二話 宮川皇司 → 田中美桜① 四月二十一日
彼女の機嫌が良くない。
機嫌というか、態度というか。最近の美桜は前よりも距離がある気がする。
これはなんというか、彼氏として間違いないと確信に近いものを持っている。
つまり、この俺宮川皇司が田中美桜に飽きられているのではないかと言うことだ。
今だって俺は琴原先輩に少しの間、目を奪われていたというのに文句のひとつも言ってこない。
話したことと言えば「あの人こんなとこに来るんだな」「そりゃ来るでしょ」ぐらいだった。
なんかいきなり琴原先輩が男子にキスをして何やら修羅場ってたようだけど、明日は我が身な気がしてならない。キスの方じゃなく、修羅場の方が。
「そろそろ教室戻る?」
すでにお弁当は食べ終えており、することも特に無くなったので、そう問いかけると美桜は「そうだね」と返事をした。
短い。
戻る準備をしている美桜を見てそう思った。
前はもっと「えー。もう戻るの?」とか言ってくれていた。
「何してんの?」
「あ、ごめん」
俺は弁当箱を持って立ち上がった。
美桜はもう歩き始めていて、その後を追いかけた。
このところそんな悩みばかりだ。気づけば美桜のことを考えている気がする。だって、何を考えているか全然わからない。
彼女が以前よりも素っ気なくなった原因を何度も考えた。ネットで「彼女 不機嫌」とかって検索してみようかとも思ったけど、そこに美桜のことは載っていないだろうし、何か違う気がした。
考え付いたのは大きく分けて三つだ。
サプライズ的な何かを企てている、という前向きコース。
俺との付き合いよりも優先すべきことができたという納得できるコース。
俺との付き合いに飽きたという最悪コース。
飽きた以外の二つならいい。もしもそれなら俺はどうしたらいいのだろうか。
美桜の口から何を思っているのか聞いたことはない。だからきっと俺があれこれ考えて不安になるのもあんまり意味がないんだと思う。
それでも考えてしまう。
最初に出会った頃の美桜と今の美桜の違いを。
◆ ◆ ◆
あの人は何を考えているんだろう。あの人は私のことをどう思っているんだろう。
そんな風に悩む人たちは相当馬鹿なんだと思う。
だってどうでもよくない? 他人のこととか知ったことじゃないし。私が楽しければそれでいいじゃんって感じ。迷惑かけるのはよくないよ? でもさ、私の気持ちとかを犠牲にしてまで気遣うことじゃないと思う。
私が好きだなーって思ったのはそういう理由だった。
去年の三学期が始まってすぐのことだった。休み時間の時、私は友達と最近はやりのK-POPアーティストの話で盛り上がっていた。ふとお手洗いに行こうと思って、教室を出て廊下にいた男子集団を横切った時だった。
「―――ってなことがあってさ」
「うわー。最悪だなその先輩」
「やっぱそうだよな。一々口出してくんのまじでやめてほしいわ」
「いい年こいてバイトなのもヤバいな」
「だよな。あーバイトだりいわ」
どうやらアルバイト先のことの話のようだ。
バイトを始めて、嫌な先輩がいたというのはよくある話だ。まあ私なら気にしないけど。何か言われたら「はーい」、「そうですねー」とか言って適当に誤魔化す。本当にやるべきことはやるけど、それ以外は無視すればいいじゃんって思う。
「んー。まあほっといていいんじゃない?」
そう言ったのが皇司だった。
思わず足を止めた。
もしかしたら私と同じような考えを持っている人なのではないかと思ったからだ。
「大事なことなら自分で失敗したってわかるし。それでも何か言われたらもう辞めちゃえばいいと思う」
ふむ。
これは中々。
私に考えに近い物を彼は持っている。
そうだ。アルバイトだろうが正社員だろうが、自分が気に食わないと思ったことはやらなくていいし、それが通らなければ辞めればいい。なんとかなるでしょ。それぐらいで。
この時私はちょっとばかし上機嫌で彼らの方へ向かった。
「ねえ。おもしろいこと話してるね」
そう話しかけた私の判断は間違ってなかったと思う。
実際に話してみて分かったけど、皇司は私と同じような思考回路をしていた。
自分が楽しむことが一番大事で、それ以外のことは二の次でいい。他人のことも将来のことも。自分がやりたいことをやり続けていれば結果は後からついてくるんじゃない?
そういう感じのことだ。
しかも幸運なことに私と皇司は趣味が一致していることが多かった。
食べ物は二人ともファーストフードが好きだし、映画やドラマはハラハラドキドキするものが好みだったし、漫画よりも小説を読んでいたし、音楽はシティーポップをよく聴いているし、運動は二人とも大好きだし、好きなお笑い芸人も同じだし、あとは何だろう。お出かけの先への距離感も同じぐらいだった。
まあとにかく共通点がいっぱいだったのだ。
私は階段の踊り場で振り返った。降りている途中の皇司と目が合った。
「どうしたの?」
皇司は少し困った顔になっていた。なんで私が振り返ったのかということにではない。私への接し方を決めかねているんだろう。
「何でもない」
私は階段を再び降りていった。
小さくため息。もちろん私が。
皇司が理想のパートナーだと思っていた。でも実際そうじゃない? 食べ物も音楽も娯楽も笑いのツボも何もかも一緒なんだもん。誰だってそう思うんじゃない?
人生観って言うのかな。生き方のスタンス? みたいなものも私と同じものを持っている。これ以上の相手ってどこにいるんだろうか。ついでに顔もまあまあかっこいいし。
たぶん、それがよくなかったんだろう。
何が問題って、皇司が私にハマったのだ。
いやいやいいじゃん、って思うでしょう。
ところが私にとってはこれが一番よくない。私にとって一番大事なのは「自分が最も楽しい」ことだ。
それを他人にまで強要するつもりはこれっぽっちもないけど、さすがに恋人にぐらいは求めてもいいと思う。私は「私を好きな人」といたいんじゃなくて「自分が楽しいことをする」人と一緒にいたいのだ。そして、その時その場所でしたことを共有できればそれでいい。
今の皇司は自分を一番に考えていない。私を一番に考えているのだ。私が好きで、私のために何をしようか。そんなことを考えているみたいだ。
その証拠に、ここ最近は「どこか行きたいところある?」とか「食べたいものとかは?」とかしきりに私の意見を求めてくるようになった。
ぶっちゃけもう別れたい。
めんどくさい。
どうやって別れを切り出そうか。なんて悩むこともあるくらいだ。それもまためんどくさい。そういうので悩むのが嫌なんだよね。
「ねえ皇司」
階段を降り切ったところで私はくるっと回転した。
皇司は右足を一段目に、左足を二段目に置いていた。
「うん」
皇司は馬鹿じゃない。むしろ頭がいい方だ。勉強に関しても、物事の考え方にしても。
だから皇司は必死に今のことを、私のことを考え続けているのだろう。どうして関係が悪化したのか。
私が求めていることはわからなかったみたいだけど。修復したいなら私が私のことを教えてやるべきだけど、それは違う。
そんなことはしたくない。それは私じゃない。
私にとって皇司はつまらない人間になった。それがすべてだ。
「別れよう」
なんとなく、そう切り出される雰囲気は感じていたのだろう。
男子生徒が二人近くを通りがかった。ここは普通の通路だ。昼休み真っ只中と言っても、やっぱり人は通る。
こんなところでする話じゃないのかもしれない。普通なら。私はそんなこと気にしない。どうでもいい。でも、普通ならどう思うかってことを考えている時点で、私は普通なのかもしれない。
わからない。わからないけど、私は今この話をしたかった。
皇司はあまり驚かなかった。少なくともそう見えた。
「わかったよ」
そんなわけで私たちは恋人関係を解消した。
あー、すっきりした。
◆ ◆ ◆
私のやりたいこと。
今のそれは音楽だ。吹奏楽やピアノとかそんなかっちりしたものじゃなくて、ギターをやりたい。というかやっている。そもそもピアノは子供のころにやっていたし。
去年の二月くらいから暇さえあれば家でギターに触れている。ちなみにギターは叔父が昔使っていたというものをもらった。
最初の方はYouTubeの初心者講座の動画とかを見ながら練習して、ついでにその練習風景を動画にして投稿していたらなんか結構伸びた。
顔は出てないけど、声を出しているからかな。動画の最初とか途中に「今日は〇〇やりまーす」とか「まじでムズいわ」とか「あ、今の弾けたくない?」とか気ままに呟くくらいだけど。
今では皇司よりもギターの方が好きかな。
始めたてのころはまだ皇司の方が好きだった。初めて曲を通して引けた時くらいには両方とも同じくらいだった。
でもまあ今思えば、ギターを始めたってことを皇司に言ってなかったってことは、その時もう既に飽きかけてたってことかもしれない。
チャイムが鳴った。
放課後だ。教科の先生が教室から出て、入れ替わるように担任の先生が入ってきた。
担任から言われた連絡事項を話半分に聞く。体育祭がもうすぐなので、そろそろ練習が始まるみたい。運動に練習ってなんだよって感じだ。
2年は大縄跳びをするらしい。あれの練習が一番無駄だと思う。だってあれってできない人はできないじゃん。特に陰気な人達。
うちのクラスで言うと松下とか大山とか。彼女たちはいかにも運動できませんって感じだ。男子で言うと遠坂とか小泉とか。
あの人たち、体育祭の当日休めばいいのなーっていつも思う。酷いかな。でも事実だし。何回やってもできる気配ないし。それならもう来ない方がいいと思うんだよね。鬱陶しいし。これも酷いかな。
「で、美桜は?」
「あごめん何?」
気づいたら先生の姿はなく、クラスメイトは次々と教室から出て行き始めていた。
え、いつの間にって感じ。そんなに考え込んでたっけ。
「だからー。カラオケ。私たち行くんだけど美桜はどうする?」
そんな話になってたんだ。
カラオケかー。いいね。好きだよカラオケ。喉が枯れるまで叫ぶのは大好き。でも春奈とかはそういうのじゃないだろうし。
流行りのポップスを歌うかネタ曲で馬鹿笑いするかって感じ。私は真面目に歌いたい派だから正直合わないと思う。
だから、
「んーめんどいからパス」
「えーまたー?」
「1回くらい来てよ。あ、ひょっとしてめっちゃ下手だったり?」
春奈と木村は不満アリアリって感じ。和賀は特に何も言わない。どっちでもいいと思ってそう。
「違いますー。天才的に上手だっつーの」
「ほんとかなー?」
「どっちでもいいだろ。まあ田中もたまには来いよ」
なんだ。やっぱり和賀も来て欲しいのか。
「ごめんごめん。また今度ね」
「そんなこと言って美桜はいっつも来ないじゃん」
「ほら、今度スタバ奢るから」
「あ、言ったな。もうセーブしたから忘れないから」
「わかったわかった」
忘れんなよーと和賀が言い残して3人は去っていった。
春奈たちと遊びたいって気持ちはあるけど、やっぱり今はギターをしていたい。
教室を出た。
部活動に向かう同級生たちが廊下で入り乱れている。その間を縫うようにして1階の下足室に向かった。
靴箱を開いて、靴を取り出した。
運動部らしき2人組がふざけていた拍子に私にぶつかりそうになった。
ちっ、と舌打ちをすると「ご、ごめん」とそそくさと去っていった。去り際に「田中こえー」「貞子よりこえーよ」と聞こえたので、靴を床に強めに叩きつけると男子2人は一瞬だけ振り向いた。
私が睨むと脱兎のごとく走っていった。
足早。陸上部かな。
なんでもいっか。男子ってほんとに落ち着きがない。皇司はずいぶん大人だったんだな。
「ミザクラさんかな?」
そう声をかけられたのは校門を出てしばらくしてからだった。
駅に向かうところだったので結構学生がいた。その中でネット活動時の名前を呼ばれるのはかなり焦る。
「読み方間違ってますよ。美しい桜って書いてミオウって読むんです」
いかにもネット活動なんて頭の中にありませんって反応をしながら、私は声の方に身を翻した。
まじ?
思わず目を疑った。
「琴原、先輩」
彼女は恐ろしいほど綺麗だった。
人形のように小さな頭とそこから伸びる祖母譲りの金髪は絹のように細くしなやかで、熟練の職人が丹精込めて作り上げたとしか思えない。
身長は私より少し高いくらいだろう。なのになんで彼女はこうも大きく見えるのだろうか。
なんて詩的に表現させられるほどの魅力が琴原先輩にはある。
顔ちっちゃ。目でか。髪きっれ。普通の美人を見たらそんな感想になる。
「ほう。私のことを知っているのか」
瑞々しい唇がフルートみたいな繊細な声を奏でた。
真珠のように美しい目を、長いまつ毛が行ったり来たりする。そこからはきっと人を惹きつける魔法の粉でも溢れ出ているのだろう。
いやいやいや。どんだけ美人なんだよこの人。私も可愛くあろうとしてたけど、もはや次元が違う。アニメのキャラをそのまま持ってきたみたいだ。
「そりゃまあ。有名ですし」
音楽の授業で合唱の時、音楽の先生が琴原先輩のピアノを聴いて涙を流したのは誰もが知ってる。
琴原先輩に告白したイケメンをその場で振った後に、ある女生徒を勧めたことがあるらしい。すると彼らは仲睦まじいカップルになったという話もある。
「そうなのか」
「そうなのかって、自覚なしですか? まじですか」
「それで、美桜さんに相談があるんだが」
無視ですか。
「なんでしょうか?」
この人が私に相談って、何を?
接点と言えば同じ学校ということぐらいだけど。
「私と音楽活動をしないか」
「は?」
おっと。思わず素が出ちゃった。
もし今、私が聞いたことが正しければ、私が音楽活動をしているということをこの人は知っているということになる。
あーそういうこと。
最初に私を「ミザクラさん」って呼んだのも知ってたってことだ。
でもでも。さっきのは聞き間違いかもしれない。私の「バレたくない」っていう感情が無意識のうちに聴覚を狂わせたのかもしれない。
もう一回聞いてみよう。
「あの、今なんて言いました?」
琴原先輩は返事の代わりにスマホの画面を私に向けた。動画投稿サイトが映っている。そして琴原先輩の細くしなやかな人差し指が画面に触れた。
『そんな街をみているだけで〜息が掠れる〜』
そんな歌詞をピアノの旋律に乗せた聞き覚えのある、いや、歌い覚えのありすぎる歌だった。
「や、やめてください! ストップストップ、ストップです!」
思わず手が前に出た。
抗議しても動画は止まらなかった。ここは駅に向かう道だから当然他の生徒もいる。
そんなところで「ミザクラ」の動画を見られたり聞かれたりするのは堪えられない。私の学校生活に関わる重要案件だ。
「止めて、下さい!」
前に出た手をスマホに伸ばしたら、触れる数センチのところでスマホがするっと動いた。
その後を追って、追って、飛んで、追って、回って、飛んだ。
琴原先輩は「はっはっは」とか変な笑い方をして私の全力の猛襲をすんでのところで凌いでいる。まるで魔法みたいだ。なんなんだこの人。
1分ぐらいは飛び回ったけどかすりもしなかった。
「もう一度言おうか」
こっちがぜーぜー言って膝に手を着いて休むと琴原先輩はスマホを取り下げた。
「私と音楽活動をしよう。『ミザクラ』さん」
琴原先輩は、向けられればすべてを許してしまいそうになる笑顔をしていた。
どう見たって天使のようにしか見えないけど、私にはその笑顔の正体が悪魔か何かだとしか思えなかった。
ほんと、なんなんだこの人。