目覚めてから今日になるまで
ここはどこなんだろう……
見るもの全てが初めて目にするような感覚で……
十七年間培ってきたはずの僕の記憶は、一瞬のうちにして空っぽになっていた。
それがどんな記憶だったのかなんて、今の僕には分からない。
でもそれは、とても大切なものだったような……
そんな虚しさだけが、空っぽになった僕に唯一残っているものだった。
今から一ヶ月ほど前。
気が付くと、誰かが僕の右手を握りながら、
「遼介、遼介」
何度も繰り返す声が聞こえる……
(遼介って、何だろう……)
まだ意識がはっきりしないまま薄目を開けると、僕の目には真っ白な天井が見えた。
「遼介、分かる……?」
その間にも聞こえる声……
気になった声の方へ顔を向けると、見覚えのない女の人が僕に向かって、
「遼介……」と呼びかけ涙を流していた。
(この方は誰なんだろう……)
僕はその状況を理解できないまま、反対の左側に目を向けた。
「目が覚めたみたいだね。良かった」
白衣を着た男の人が僕を見て言った。
目が覚めたばかりの重たい瞼と、今が夜ではないことを知らせる日差し。
僕は真っ白なベットの上で沢山のチューブに繋がれていた。
(僕はどれくらい眠っていたんだろう……
眠る前、僕に何が……
あれ……僕……
僕って、誰のことだっけ……)
そう考えているうち僕はまたも眠気に襲われ、自然とまた目を瞑っていた。
僕が眠りに落ちている中、母は担当医から僕の診断結果を聞かされていた。
「記憶障害、ですか……?」
「はい。
息子さんは事故の衝撃により、頭を強く強打しています。
それにより脳の一部を損傷し、基本的生活習慣及び学校等で習った学業、それ以外の記憶を思い出せない状況にあります。
簡単に言えば、人物、人物が関わる思い出など、喜怒哀楽を交えた記憶。
息子さんの場合は、自分自身が誰なのかさえ理解できていない状況にあると思われます。」
「そんな……
息子の記憶が戻ることは、もうないってことですか……?」
母が聞くと、医師は何かを思うように少し下を向き、
「記憶というのは、とても曖昧なものです。
少しのきっかけで全てを思い出すこともあれば、この先永遠に記憶が戻らないこともあります……」
重苦しい空気と共に医師は現実を突きつけた。
「でも可能性がある限り、私たちもできる限りの全力を尽くします。
だからお母さんも、諦めないでください……」
医師も母同様、事故による後遺症を悲しむように母の背中を押した。
担当医からの話を聞いた母は、沈むように病院の廊下を歩いていた。
そんな母に気付き、心配して声を掛ける人がいた。
「おばさん? どうしたんですか?」
母に話しかけた人は、僕が後に分かることになる幼馴染の存在だった。
「あ、知哉君……遼介の病室に向かうところよね?
私も今、戻ろうとしていたとこなの……」
母は悲しみを隠すように言った。でもそのことに知哉は気づいた。
「何かあったんですか?
顔色、少し悪いような気がして……」
「あ、ごめんね。その……
実は、遼介の目が覚めたの……」
母は言葉に詰まりながらも知哉に伝えた。
「え、本当ですか?
良かった……」
知哉は僕に意識が戻ったことに安心し、喜んでくれた。
「でも遼介は……」
喜ぶ知哉に、続けて母は担当医から聞いた通りの診断を話した。
「記憶がないって、そんな……」
「せっかく来てくれているのに、いい報告ができなくてごめんね」
母は涙ぐみ言った。
「そんなこと、気にしないでください。おばさんが悪いわけじゃないですから……」
知哉の声は語尾にかけて小さくなっていった。
「うん……」
「あの、何か俺にもできることがあれば手伝います。
だから、一人で抱え込まないでください」
知哉は切り替え、真っ直ぐ母を見て言った。
「ありがとう……」
そう言った母は少し間を空け、何かを考えたようにもう一度口を開いた。
「あのね、このことは秘密にしておいてほしいの。」
「秘密? 記憶のことをですか?」
「うん……」
「それは、どうして……」
母は僕が記憶を無くしたことで、他の誰でもない僕自身の心情を気にしてくれていた。
「記憶がなかったら、周りからの視線や態度もきっと変わる……
もうこれ以上、遼介に苦しんでほしくないの……」
それから母は、僕に記憶が戻ることを諦めてはいなかった。
「記憶を戻すには、きっかけが大事だって。
だから、以前と変わらない日々に少しでも近づけることで過去の記憶を思い出せないかなって……」
記憶を思い出すためには、今と変わらない環境のままで……
それが母の考えだった。
「少しでも可能性が上がるなら、私は信じたいの……」
「そうですか……」
考えを聞いた知哉は、何とも言えない表情になっていた。
「ごめんね……
知哉君にも迷惑かけることは分かってるのに、こんな考え方しかできなくて……」
母は自分のその考えが難しいことを意味しているというのは分かっていた。
でもこの時の母には、ほんのわずかな希望しかなかった。
「いえ。
記憶を無くした遼介のために、俺に何ができるかなって考えてただけです。
でも遼介のためです。俺も頑張ります」
知哉の言葉を聞き、母は少し微笑んだ。
「知哉君……
本当にありがとう」
そう言われ、知哉も少し笑みを見せた。
「一応学校のこともあるし、担任の先生には私から事情を伝えるつもりでいるから」
二学期からの登校日や事故後の報告など、これからの学校生活のためにも担任には話さざるを得なかった。
「あの、それなら俺からも一つ。
遼介の友達って俺だけじゃないっていうか、俺だけじゃ賄えないところもあるし……
遼介と仲良くしてた数人にはこの事、俺から伝えてもいいですか?」
知哉からの質問に、母は優しく答えた。
「うん、大丈夫。大勢の人に伝えたくないだけだから。
知哉君一人に大変な思いはさせたくないし、無理のない程度でいいからね」
それを聞いた知哉は安心したように微笑んだ。
僕が次に目を開けた時、そこには誰もいなくなっていた。
目が覚めてすぐ、僕は考えた。
自分が誰なのか。さっきまでここにいたあの人は……
ここに来る前、何があったのか。
(何も思い出せない……)
僕はパニックになり、現状を理解できないまま呆然となった。
しばらくして、母が病室へと戻ってきた。
母の隣には、母と廊下で会った知哉も一緒だった。
母は、呆然と視線の先にある壁だけを眺める僕を見て、
「大丈夫……?」と聞き、ベッド横に置いてあった椅子に腰をかけた。
母は何も答えない僕を見て、心配そうに知哉と目を合わせていた。
母と知哉はお互いに少し頷き、母は僕の方を見て言った。
「遼介、じゃなくて……君に何があったのか。
私たちが誰なのか。今から全部説明するね」
そう言って母は説明を始めた。
「君の名前は江波遼介。高校2年生の17歳。」
続けて自分が母であり、知哉が僕と保育園の頃からの幼馴染であることなど、僕のことや僕の周りの人たちを簡易的に説明された。
「よろしく」
知哉は僕を見て笑顔で言った。
「よろしく……お願いします……」
僕は動揺するまま返事を返した。
それから母は僕の身に何があったのかを話した。
「今日は2017年7月28日。
遼介は夏休みに入ってすぐ、交通事故に遭ったの。
今日まで事故に遭ってから三日間、あなたはずっと意識を失ったままだった。」
(三日間……僕はそんなに眠っていたんだ……)
「それでさっき、担当医の方から診断結果を聞きに行ってきたの……」
母が言うには、僕は事故によって全治1ヶ月ほどの怪我を負ったとのこと。
でも怪我以上に頭を強く強打したことでの記憶損傷が激しく、それに対しての治療は難しいとのことだった。
母の言い方で、僕は悟った。
「なら僕の記憶はもう……」可能性が低いのだと。
僕の感じ取ったことが正しかったのか、母と知哉の間には沈黙があった。
でも次に口を開いた母の言葉は、「戻るよ。記憶は戻るって」
確かに戻る可能性はある。
でもそれは低いということを、この時の僕に母が言うことはなかった。
「時間は掛かるかもしれない。
それでも、ゆっくり頑張っていこう。ね」
母は僕の手を握り、優しく僕を励ました。
「俺も協力するし、一緒に頑張ろうな」
母に続くように知哉が言い、その言い方はとても頼もしく見えた。
僕が記憶を無くしたと知って以来、母は病室へ僕のアルバムを持って来るようになった。
一枚一枚の写真を指差し、それぞれの思い出を嬉しそうに話す母……
その話を何一つ思い出すことのできない日々に、僕は次第に苦しむようになった。
いつの日か、思い出せずに苦しむ僕の姿を見た母は少し悲しそうに微笑むようになり、僕はその微笑みを見るたび母への申し訳ないという罪悪感に駆られていた。
僕が目覚めてから数週間、母は一日も欠かすことなく僕の病室へと足を運んでくれていた。
思い出せない分、それがありがたくも苦しくもあった日。
「体調どう?」
「うん、元気だよ。」
「そっか、ならよかった」
「うん……」
「あのね、明日のことなんだけど……」
母は事務の仕事をしながら、いつもその合間を縫って僕の見舞いへと来てくれていた。でも、
「ごめんね。
明日は急用が入って、どうしても来られそうになくて……」
「うん、分かった。
僕のことは気にしなくて大丈夫だよ。」
「ほんとにごめんね。
でもその代わり、明日は知哉君がお見舞いに来てくれるって」
(知哉……)
「そっか、ありがとう。」
明日母が来ないということに少し安心しつつ、新たに知哉が来るということを不安に思った。
次の日、僕は病室で一人。昼過ぎに来るという知哉のことを待っていた。
予定より数分早いか、それくらいの時間に僕の病室のドアが開いた。
僕は当然、扉の先には知哉の姿があると思っていた。
でもそこにいたのは知哉ではなく、僕や知哉と同い年くらいに見える女子だった。
その人は病室に足を踏み入れるやいなや、「大丈夫?」と親しげにベッドで横になっていた僕に話しかけてきた。
「えっと……」
(この人も僕の知り合いなのか……?)
その人が誰なのか分からない僕は、ただ返答に困っていた。
そうこうしているうちにまたも扉が開き、今度は予定通り知哉が扉の前に立っていた。
知哉はその女子のことを見るなり、「おい日菜、何でお前がここにいんだよ」
その女子のことを知っているのか、僕には二人が親しい間柄に見えた。
「何でって、私は遼介がここで入院してるって聞いたから。
そういう知哉こそ何で?」
「俺は元々この時間に来る予定だったんだよ。だよな?遼介」
「あ、うん……」
僕の病室で広がる二人の会話に僕だけが入れないまま、二人を見てしばらく呆然としていた。
(この二人が知り合いなのは十分に分かったし、きっと僕とも知り合いだっていうことも……
でも日菜っていう子は僕とどういう繋がりが……?)
「あ、ごめん。
遼介にはまだ説明してなかったよな」
呆然とし、二人の会話について行けてなかった僕に途中で知哉が気付いてくれた。
「こいつは遠坂日菜。
今の俺たちと同じクラスで、お前とは高一からの仲になるな」
知哉の話によれば高二の現在のクラスでは三人一緒のクラスだが、高一の時は三人のうち知哉だけが別クラスだったとのこと。
でも同じクラスだった僕より先に知哉の方と仲良くなったんだとか……
「昨日知哉から遼介がここで入院してるって聞いて、今日お見舞いに来てみたの。
でも、何で今更私の説明なんかするの?
それに遼介の感じも、何かいつもと違う気がするっていうか……」
普段とは違う僕の違和感に、日菜は疑問を抱いていた。
「あぇっと、それは……」
『このことは秘密にしよう』
僕についての説明の後、母はそう言っていた。
母からの提案を鵜呑みにした僕は、日菜からの視線に動揺してしまった。
同じように、やらかしたと言わんばかりの顔をした知哉が、
「遼介ごめん、俺のせいだ。
お前に何があったのか、日菜にも話してもいいか?」
申し訳なさそうに僕に尋ねてきた。
「うん、大丈夫だよ。
きっともう誤魔化せないし、話していいよ」
僕は、僕の代わりに知哉に説明してもらうことにした。
「記憶がないって、そんなの冗談だよね……?」
日菜は想像以上の結果だったからなのか、知哉からの話を聞いて驚いていた。
「だからお前も協力しろよな。
あと、このことは絶対秘密だから」
日菜に知られることになったのが知哉的に気に食わなかったのか、驚きを隠せない日菜に少し冷たく知哉は言っていた。
「分かってるよ。
秘密は守るし、もちろん協力だってする。だって……」
何かを言いかけて、日菜は少し下を向くような素振りを見せていた。
「だって……?」
なかなか続きを言わない日菜に、知哉が聞き返した。
「私と遼介は、その……
付き合ってるから。」
「は?」「え?」
それを聞いた僕と知哉は、お互い似たような反応になった。
「そう、なのか?」
知哉は何故か僕に聞いてきた。
「いや、僕は覚えていないので……」
「あ、そっか。そうだよな……」
僕と知哉の間には、少し気まずい空気が流れた。
僕たちのやり取りを見た日菜は、
「私はちゃんと覚えてる。
夏休みに入ってすぐ、私が遼介を近所の公園に呼び出して告白したの。
そしたら、いいよって……」
日菜は勢いよく喋り出し、後半に連れて恥ずかしさなのか徐々に声が小さくなっていった。
「なんか分からないけど、おめでとう。
まぁ、身近な協力者が増えたってことで……」
「うん……」
適当な知哉からのお祝いを最後にこの会話は終了した。