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六話 二宮海斗② 6月15日

 美術部は毎週月曜日と木曜日が活動日となっている。それ以外の日は希望者のみの参加となる。自由参加の日は十人くらいの部員が決まって活動している。部員は全学年で十五人なのでうちの美術部は熱心な部員が多いと言える。

 制作が佳境に入っていた俺はここ最近毎日部活動に専念していた。絵を描くことは好きなので、佳境に入っていようが入っていなかろうが、俺は今までもずっと放課後は美術室にいた。だいたい最終下校時刻の夜七時まで。

 今も変わらずそれは続けたいと思っていたけど、そうはいかなかった。

 美紀がいるからだ。どうやら恋人がいる人は自分のしたいことをする時間を減らす必要があるらしい。

 付き合って一か月くらいが経った。

 美紀の機嫌が悪い。でもそれは付き合う前からも同じだった。なぜか俺にだけあたりが強いのは、好意の裏返しだということはわかったけど、ここ数日の機嫌の悪さはそれとは違うようだ。


「ごめん。待たせた?」


 美術室を出ると、ドアのすぐそばに美紀がいた。最後まで残っていたのは俺だったから、鍵を閉める。


「別に。そんなに待ってない」


 ほら、これだよ。

 らしくない。付き合いたての頃だったら「めっちゃ待ったっつーの。詫びとしてラーメンでも奢れ」とかめちゃくちゃなことを言ってきていた。

 何がそんなに気に食わないのかさっぱりわからない。どうすりゃいいんですか、と日が落ちかけたお天道様に問いかけても答えは返ってこない。


「それじゃ。帰ろうか」


「うん」


 校舎はほぼ無人で、俺と美紀の上靴の音しか響いていない。

 凪坂高校のこの時期の最終下校時刻は午後7時。部活動は30分前に終わるので、ほとんどの生徒は六時半過ぎに帰ってしまう。

 俺は顧問にギリギリまで美術室を使わせてもらえるよう頼んで6時50分まで絵を描いている。

 だから俺が美術室を出るころには学校は静寂を迎えている。

 それでも俺みたいに何かしら用事があって遅くまで学校に残っている人もいるので、かすかな気配は感じられる。

 俺と美紀は階段を上がり、職員室に入った。鍵を返すためだ。ほとんどの教室は電気が消えているが、職員室はまだ点いていた。

 中では数学の田中先生がパソコンに向かっていた。他の先生はいない。


「美術室の鍵、返しておきますね」


 田中先生は「んー」とかなんとか言っていた。

 美術室の鍵置きから美術部と書かれた紙を引き抜き、代わりに鍵を置いた。


「失礼します」


 職員室を出た。

 もう学校に用はない。絵を描くことは家でもできる。今の時代、デジタルにも慣れておく必要があるのでそれは家のパソコンを使っている。油絵は学校でしか書かない。前に家で描いていたら部屋が汚れてしまって親から死ぬほど怒られたからだ。

 靴を履き替えて、二人で校舎を出た。これからまず駅に向かい、電車に乗る。二駅乗ればそれで地元に着く。

 今日は昨日の続きを描こう。一週間かけた一枚だ。最近の流行にのっとったアニメ風のイラストで、完成がけっこう楽しみでもある。


「ねえ」


 そんなことを考えていたら美紀がぽつりと呟いた。振り返ると美紀は立ち止まって若干俯いていた。


「何?」


 肩に引っ掛けた鞄を握る美紀の手が少し動いた。


「海斗はさ。絵、描くの好き?」


「当たり前じゃん。なんで?」


 俺の一番の特技だ。だいたい、絵を描くなんて地味で集中力のいる行為は好きでないと継続することは難しい。


「別に。いっつも絵ばっか描いてて楽しいのかなって思っただけ」


 好きだし楽しいからいつも描いてるのであって、何かに強制されたり義務感からならいつもやれたりしない。

 よくわからないことを言っていると思った。ただ、いつもの強気な態度ではなく、美紀はやはり俯きがちのままだった。


「まあ、みんなにとってのゲームだったり、スマホだったりがたまたま絵だったってだけで、そんなにすごいことでもないと思うよ」


「どうだろうね。私は英語好きで勉強してるけど、ずっと英語ばっかりやってるわけじゃないし」


「いや俺もずっと絵描いてるわけじゃないけど。勉強も少しはするし映画も見る」


 立ち話をしていると、学校に残っていた生徒がちらほらと横を通っていく。


「じゃあ家帰ってからも絵描いてるわけじゃないんだ?」


「それは描いてるけど、ずっとじゃない」


「じゃあなんで私のLINEは中々返信してくれないの?」


「気づいてないから。ていうかそんなの前からじゃん」


 俺の返信が遅いのは今に始まったことじゃない。

 昔からそうだったし、香奈にも信也にも遅い。遊びの連絡とか、俺から学校のことで質問するときは見るけど、それ以外じゃ本当に見ていないのだ。だから俺に何か用があれば電話すればいいんだけど、なぜか美紀はそうしない。

 電話してくることもあるけど、なぜかメッセージを送ってくることが多い。そういえば中学の時からそうだった。信也にそのことを相談したら「ああ、うん。まあ気にすんな」とかなんとか言ってたな。


「そうだけど、そうだけどさ」


「ていうか、何が言いたいわけ? はっきり言ってくれ」


「いや、だから……」


「だから?」


「もっと、私のメッセージに返信してほしい」


「返信はしてるけど」


「だから、もっと早くに! できれば五分以内とか、それくらい!」


「それは無理。絵を描いてたいし、まだまだ上手くなりたい。だから美紀とのメッセージのやり取りにとれる時間はない」


「それに放課後も遊びに行きたい。海斗は土日はお出かけしてくれたりするけどさ、平日は部活終わったらいっつもすぐ帰るじゃん。制服デートとかやりたいの!」


「だから、絵を描く時間がいるんだって」


「絵もいいけど、それも大事だけど、私のためにもっと時間を使って。私を優先してよ!」


「なんだよそれ。どこのお姫様だよ」


 言ってから、しまったと思った。美紀にちょっと苛々したとは言え、人の訴えを揶揄するようなこと言うべきではなかった。

 美紀は俯いていた顔をバッとあげた。

 肩を震わせ、視線で俺を突き刺すがごとく睨みつけた。そして、息を吸いこんで言ったのだ。


「あんたのお姫様だろうが! もっと丁重に扱えよ!」


 今日一番大きい声だった。

 学校で聞く廊下を走る生徒を注意する先生よりも、練習中のサッカー部部長の掛け声よりも、音楽室で歌を歌う軽音部よりも大きい。

 下校途中だった生徒たちが何事かと一斉にこちらを見た。注目されるのは嫌いだ。でもそんなことはどうでもよかった。

 目の前の、拳を握りしめ、肩を震わせ、息を荒げて、目尻さえ滲ませている美紀が。

 美しいと思った。

 まるで世界の中心に立っているみたいだった。放課後の夕暮れ空の光がすべて美紀に向かって集約して、時間が止まったように感じられた。それぐらい俺は美紀に見惚れた。

 今の美紀をモデルに絵を描けば、最高の絵が出来上がるに違いない。

 たまには人を揶揄してみるのもいいと思ってしまった。


「ごめん美紀。自覚が足りてなかった」


 言いながら俺は頭を下げた。


「え、うん。え、今ので分かってくれたの?」


「正直ぐっと来た。なんかこう、本気って感じが伝わってきた」


「そ、そう。ならいいんだけど……」


「とりあえずそうだな。絵のモデルやってくれない?」


「結局絵かー。でもそれはそれであり……?」


 恋人に絵のモデルになってもらうというのもデートと言ってもいいんじゃないだろうか。美紀も納得しかけてるし。


「お話し中のところすみません」


 パッと視線を移すと、女の子がいた。制服を着ているから高校生か中学生だ。たぶん高校生だと思う。でも美紀の着ている制服とは違う制服なので別の高校だ。どこのかはわからないけれど。


「なんですか?」


 美紀は少し苛だっているようだ。気持ちはわかる。すみませんと謝るなら初めから声などかけなければいいだろう。


「私、野々原由乃といいます。少し尋ねたいことがありまして」


「それ、私たちじゃないと駄目ですか?」


 美紀は「嫌だ」という感情を前面に出した。俺も正直めんどくさいと思っていた。


「いえ、そんなことはないんです。ただ」


「ただ?」


「大変仲睦まじい様子で喧嘩してらしたので、いいなあ、羨ましいなあと思いまして」


 仲睦まじい喧嘩、というのが羨まれるようなものなのか微妙なところだけど、野々原さんは本当に羨ましいと感じてるようだった。

 まあ、そんなふうに見られていたのならそんなに悪い気はしない。


「何それ。まあいいけど。私は市原美紀、これは二宮海斗。で、何?」


 羨ましい、と言われて美紀も満更でもなさそうだった。サラッと自己紹介まで済ませたし。

 てかこれってなんだよ。


「市原さん、二宮さん。よろしくお願いします。それとありがとうございます。尋ねたいことと言うのは、実はここに通ってる知り合いが怪我をして入院してしまいまして、その原因を見つけたいのです」


 ここ、というのは凪坂高校のことだろう。

 高校生か先生か。先生なら働いてるって言うだろうから高校生かな。


「へえ。美紀何か知ってる?」


「知らない。ていうか誰なの?」


「金谷健一っていう、三年生なんですけど。知ってますか?」


「いや、知らないなあ。ていうか原因なんてその人に聞けばいいんじゃ? え―――」


 それができないということは、つまり。


「それが、健一は言いたくないそうなんです。でも明らかにただ事ではないので、自分で探すことにしました」


 よかった。亡くなってるわけじゃないみたいだ。ていうかそれなら警察が来てるか。


「そういうことか。でも原因かー。揉め事とか事故とかは聞いてないな。美紀は?」


「私も。ていうかその健一さん? とはどういう関係なの? 兄妹とか?」


 余計なこと聞くなよ美紀。


「いえ、端的に言うと恋仲です」


「ほうほう。なるほど。そりゃ心配だね」


 美紀の悪いところが出始めた。こういう事件が好きで首を突っ込みたがるところが。

 若干テンションも上がっているようだし。

 事件か。そういえば一つ思いだした。


「あ、でもどっかの運動部でなんかあったみたいなのは言ってた気がする。後は気性が荒い先輩がいるとか」


「伊藤って先輩のこと? 転校したんじゃなかった?」


「あれ、そうだっけ。まあそんな感じかな」


「わかりました。あの、運動部って具体的に何部か分かりますか?」


「ごめん。そこまでわかんないや」


「私も」


 昼休みに信也と香奈が話してたのを聞いてただけだからなあ。ちゃんと聞いてなかったし。

 他人がどうしたこうしたとか基本的にはどうでもいい。俺は俺の事で手がいっぱいだ。美紀のことですら覚束無いから、気にする余裕が無い。


「あ」


 いるじゃん。

 こういうハプニングが大好き(と思われる)で時間、はわからないけど精神的には余裕がありそうで何でも知ってそうな人が。


「分かりそうな人ならいるんだけど」


「ダメ」


 はっや。


「まだ誰かも言ってないだろ」


「どうせあのキス魔でしょ」


 はあ、と美紀はため息をつく。

 あの件以来美紀はあの先輩に苦手意識を持っているようで、俺の前でだけキス魔と呼んでいる。険悪な雰囲気は嫌だけど無理に仲良くする必要はないから別にいいんだけどさ。

 俺だって美紀に無理やりキスした男がいたらぶん殴りたいくらいムカつくだろうし。


「キス魔、ですか」


 野々原さんはピンと来ていないようだ。そりゃそうだ。キス魔なんて聞き慣れない単語、出てきても実感が湧かないだろう。


「まあ色々あるんだよ。色々」


「そうですか。あまり触れない方が良さそうですね」


「そうしてくれると助かる」


「とにかく、あの人はダメ」


「いいじゃん紹介するくらい」


「ダメ。紹介するのはいいけど、海斗と話して欲しくないの」


「なら美紀が紹介してあげなよ」


「それも嫌だけど、いやそっちの方がまだ……」


 美紀はうーんと唸った。

 悩んでいるようだ。自分が話すか、俺が話すか。葛藤の末、美紀は答えを出したのか「よし」と呟いた。


「わかった。私が紹介する。それでいいんでしょそれで」


「そうだな。頼んだ」


 美紀は無理やり頼まれたことを仕方なく了承したみたいな態度をとっているけど、俺は最初からどっちでもいい。

 野々原さんの助けになれればそれでいい。


「えと、つまり?」


「気に食わないけど、多分なんでも知ってる女がいるの。その人に野々原さんを会わせてあげる。まあ解決できるんじゃない? ていうかもう野々原さんのこと知ってるかもしれないし」


「なんでもですか。頼りになりそうです。その方はなんという名前なんですか?」


「琴原美里っていう人なんだけど」


 そういうわけで、美紀は明日の放課後、野々原さんとともに琴原先輩をたずねることになった。

 俺と美紀は野々原さんと連絡先を交換し、午後五時に凪坂の校門前で待ち合わせをすると決めた。

 わざわざこんなことをしなくても、あの先輩ならすでに野々原さんが凪坂に来たことを知っているような気もするけど。

 いやでもさすがにそれはないか。

 ちなみに琴原先輩のとんでも噂話は野々原さんに伝えていない。野々原さん、控えめな人だし変なこと話して怖がらせたら嫌だからなあ。


「では市原さん、明日はよろしくお願いいたします」


「うん。よろしくね。あ、てか私ら思いっきりタメ語だったけどよくなかったよね? すみません」


「私は高校一年生なので大丈夫ですよ」


「え? 三年じゃないの? てことは彼氏さんとは二歳差ってこと? すご」


「別にすごいということはないと思いますが……」


「えだってねえ海斗」


「まあ二歳差ってあんま聞かないな。高校で初めて恋人できたって人が多いし。一年と三年じゃ関わる時間が少ないから機会も少なそうだよな」


「私と健一は中学の時に知り合ったので」


「へえー。え、でもやっぱり二歳差じゃん」


 二歳差である以上、中学でも関わる時間が少ないのは同じだ。小さな頃から知り合いだったなら関係ないけどそうでもないらしいし。


「んー。まあ色々あったんですよ」


 野々原さんはぼやかした言い方をした。たぶんだけど昔のことはあまり言いたくないのかもしれない。まあ、出会って間もない人たちにする話じゃないか。俺もさっき濁したし。


「何それ気になる。ちょっと教えてよ」


 いやいやいや美紀さん。ちょっと気を使ってくれよ。控えめな野々原さんが話の流れを無視し、先回りしてまで濁そうとしたんだぞ。

 どうせそれぐらい美紀も分かってる。わかってて気を遣うことをしない。そういう強引なところが同性の友達ができない原因になってんだぞ。俺は好きだけど。


「おーい。お前らいつまで残ってる。学校閉まるぞ」


 田中先生が声をかけながら近づいてきた。スマホを見たら時刻は午後7時半を過ぎていた。

 下校する生徒もいつの間にか、周りには見当たらなかった。けっこう話し込んでしまったみたいだ。


「すみませんもう帰ります」


「おう。気をつけろよ」


 俺たちは学校を出て、駅の方に歩き始めた。

 美紀は「それでさっきの話って」と続きを聞き出そうとしていたが、野々原さんが「すみません今日はもう帰ります。両親も心配するので」というので別れることになった。

 気を付けてね、と挨拶を済ませると野々原さんはそそくさと去っていった。よほど聞かれたくなかったのだろうか。


「どう思う。野々原さん」


 美紀が楽しそうに尋ねてきた。


「いい人だと思うけど」


「だよね。可愛いし」


「確かに」


 野々原さんは体格と顔が小さく、髪が絹のようにサラサラしている。お淑やかという言葉がよく似合うお嬢様って感じの女の子だ。


「私とどっちが可愛い?」


「そんなめんどくさいこと言う奴は可愛くない」


「つまんねー」


「そんなん言わなくてもいいってこと」


「あっそ。まあいいや。てかさ、彼氏さんを倒す? というか何かあって病院送りにした人を見つけてどうするつもりなんだろ」


「さあね。謝罪してもらいたいんじゃない?」


「あーわかるかも。その光景が目に浮かぶ」


 犯人に「謝罪してください」と怒りつつも冷静に徹する野々原さんの姿は想像に難くない。


「だな。まあ変なことにならなければいいんじゃない」


「とりあえず明日はキス魔のこと探そっかな」


「美紀。それ本人には絶対言うなよ」


「わかってるって」


 駅に向かってる途中、野々原さんから俺たちにそれぞれメッセージが届いた。

 今日はありがとうございましたという旨の文と、美紀の方には明日はよろしくお願いしますと付け加えられたいた。紹介するときは俺もいるんだけどな。いいけど。

 丁寧だ。やっぱりいい人なんだろう。

 琴原先輩は野々原さんの話を聞いてくれるだろうか。協力してくれればいいけど、あの人は何考えてるかわからないからなあ。

 滅茶苦茶だけどなんやかんや人助け的なことをしているらしいし、心配する必要はないだろう。たぶん。きっと。


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