そんなに優しくしないでください、悪役なんですから
実験的に書いた作品です。
「これをもって、エレナ・シュトラール嬢との婚約を破棄する」
第一王子アルヴィスの声が広間に響き渡る。静寂の中に生まれたざわめきは瞬く間に拡がり、場にいた貴族たちの注目が一斉にエレナへと向けられた。
理由は明白――と、王子は続けた。リリア・フローレンス嬢への嫌がらせ。嫉妬に駆られ、陰湿な言動を繰り返した等とありもしない事をダラダラと述べていた。
しかし、誰も彼女を庇わなかった。いや、最初から彼女を信じる者などいなかったのだろう。誰の目にも、エレナ・シュトラールは絵に描いたような“悪役令嬢”として映っていた。
誰も気づかぬその笑みに込められていたのは、諦めだったのか、それとも――覚悟だったのか。
「ご理解いただき感謝する。リリアを新しい婚約者として、今後ともよろしく頼む」
そう締めくくった王子の隣で、リリアは困惑した表情のまま俯いていた。彼女の唇が何かを言いかけたようにも見えたが、それは声にはならなかった。
――終わった。
エレナはそう思っていた。すべてが終わったと、心のどこかで感じていた。
しかし、ざわめきの中をかき分けるように、一人の青年が近づいてきた。
漆黒の礼服に身を包んだ男。金の髪に深紅の瞳――第二王子、エドワードだった。
彼は立ち止まり、こちらをまっすぐに見つめると、ごく小さな声で言った。
「……本当にそれでいいのかい」
その言葉に、足が止まった。
一瞬だけ目を見開きかけた彼女は、すぐに表情を整え、いつもの微笑を浮かべる。
「ええ。私は大丈夫ですから」
その一言を残し、彼女は踵を返した。
◇
それから数日後、エレナは何事もなかったように学園へ戻っていた。
もちろん、何事もあるに決まっていた。
通りすがりに囁かれる声、わざと聞こえるように吐かれる悪意ある言葉。
取り巻きだったはずの数名も、今では露骨に距離を取り、まるで疫病神でも見るかのような目を向けてくる。
だがエレナは何も言わず、何も気にしないふりを貫いていた。
昼休み、庭園の奥にあるベンチに腰を下ろす。ここは人通りが少なく、誰にも邪魔されない場所だった。
ひらりと本を開く。表紙は古びていて、何度も読んだ物語。内容は頭に入ってこなくても、指で紙をめくる感触が落ち着く。
風が吹いて、スカートの裾が揺れる。
まるで時間が止まったかのような午後の中――
その静けさを破ったのは、一人の男だった。
「……ここ、空いてるかい?」
見上げると、あの日の青年――エドワードが立っていた。
「こんな場所に来ても、何の得にもなりませんわ」
エレナは本から目を離さず、さらりと答える。
「……あの晩のこと、全部嘘でしょ」
本のページをめくっていた指が止まった。
エレナはすぐには何も言わなかった。ただ、ほんの一瞬だけ眉が動いた。けれど、それもすぐに無表情に戻る。
「何のことか、わかりませんわ」
「婚約破棄の理由だよ。リリア嬢への嫌がらせ。お前がしたって言ってたけど、あれ、事実じゃないだろ?」
「どうして、そう思われるのです?」
「君をよく知ってるから」
その言葉に、エレナは初めてエドワードの方を見た。深紅の瞳が真っ直ぐに自分を射抜くように見つめている。どこまでも静かで、だが逃げ道を許さないような目だった。
「私を“よく知っている”……? 面白いことをおっしゃいますのね」
「たしかに、全部は知らない。君が何を思って、何を考えて、あの場で黙っていたのかも、まだ全部はわかってない」
それでも、とエドワードは続ける。
「君は人を踏みにじるような人じゃない。少なくとも、好きでそんなことをする人間じゃない。……俺は、そう信じてる」
エドワードの言葉に、エレナは一瞬だけ視線を伏せた。
――信じてる。
それは、彼女が最も嫌悪していた言葉だった。
誰かの信頼に甘えれば、そこには必ず期待が生まれる。そして期待には、裏切られるという結末が付きまとう。それをアルヴィスの婚約破棄で痛感していた。
もう誰にも見透かされてはならない。傷つくのは、自分ひとりで充分。そう決めていた。
「……貴方は、本当に甘い方ですのね」
静かに告げる声は、皮肉とも嘲笑ともつかない、どこか力の抜けた響きだった。
「甘いよ。きっと君の言う通りだ。世間知らずで、理想主義者で、他人を信じたがる子供だって言われても、否定できない」
それでも、と彼は続ける。
「誰かを信じることを諦めたら、たしかに傷つかずに済む。でも、それって生きてる意味の半分くらいを、自分で捨ててるようなもんだと思ってる」
エレナは返事をしなかった。ただ、瞳だけがゆっくりとエドワードの横顔を捉える。
「僕は子供の頃、誰にも何も期待されてなかった。第二王子ってだけで、最初から“スペア”として扱われてきたから。どうせ本気になっても無駄だって、そう思ってたよ」
風に髪が揺れた。彼の目は前を向いたままだったが、声にはかすかに熱がこもっていた。
「でも、そうやって逃げてた頃の俺は、何一つ満たされてなかった。だから今は、信じたいものを信じてる。君のこともそうだ」
「……信じられる貴方が、羨ましいわ」
エレナは、膝の上で組んだ指先に力を込めた。
爪が食い込むほど、強く、深く。
心の奥では、ずっと気づいていた。
信じることをやめたわけじゃない。ただ、もう一度信じて、また裏切られたときに――立ち上がれる自信がなかった。
けれど、目の前のこの人は、まるでそれを見透かしているような目で、優しさと強さの境界を踏み越えてくる。
「なぁ、エレナ」
ひとつ深呼吸を置いてから、彼は続けて話す。
「君はもう十分、自分を罰したよ。もう許してもいいと思う。自分のことを」
裁くのではなく、許すために。責めるのではなく、寄り添うために。彼の言葉は、エレナの胸の奥に、じわじわと熱を灯していく。
そして、彼は膝を付き、彼女にそっと手を差し伸べた
「どうか、僕の手を取ってほしい。」
風が吹いた。花の香りとともに、淡い午後の光が木漏れ日のように差し込む。
差し出されたその手は、まるで一歩を踏み出すための扉のようにも見えた。
でも――
自分を守ってきた殻とか、役割とか、他人との距離とか――そういう全部。
それを手放せば、きっと何かが変わる。
でも、それと引き換えに失うのが怖かった。
「……わたくしは、貴方が思うような人間ではありませんのよ」
「知ってるよ。……でも、それでもいい。君の勇気が、誰かを救うきっかけになっていたことを、僕はちゃんと見ていた」
その言葉に、エレナは思わず顔をそらしそうになる。逃げる理由はたくさんあるのに、なぜかその手だけは、見ないふりができなかった。
エレナは、ほんの少しだけ手を伸ばしかけた。
そのとき――足音が聞こえた。
小さく、急ぎ足で。けれど、どこかためらいがちな。
振り返ると、リリア・フローレンスが立っていた。顔を紅潮させ、目には涙が滲んでいる。
「エレナ様……わたくし、どうしても伝えなきゃいけなくて……!」
声は震えていた。息を切らしながら、リリアは胸元を押さえて立ち尽くしていた。
「わたくし……あの時、何もできませんでした。あなたが責められているのに、ただ、見ているだけで……」
エレナはその顔を見つめ返す。リリアの涙が嘘か本当かを確かめるように、けれど口元は静かに微笑んでいた。
「もう、いいのよ」
それは赦しではなく、諦めにも似た言葉だった。
リリアは唇を噛みしめ、何も言えないまま、その場を去っていった。
「……君は、やっぱり強い人だね」
そっと呟いたエドワードの声に、エレナは再び顔を向けた。
◇
数日後。王宮で開かれた小規模な聴聞会。
きっかけは、とある証言だった。リリア・フローレンス自身による、王子への自発的な報告。
「エレナ様は、わたくしに何もしていません……あの日の誤解は、すべて、わたくしの思い込みと、周囲の憶測から生じたものです」
その言葉が、全てを覆した。
リリアが嘘をついていたのではない。ただ、“黙っていた”。その沈黙が、エレナを悪役に仕立て上げたのだ。
王子アルヴィスの判断は、結果として“妄言”という扱いになった。
加えて、当時の王子の側近たちによる過剰な噂の流布が明るみに出ると、宮廷内は騒然となった。
エドワード第二王子が静かに言った。
「兄上。貴族を一方的な判断で断罪することが、どれほどの影響を持つか……それをお忘れになっていたようですね」
その言葉に、アルヴィスは顔を引きつらせた。
王子としての立場を追われることはなかったが、婚約は当然白紙。
リリアは涙ながらに謝罪の意を表し、王宮から一時的に離れる措置が取られた。
だが、最も人々の印象に残ったのは――
ただ一人、すべてを責めず、誇りを保ったまま沈黙を貫いた令嬢、エレナ・シュトラールの姿だった。
彼女は笑わなかった。ただ、静かに礼をしてその場を後にした。
復讐も侮蔑も、彼女は選ばなかった。
だからこそ、王宮の誰もが知ったのだ。
“本物の貴族”とは、何かを。
◇
庭園の小道を歩きながら、エドワードはふと足を緩め、隣に立つエレナを見つめた。
春を迎える花々が揺れる中、彼女の横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
「どうする? これから」
エレナは立ち止まり、ゆっくりと空を仰ぐ。澄んだ青が視界に広がって、頬に風がそっと触れた。かつて、何を見ても心が動かなかった日々を思い出す。
心を閉ざせば、傷つかずに済むと信じていた。
けれど、その代わりに、何も見えていなかったのだと、今になって思う。
「――暫く、学園を休もうと思っています」
ぽつりと落とした言葉に、エドワードが驚いたように瞬きをする。
「理由、聞いてもいい?」
「理由なんて、たいそうなものはありませんわ。ただ……少しだけ、自分の人生を、自分のために歩いてみたくなっただけ」
それはきっと、贖罪でも逃避でもない。
今の自分だからこそ選べる、“前に進む”という決断だった。
「じゃあ、行き先はもう決めてる?」
「いいえ。風の吹くまま、気の向くまま。……それも悪くないでしょう?」
エレナが笑うと、エドワードも肩の力を抜くように微笑む。
「風任せなら、僕も付き合うよ。きっと君はどこへ行っても目立つだろうから、多少の騎士役くらいにはなるさ」
手は、もうとっくに繋がれていた。
迷いも、恐れも、ほんの少しずつ、手のぬくもりに溶かされていく。
ふたりの影が遠くまで伸びていたのだった。