9(王子の憂鬱)
あの春先の出来事から、約3か月。ガザン鉱山への視察が組まれた。ウィザードロゥから目と鼻の先にあるガザン鉱山への視察をいったい誰が仕組んだかなんてのは聞かなくても分かった。
ゲハードらしい気の回しようだが、視察中何度も悩み、最終的にイザベラと直接話をするためウィザードロゥに寄ることを決めたのはエリックだ。
ウィザードロゥへの先触れは…来訪を拒まれるのが怖くて出せなかった。
だがそのせいなのか、通された東屋では1時間もイザベラを待つこととなり、生きた心地がしなかった。
「お待たせして申し訳ございませんでした。イザベラ・オーガスタス、御身の前に失礼いたします」
艶やかな黒髪を背に流し、柔らかなモスリンのドレスに身を包んだ彼女は、相変わらず美しかった。
登城していたころより輝いて見えるのは、ウィザードロゥの水が彼女に合っていたのか、はたまたエリックの彼女に対する見方が変わったからか。
「…君がいつも手紙に書いてくれた庭を案内してくれないか。せっかく来たんだ。自慢の屋敷を紹介してくれ」
エスコートのために差し出した手は震えていなかっただろうか。
◆◆◆
イザベラの庭は彼女の趣味が全開でとても面白かった。
どこを見ても食べられる果実や植物ばかりが植わっているのだ。
ライドベリーの木の前では、普段自らつまんでいるのだろうにそれを隠そうとする彼女がいじらしく、ちょっかいをかけてしまった。
彼女の頬が朱に染まるたび、もしかして、という淡い期待が生まれる。
言ってほしい。エリックとの文通はイザベラが望んでしていたことだと。アナリーゼではなく、イザベラ自身が妃となるために裏で手をまわしていたのだと。
その無垢な笑顔の奥の感情を、すべて教えて欲しかった。
だがそんなエリックの願いとは裏腹に、彼女はどこまでも完璧なレディだった。
一分の隙もないように丁寧に結い上げられた黒髪は彼女の心を表すかのようで、庭では外れかけたかのように見えた心の仮面も、夕食の時にはきっちり付け直されていた。
核心に迫らせない会話にしびれを切らしたのはエリックだった。
イザベラが褒めるアナリーゼは確かに王妃にふさわしいかもしれないが、それはエリックにふさわしいというわけではない。
エリックは席を離れイザベラの前に跪づいた。
琥珀の瞳がエリックを見つめる。
「…イザベラ、帰ってこないか、王都に。君の居場所は私が作ろう」
過去に妃候補を落第させられたなんてことはどうとでもなる。
エリックはイザベラが頷いてくれたなら、この2年間、どれほどイザベラとの手紙のやり取りを楽しみにしていたか、どれだけイザベラに恋焦がれていたのかを伝えるつもりだった。
しかし―
「お洋服が汚れてしまいますわ」
穏やかに笑みをたたえながらイザベラがエリックに起立を促す。
「イザベラ…」
「わたくし、これ以上王子に失礼を重ねるわけにはまいりませんの。どうぞお立ちになってくださいな」
イザベラがウィザードロゥ送りにされた原因となった“失礼”。暗にこれ以上自分に処罰を与えるつもりなのかと言われてしまえば、エリックも従うよりほかがなかった。
大人しく自席に戻ったエリックをイザベラは困った子どもを見るかのような目で一瞥し、すぐに話題を変えた。
「王都ではドレイン通りに新しい商業施設ができたと聞きましたけれども、―——」
イザベラの拒絶は残酷だった。
言い訳すらもさせてくれないその毅然とした態度は、エリックのわずかな期待を打ち砕くには十分だった。
「すまない、忘れてくれ」
イザベラがようやくエリックの言葉を差し込む隙を与えてくれたのは中座から帰ってきてからだった。
すかさず謝罪の言葉を口にする。
一人勝手に舞い上がった挙句、屋敷まで押し掛けたのだ。今日のことはもちろん、アナリーゼを妃に押し上げようと奮闘していたイザベラからしたら、これまでのエリックからの言動など迷惑でしかなかったはずだ。
浅はかで身勝手。王子の権力で君の居場所をつくろうなど、妃選定に臨んでくれているアナリーゼにも、これまで妃選定の制約の中暗躍していたイザベラにも失礼な発言だった。
「あまりに楽しかったから、勘違いをしてしまったようだ」
自然と顔がこわばる。
認めたくはないが受け入れなければならない。素晴らしく楽しかった午後の時間もすべて、勘違いだったのだと。
「そう、ですか…」
目の前のイザベラが深刻そうな顔をしていることに気が付きエリックは慌てて話題を変えた。だが、イザベラの様相は一向によくならず、むしろ…
「イザベラ?」
彼女の美しい琥珀の瞳から、涙がひとつぶ零れ落ちた。
◆◆◆
あの後、とんでもなく声が大きい家令と妙に艶めかしい家庭教師の乱入でいろいろとうやむやになってしまった。
あの涙は何だったのか。
私は何かを間違えたのだろうか。
エリックは自分の気持ちがどんどんと暗くなっていくのを感じた。イザベラのところへ行くことを決めたのは自分であったが、今となってはウィザードロゥに来たこと自体が間違いだったのではないかとさえ感じる。
王都へと向かう馬車の中、エリックは憂鬱な気分で窓枠に頭をもたせかけ、ウィザードロゥの地が遠く彼方へ消えていくのを見つめていた。