる。

 利政ら前田親子に気付いた家康は、笑顔で話し掛けて来た。


「これはこれは、前田殿の息子でござるか。凛々しい顔をしている。だが、戦場では何が起こるか判らんから、強い親父殿から離れない方が良いだろう」

 少し小馬鹿にしたような挨拶であった。


「徳川内府殿、かたじけない」

 父の利家が大きな声で礼を言ったので、利政も頭を下げた。爽やかな言動こそ、前田の家風だ。細かな言い訳もしないし、事実、利政は初陣のひよっこなのだ。

「前田殿、では」

 笑顔で家康は離れて行った。


 その後、無傷で分捕った小田原城で関白殿下は、家康に関東五ヶ国(相模、武蔵、安房、上総、下総)への転封を命じた。石川殿の知識から、石高は一九〇万石となる。さらに在京領として近江八幡一〇万石を家康に与えたので、合計で二〇〇万石となった。

 関白殿下の前で家康は神妙に応じていた。


 次に関白殿下は、織田信雄に尾張北伊勢一〇〇万石から甲斐二五万石に転封を命じた。最後まで韮山城を落とせなかった信雄に、減移封でケジメを取らせる意味っがあった。

 しかし信雄は転封を激しく嫌った。


「そもそも織田家こそが主家である。他人の命令など受けない」

 そんな皮肉に、関白殿下は怒りが頂点に達した。

「この馬鹿野郎が。信雄の領地は全て没収し、秋田に流罪だ」


 信雄は、豊臣家の侍たちに腰の刀を奪われて連行されて行った。幽閉であろう。

 怖い光景だったが、父は平然としていた。天下人が誰なのかは誰でも分かる。さすがは「安土城を焼いた男」で「愚鈍」と言われる織田信雄だった。


 翌八日には、南関東の新領主と決まった徳川家康が、反乱鎮圧のために房総半島へと向かった。

 六月十五日、里見氏の降伏で安房と上総の接収が完了した。関東平定である。


 十七日には、関白殿下と重臣たちが鎌倉に入り、鶴岡八幡宮を参詣した。

 利政も参拝した。鎌倉の大仏は大きかった。

 中央の大路に沿った街並みは整然としている。少し京風にも感じられた。これは利政が和倉温泉を例外として、北陸や京都しか知らないからだろう。


 この頃には石川殿の僧衣も似合ってきた。

 六月二十五日、関白殿下は下総国結城で、養子の秀康(徳川家康次男十七歳)を結城晴朝の姪と結婚させて結城家(徳川領内に五万石)を継がせた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ