八話 二宮海斗③ → 野村裕樹② 6月19日
まさか放課後に部活以外で学校に残るとは思わなかった。
俺にとって学校とは勉強をするところでもなければ、学友と友情を育む場でもない。
じゃあ何かというと、絵を描くところだ。俺は絵を描くために学校に来ている。
そんな俺がわざわざ好きでもない陸上部の部室に来るとは。世の中は不可解だ。
黄昏た風でかっこつけてみたけど、美紀に「いいから行ってこい」と半ば強制的に来させられただけなんだけどな。
美紀は失敗したらしい。詳しい経緯は話してくれなかったけど、琴原先輩に紹介の許可を貰えたか尋ねたら「え? なに?」と不機嫌だったのでまあそういうことなのだろう。
そんなわけで部室棟に俺はいる。陸上部の部室のドアは開かれていた。
「こんにちは」
◆ ◆ ◆
見たことのあるやつだ。去年同じクラスだったから覚えてる。
あんまり関りがなかったけど、印象的な出来事を一つ覚えている。
体育祭の時だ。横断幕を作るとき、誰にリーダーを任せるかって話になった。絵心のあるやつはクラスにいなかった。そこで美術部であるあいつ、二宮海斗だ。
誰かが「二宮、美術部じゃなかったっけ?」と言い、先生が思い出したように「そういえばお前、賞か何か取ってただろ」と言ったことでクラスの雰囲気が「二宮に決定」的な方向に流れた。
しかしここで二宮は「え? 嫌だけど」とバッサリ斬り捨てた。当然のように、むしろ「なんで引き受けてもらえると思った?」とでも言いたげな表情(あいつと仲の良い市原曰く無表情だったらしい)で。
それ以来クラスでは二宮は偏屈な奴だという共通認識が広まった。
「二宮。どうしたんだ?」
部室にはまだ何人か部員がいるが、二宮の来訪に芳しい反応を示す奴はいなかった。
二宮のことを知っているのは俺だけのようだ。
「え、ああ」
二宮は曖昧に答えた。
こいつ俺のこと絶対覚えてないだろ。
「聞きたいことがあってさ」
「何? てかとりあえず入ったら?」
入室を勧めると二宮は大人しく部室に入った。ドアの前に立ってちゃどうしても邪魔になる。
陸上部の奴らは無視することにしたようで、それぞれ何か話をしている。
「二日前、金谷って先輩が入院したらしいんだけど何か知ってる人いない?」
「そのことか。その前に一つだけいいか?」
「どうぞ」
「なんでそんなこと聞きたいんだ」
二宮の金谷先輩に接点はない。聞きたがるのは不自然だと思った。
「知りたいってやつがいるんだ。俺はその人に協力してるだけ」
「へえ、誰?」
「金谷先輩の彼女って人」
部室の喋り声が止まった。
「ごめん、今なんて?」
「だから、金谷先輩の彼女」
部室がざわっとなった。
それもそのはずで。金谷先輩はモテるくせになぜか彼女を作らないことで有名だった。俺は好きじゃないけど。誰かに告白したことはもちろんないし、告白されても何かと理由をつけて断っていたそうだ。
陸上部のみんなや、彼と親しい仲にある人たちは長い間それを疑問に思っていたが、ようやくその答えがみつかった。
単純な話だ。彼女がいるから彼女を作らない。なぜ誰もその答えにたどり着かなかったのか。俺は興味なかったけど。
黙って話を聞いていた広田が「お、俺ちょっと……!」と部室から出て行った。あいつ絶対言いふらしに行ったな。
それほど、金谷先輩に彼女がいるということは衝撃的なんだろう。興味のなかった俺でさえ驚いているくらいだ。
「何があったかって話だよな」
「うん。でもなんか騒がしく、っていうかざわざわしてるけど大丈夫?」
「あーまあ。新事実発覚って感じだからかも」
「そうなんだ。で、どうなの?」
「悪い。俺たちはなんも知らねえ」
「……わかった。部活前にごめんね」
悪いと思ってなさそうな無表情で二宮は告げ、そのまま部室を去った。
なんも知らない、というのはもちろん嘘だ。陸上部のみんなもだいたいの状況は分かっている。
金谷先輩が入院したと知らされた日、陸上部でミーティングがあった。北川先生が「金谷の件で田神から話がある。聞いてくれ」と話を始めた。
田神は自分の口で語った。
自分のスパイクが金谷先輩に盗まれたということ。それがわかって部活後、金谷先輩と話をしようと思い、夜七時頃、金谷先輩を呼び出した。
その後、話し合いがこじれて少し体を押したら金谷先輩が階段から転げ落ちた。田神は急いで救急車を呼んだ。一緒に病院へ向かおうとしたが金谷先輩が「俺が勝手に転んだことにするから、お前は来るな」と言ったそうだ。
田神は金谷先輩の意図を汲んで黙っているつもりだったが、北川先生が陸上部の誰かからそのことを知らされていたそうなので、白状したというわけだ。
同じ部活の仲間とは言え、「喧嘩して病院送りにした」となれば選手生命に傷がつく。だから黙っていてほしい。金谷先輩もそう願っているはずです、と田神は涙ながらに訴えた。
それを聞いて俺たち陸上部のみんなは、二人のために約束したのだ。
このことは陸上部の中で留めておこうと。
俺と広田に関してはさらにちょっとだけ知っている。
俺たちは金谷先輩が入院したと知った前日、その金谷先輩からこう言われたのだ。「田神についてどう思ってる?」と。
このことが突然入院したことと無関係だと思えるほど俺は馬鹿じゃない。
でもそんなことはこの件に関係がない。二人のわだかまりは解けた。部外者の俺がどうこう言うのは意味が無い。
だから。二宮には悪いけど、何も話すことはない。
◆ ◆ ◆
嘘だろうね。
俺はあいつ(知り合いらしい)に何か知っているか聞いたのに、あいつは「俺たち」となぜか主語を大きくした。
それはつまり、あいつの言う「俺たち」に何か重要な共通認識があるということだ。もちろん、金谷先輩絡みで。
俺がちょうど金谷先輩のことを尋ねたから無意識のうちに「俺たち」という言葉が出てしまった。
そんなところだろう。
陸上部の人たちは良い奴だ。
彼らの持つ共通認識がどういうものかは知らないけど、全員で口を噤むくらいだ。よっぽど強い信念があるのだろう。
誰かを守るためとか。
あの人たちが悪人の集団で、悪事を全員で隠しているとかなら話は変わってくるけど、そんなことはありえないだろう。
問題外だ。俺たちはただの高校生だし。
問題は、その共通認識が何かってことだ。
「って感じだな」
ことのあらましを俺の主観も混じえて美紀と野々原さんに伝えた。
食堂の端っこの方で、俺の反対側に座っている二人は何を言おうか悩んでいるようだった。
今日の野々原さんは面白い格好をしている。うちの高校は制服着用の義務があるので、他校の生徒が混じっていたら一発でわかる。昨日は下校時間だったので先生に触れられなかったけど、今はそうはいかない。
その対策として美紀の体操服を野々原さんに貸しているわけだけど、違和感がすごい。
なにしろ全く似合ってない。なんというか、ダイヤの宝石をビニール袋に入れているみたいな。そんなちぐはぐさがある。
「それってさあ。やっぱ陸上部じゃない?」
「俺もそう思う」
美紀も俺と同じ結論にいたったみたいだ。
まあ、俺と話したやつの「俺たち」発言はどう考えてもおかしい。怪しすぎる。
金谷先輩の件ではないかもしれないけど、少なくとも何か隠してるんだろうなと思ってしまう。
「由乃ちゃん、どうする?」
悩む野々原さんに美紀が問いかける。
ていうかいつの間に下の名前で呼んでんの。
「美紀さん。私、ここでやめようと思います」
野々原さんもかよ。
「え? やめる?」
「はい。陸上部の方は何もなさそうですし、実は昨日健一から言われたんです。不良との口論が拗れたんだって。だからすみません。ありがとうございました」
ぺこり、と野々原さんは小さな頭を下げた。
「いやいやいや何言ってんの由乃ちゃん。海斗の話聞いてた? どう考えても陸上部じゃん」
「健一はそんなこと言わなかったので、違うと思います」
「でも―――」
「美紀、やめとこう」
「海斗?」
「俺たちは協力してる側。頼んでる方が必要ないって言ってるんだから、これ以上は余計なお世話だろ。なら黙って引くのが筋だと思う」
「それはそうだけど」
「野々原さん困ってるだろ」
「え、なんで海斗にそんなこと分かるの?」
「なら聞いてみろよ」
「由乃ちゃん困ってる?」
「いえ、私はそんな……」
「ほら困ってないって」
「言い辛いだけだろ。そういうとこほんと悪いとこだぞ」
「はあ? 海斗に言われたくないんだけど。絵ばっか書いて彼女のこと放ったらかしにするくせに」
「そのことはもういいだろ」
「もう? もうって何? 一回許されたからって無かったことにはなってないけど?」
「あのなあ―――」
「け、喧嘩しないでください!」
野々原さんが机を叩いた。
バン、と大きな音だった。小柄な野々原さんにしたら意外だ。
放課後だったが食堂にはチラホラ人が見られる。うちの食堂名物であるカリカリ唐揚げを摘んで友達とだべっていたり、四人で勉強してる(図書室とか行ってこい)人もいた。
俺と美紀はもちろん、彼らも口や手を止めてしまった。
それほど大きな音と声だった。
「失礼しました……」
野々原さんは周囲に頭を下げて、申し訳なさそうに肩をすぼめた。
「でも本当に喧嘩はやめてください。美紀さんの気持ちはとても嬉しいです。会って間もない私に良くしてもらって。でも、最後は私だけで解決したいんです」
最後は、ということは陸上部が怪しいということは野々原さんも理解しているようだ。俺たちに手を引いてほしくて嘘をついたのだろう。
「どうなるか見届けるのもダメ?」
「ごめんなさい。どうしてもと言うなら、この体操服をもう少しお貸しいただけたらありがたいです」
「そりゃ、体操服くらい貸すけど……」
野々原さんの決意は固い。
彼女の目を見ればわかる。まっすぐ、堂々と美紀を見つめる目を。
正面から射貫かれた美紀が一番分かっているはずだ。
「わかった。もう口は出さない」
「ありがとうございます」
「言っとくけど、こっそりついて行くのもダメだからな」
「……わかった」
返事が遅い。
まあいいけど。
「では、私はこれで失礼します」
「うん。頑張ってね」
「俺も応援してる」
「ありがとうございます。色々と。いつか健一も入れて食事でも行きましょう」
「え? いいの? 楽しみにしてるね」
野々原さんはペコりと頭を下げて、俺たちの視界から去っていった。
食堂を出る時もこっちに振り返って、軽く会釈しているのが見えた。丁寧だな。
「さて、行くか」
「え、どこに?」
「決まってるだろ。野次馬だ」
野々原さんの言いたいことは、要するに「自分から来てくれと言うことはできない。勝手に来て欲しい」ということだろう。
可能性としては本当に巻き込みたくないから来て欲しくないということもある。というかたぶんこっちだ。野々原さんはそんな風に考えるような気がする。
もちろん、俺たちは見に行くべきではないだろう。
どうして野次馬根性を発揮したのか。そんなの決まってる。俺たちが野次馬だからだ。