母の記憶
二通目の手紙をもらってから一週間ほどが経っていたものの、手紙の差出人の関する手がかりは一つと見つからず、手紙に繋がるような記憶さえも思い出すことはなかった。
それどころか僕には手紙のこと以外でも、また新たに悩みが増えてしまっていた。
今の日々は僕にとって、勿体無いくらい幸せな日々ではあった。
けどその日々の中で、ときどきふと悲しくなるような、寂しくなるような……
今の僕にはまだ足りない何かがあると、そう言うように自分自身を苦しめられる瞬間があった。
その欠けているものが、僕が記憶を取り戻すことで補われそうな。
そんな気がしていた。
それに何より僕が記憶を取り戻すことで、想像できるほどに喜んでくれる人達がいる……
その姿を想像する度、早く記憶を取り戻したいという思いを強めてはいたが、一度無くしたものはそう簡単に戻ってくることはない。
帰り道の電車に揺られながらその現実を知り、心が沈むまま家へと辿り着いていた。
玄関のドアノブに手を掛けドアを開けると、いつでも優しく迎え入れてくれる母……
「おかえり。
今日は遼介が好きだった肉じゃがを作ってみたよ」
僕がいつ、どんな顔で帰ってこようと母はいつも優しい笑顔を見せ、今日もそれが変わることはなかった。
「うん。
ありがとう……」
僕はそんな母を見て、また申し訳なく思いそうだった。
僕は二階の部屋へ荷物を置くと、母の手料理の匂いが広がる一階へと降りた。
「「いただきまーす」」
(そういえば、肉じゃがは初めてだっけ……)
僕は記憶上で初めて食べる肉じゃがを、一口目から口一杯に入れた。
「どう?」
母は心配そうに首を傾げながら僕の様子を窺っていた。
「美味しい……」
僕がそう言うと、母は安心したように自分も食べ始めていた。
「遼介はね、
記憶を無くす前、母さんの肉じゃがが一番好きだって言ってたんだよ」
母は嬉しそうに言っていた。
確かに、以前の自分が一番好きだったと言うのに納得がいく味だった。
「うん。本当に美味しいよ」
今の自分も美味しいと感じている。
その気持ちを素直に母に伝えると、母は僕を見て、
「これが最後になってもいいって、思えるくらい?」と聞いてきた。
それは一見、どう言う意味なのか分からない言葉……
でも僕はその言葉を遠い昔で聞いたことがある。そんな気がした……
母は昔から少し変わってはいたが、誰よりも心は素直で真っ直ぐな人だった。
何気ない日の夕飯。
美味しいと言った僕に対し、母は同じ質問をした。
『これが最後でもいいって思える?』
『最後……?』
『そう、最後』
最初はその意味を理解することができず、どう言う意味なのか。
頭の中で母の質問に追いつこうとひたすら考えた。
眉間に皴を寄せ考え込む僕を見て、母は点けっぱなしだったテレビニュースに顔を向けていた。
顔を向けたと同時に、母はなぜそんなことを僕に聞いたのかを説明し始めた。
『同じ世の中でも、昨日と同じように十分な食事を取れない人だっている。
それにはいろんな理由があると思うけど、実際は私たちも同じで、明日遼介の身に何が起こるか。いつが最後の晩餐になるのか。なんて分からないでしょ?』
そう言うと母は、テレビから僕の方に顔を移した。
『だからね。遼介にはいつが最後になってもいいと思えるくらい、毎日美味しいものを食べさせてあげたいの』
一見どういう意味なのか分からなかった言葉。
それは母の優しさや、母が僕のことを思う気持ちが詰まった言葉だったことを僕は知った。
母の思いを知った僕はその時……
「後悔しない。
だって母さんが僕を思って作ってくれたんだから」そう答えた。
そして僕は今、その時と同じように母に答えていた。
母も僕が過去に言ったその言葉を覚えていたのか、僕のその一言で僕の記憶が戻ったのだと悟った母は、ただ何も言わず涙していた。
母の涙を見て、僕は事故に遭ってから一度も母の涙を見ていなかったことに気付いた。
昔から涙脆くて、何かあればすぐに涙を流していた母。
その母はこの数ヶ月間、僕の前では常に笑顔でいるように努力していたんだろうと僕は思った。
それがどれだけ長く辛い期間だったか、目の前の母の涙で全て分かった。
まだ顔に涙が伝うまま僕に優しく微笑む母の姿は、僕の中で温かい太陽のように映った。
母の涙はその後もしばらく止まることはなかった。
しばらくして母が少し泣き止んだ時、母はあることを教えてくれた。
「実はね。
遼介が記憶を無くす前に最後に食べたのが、この肉じゃがだったの……
その日から本当に最後の晩餐になってしまった気がして、作るのがとても怖くなってたんだ。」
母は事故の日から今日まで、ずっと一人で抱えていた葛藤を話してくれた。
「でも……
勇気を出して、今日作ってよかった」
笑顔で言った母の目からは、また一筋涙が溢れていた。
僕はその笑顔を見てもらい泣きしそうになりながら母に伝えた。
「母さんが作ってくれた肉じゃがの味、ちゃんと思い出したよ。でも……
今日の肉じゃがが、今まで食べたどの肉じゃがよりも一番美味しいかな」
僕は照れながらも正直に伝えた。
「また作ってあげる。
何回でも、遼介が飽きるまで作ってあげる」
「うん。
楽しみにしてる」
僕はこの味をきっかけに、忘れたままになっていた母という存在。
母との記憶をもう二度と忘れないと、この涙に誓った。