以前の自分
治療も順調に進んでいき、元の生活に戻れるよう少しずつリハビリ治療も始めていた。
リハビリを始めてから数週間後。
僕の退院より一足先に二学期が始まった。
そして事故にあってから一ヶ月ほど過ぎ、始業式から少し遅れた今日。
記憶を無くしてから初めて学校に登校するべく、僕は学校に続く駅からの道のりを歩いているところだった。
以前は知哉たちと一緒に自転車通学をしていたらしいが、学校の道のりに慣れるまでは電車の方が行きやすいだろうと、母は僕に電車通学を薦めた。
僕は母が教えてくれた行き方をもとに、学校へと向かった。
久しぶりの学校。本来なら明るい気持ちでいっぱいになれるのかもしれないが、今の僕はその真逆だった。
退院するまでの間、母や知哉。他にも僕は多数の人からの協力を得ていた。
皆は僕が記憶を思い出すのを願い、きっと毎日病院まで足を運んでくれていたことであろう……
でも僕はその期待を裏切り、何一つ思い出せることはなかった。
思い出せる気配さえ感じない僕は、まだ僅かな可能性を信じているかもしれない人達をよそに、もうこのまま思い出せることはないのかもしれないと苦しんでいた。
沈む気持ちで歩いていると、いつの間にか正門前まで辿り着いていた。
「よっ、元気だったか?」
一時間目を終え休憩時間に入っていた知哉は、僕のことを門まで迎えに来てくれていた。
「うん……まぁまぁかな」
明るく声をかけてくれた知哉とは反対に、僕は暗い返事を返してしまった。
「そっか」
知哉はそれ以上何も言わず、ただその一言を優しく言った。
そのまま教室の方向へと歩き出す知哉に、僕は黙ってついていった。
教室まで向かう階段を登っていると、二時間目の始まりを告げるチャイムの音が鳴った。
それまで騒がしい声が響いていた廊下は急に静かになった。
「ここが俺たちの教室」
知哉はそう言うと一人で教室に入っていき、教卓で授業の準備をしていた担任の先生と何か話をしていた。
知哉の話を聞いた先生は、僕の方を少し見て微笑んだ。
僕はどうしたらいいか分からず廊下で固まっていると、知哉は僕をここまで連れてくるという役割を果たしたからか、先生との話が終わるとそのまま自分の席へと座ってしまった。
でも知哉が自分の席へ戻ると同時に、知哉の代わりに先生が僕のもとへと近付いてきてくれた。
「久しぶりだな、江波」
事情を知ってくれていた先生はそう僕に一言声をかけ、踏み出せなかった僕の肩を優しく押し、教室まで導いてくれた。
僕は先生に導かれるまま教室の前に立ち、教室全体を見渡した。
そこには僕と同じクラスの生徒が揃って着席していて、皆僕のことを見ていた。
「遼介も今日からまた一緒に登校できるようになった。だから……」
先生が教室の前で話すと、まだ言いかけた先生の言葉を遮るようにクラスから歓声が起きた。
(これは僕に向けてなのだろうか……)
僕には、クラスの全員が僕を歓迎してくれているように見えた。
(でも違うんだ……)
一瞬勘違いしそうになってしまった。
この歓声は、僕に向けられたものではない。みんなが待っていたのは今の僕ではなく、僕だけが知らない自分なんだ……
これほどまでに皆に愛されていた自分。
そのことが記憶が戻らない僕に、よりプレッシャーとして感じることとなった。
学校初日を終え、僕は落ち込んだ気持ちで家へ帰った。
玄関の扉を開けると、そこには母がいた。
「おかえり。
学校、どんな感じだった?」
玄関まで迎えにきてくれた母は、僕を見るなり聞いてきた。
「うん……」
母の質問に僕はあまりいい返事を返せないまま、母の顔を曇らせてしまった。
「記憶を無くす前の僕はきっと、すごい人だったんだね……」
母の顔を見て、僕は思ったままのことを口にした。
「うん、そうだね」
母は僕の言葉を肯定して答えた。
(やっぱりそうだったんだ……)
今の自分でいることしかできない自分をただ申し訳なく思い、それをどうすることもできないことを悲しく思った。
「でも今の遼介も、変わらないくらいすごいけどね」
「え……?」
下を向いていた僕は母の言葉に驚き、母の顔を見上げた。
「だって私の息子だもん。
どんな姿でも、どんな人になっても、根本的なものは変わらないでしょ?
私にとってはいつでも自慢の息子だし、家族っていうのは記憶を無くしたくらいで浅くなるような関係じゃないの。
だから母として一つ今の遼介に不満を言うなら、もっと母や周りを頼りなさいってことかな」
母は笑顔でそう言った。
初めて聞いた母の本音……
記憶を無くした自分は違うと、どこか自分から周りと距離を作っていた。でも母は……
「今の僕でも、家族だと思ってくれるの……?」
母は僕の質問に呆れ笑いをしながら優しく答えてくれた。
「私がいつ家族じゃないなんて言ったの?
私は遼介の目が覚めた時から今日までずっと、遼介の母だって言ってきたつもりだけど?」
母が呆れて言ったその言葉が僕には嬉しかった。
ずっと孤独だと思っていた僕は、初めて家族という感情を手に入れた気がした。
「たとえこのまま遼介に記憶が戻らなかったとしても、私の中にはずっと遼介との思い出が残ってる。
私が忘れるまで、その思い出がなくなることなんてない。
思い出せないことで辛くなるなら、遼介が思い出せるまで何度でも話してあげる」
そう言うと母は僕の手を握った。
「それにね。記憶がない今の遼介との時間だって、いつか大切な思い出になるんだよ」
それは嘘一つない、優しい手だった。
僕は今まで、誰かのために記憶を取り戻さなきゃいけないんだと勘違いしていた。
でも本当は僕が、誰よりも知りたかった。
僕が忘れた記憶の中にある、数えきれないほどの思い出を……
誰かのためでなく自分のために思い出したい。そう気付いた。
「ありがとう。
でも僕は僕のために、幸せだったはずの記憶を思い出すよ」
「無理はしないでね」
きっと幸せな記憶が増え続けること。それだけはずっと変わらない……