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青空を飛び回るカモメたち。辺りに漂うのは潮の香り。そして、水夫たちの元気な掛け声を聞きながら、私はぐったりと長椅子に横たわっていた。
窓の外に広がる港には3艇の巨大な黒船が浮かんでいる。ヴィルヘルム公の貿易船、ラシェ[陽気な]・クラウス号だ。
「セーラ、お願い。窓を閉めて頂戴。あの船が目に入るだけで酔いそうなの」
「お嬢様、本当に大丈夫なのですか?そんなご様子ではとても世界一周なんて耐えられないような」
「…わたくしだって、行かなくていいなら行きたくないわ」
自慢じゃないが揺れには強い。前世では車も電車も平気だったし、VRアトラクションだって余裕だった。けど、船。これだけはダメだ。たぶん、どこにも逃げられない水の上っていうのも酔いに拍車をかけてる気はする。
私は少しでも気分をすっきりさせようと、水を飲むために重い体を引っ張り上げた。
ちょうどその時、部屋の扉が叩かれた。
現れたのはヴィルヘルム公だ。私と同じ、いや、5日前の王都での会議からの帰還も含めればそれ以上の移動をこなしたというのに、その姿からは全く疲れが読み取れない。さすが国の英雄。私とは鍛錬度合いが違うらしい。
「積み荷の準備ができたそうだ。夕方には出航だ…って大丈夫かい?」
私の青ざめた顔を見て表情を曇らすヴィルヘルム公を、私は力なく仰ぎ見る。
「大丈夫じゃないって言ったらおうちに返してくださいますか?」
「残念ながらそれは無理だね」
優しく、しかしはっきりと述べられた言葉に私はがっくりとうなだれた。
ちぇっ。だめか。
「そんなに嫌がらなくても、これは君にとって悪い話ではないだろう?国王の命の下、私が推し進めている海運事業。その共同事業者として君は同行するんだ。航路の確立に君が貢献したとなれば、それは間違いなく大きな実績だ。グランチェスタの娘に勝つにはこれ以上の手はないと思うよ」
「それは、そうですけれど…」
私が怒りに任せてヴィルヘルム邸に突撃した際に語られたいい話、とはこのことだった。
ヴィルヘルム公が王命で進める海運事業。その共同事業者として私の名を連ねてくれるというのだ。もちろん、ただ名を貸せばいいってわけじゃない。航路確立のために必要な役割を果たす必要がある。現在問題となっているのは南のとある国。そこさえ解決できれば貿易の幅が大きく広がるという重要地点。しかし女性の地位が高いその国でヴィルヘルム公は相手にされず港の使用権を得ることができなかった。
そんな状況を打破するために白羽の矢が立ったのが私だった。異国でのトラブルにも動じず社交ができ弁が立つ、それなりの地位を持つ貴族の娘。何をどうしてか、そんな条件に私は当てはまってしまったらしい。
「もともとはアメリアが船に乗るはずだったんだけど、状況が変わってしまったからね」
そりゃ、妃候補になんてなってしまったらそう易々と危険な海外渡航に出してもらえるはずもない。私は鷹揚に頷いた。
もちろん私だって普通なら家族が反対するだろうけれど、波乱の会議の終了後に全てを悟った公爵が、すぐにうちのお父様に交渉をかけたらしい。
さすが、公爵仕事が早いわ!
最終的にお父様は私の意思を尊重する決断を下し、わたしは今、こうして出港を待っている。
まあね?これでも現代日本から転生してるわけで、この国の普通のお嬢様たちよりは異国に対しての適応力はあると思うの。でもね、そこは問題ではないのよ。
私は小さく嘆きのため息を吐く。
それを見てヴィルヘルム公は少し申し訳なさそうに目を逸らした。
「もちろん何も問題のない話、というわけではないことは分かってるけどね。君も了承してくれただろう?」
「はい、しました。これが今一番いい手だってことも納得しました。けれど…そう、問題なんです」
ヴィルヘルム公の言う通り、この話には重要な問題がある。
船酔いなんてちゃちな問題じゃない。一番の問題は―—
「エリック王子と遠距離になってしまうのは大問題です!!」
「……うん?」
胸のうちの心配事を吐き出し嘆く私にヴィルヘルム公は意味が分からないという顔をする。
「だってこの世界、海流が一方向ではないですか。大した動力もないからほぼほぼ流されるだけで逆行は不可能。元の場所に戻るには世界一周するしかないわけで、つまり王子に手紙を出したとしても、それが届くまでどれだけかかるか!」
電話もメールもないこの世界で唯一の連絡手段である手紙を奪われることは私にとってかなりまずい。これまで私の日々を明るく彩っていたエリック様からの定時連絡が途絶えるのだ。船にはエリック様の姿絵があるわけでもないし、手紙がなくなってしまったら心が枯渇する自信がある!
これからの暗黒時代を恐れ震える私をヴィルヘルム公は異様なものを見るような目で見つめた。
「…誘った私が言うのも何だが、船旅は容易じゃない。海難事故は頻繁に起こるし、帰ってこられる確証はないんだよ?」
「ええ、航路が確立していないというのはそう言うことですものね?」
「…国王の命というのは重大だ。失敗は許されるものじゃないよ?」
「ええ、もちろん大変な任務であることは承知しております。けれど、それをこなさなければ妃候補にはなれないのですよね?」
ヴィルヘルム公は今更何を心配しているのだろう。
当たり前のことをダメ押しのように尋ねるヴィルヘルム公に私は首をかしげて応えた。
たとえどんな条件が来たって関係ない。王子に相応しいレディになる。そう誓った一年前のあの夜から、私の気持ちは変わらないのだ。
まっすぐに見つめる瞳を受けてヴィルヘルム公が眉間に皺を寄せた。
「それが分かっているうえで、君の心配事はエリック王子からの手紙なのかい…」
「大切なことですから!」
私は鼻息荒く頷く。
まあ、そんな駄々をこねたって手紙は送れないから仕方ないんだけどね。うう…、でもせめて王子からの手紙は届くといいんだけどなあ。送ってくださるかなあ。
半ば諦めの気持ちで肩を落とした私をふっと笑ってヴィルヘルム公が手を差し出した。
「…君は本当に変わっている。君の不安は理解できそうにもないが、やる気と覚悟は間違いなさそうだ。期待しているよ」
モスグリーンの瞳が鮮やかに輝く。
それがなんだか好戦的で、彼の大きなその手を取った私も挑戦的に言い返す。
「もちろん、使命は果たしますわ。ですから、今度こそちゃんとわたくしを推薦してくださいね、閣下」
「約束しよう」
そう言ってヴィルヘルム公は私の手をしっかりと握りしめた。
◆◆◆
陽が少しずつ傾いてきた。
ほんのりとオレンジ色に染まった空を征くカモメが、次第に黒く影になっていく。
そろそろ出発かなと、身の回り品を片付けていたとき、セーラが慌てた様子で部屋に飛び込んできた。
「お嬢様…その、大変です!!」
バタンと後ろ手で扉を閉めて、なんと言おうか逡巡する様はセーラにしては珍しい慌てっぷりだ。まるでエイダのようなその様子には覚えがある。
2か月前のマーク襲来だ。
出発前にまだ小言を言う気かと、うんざりしながらも出迎えるため私はセーラが慌てふためく戸口へ向かった。
「また、お兄様なんでしょ。心配されなくても、ちゃんと役目を果たしま―———」
扉を開けた先の光景に、私は言葉を失った。
剣呑な雰囲気を纏い、射る様な目つきでそこに立っていたのは、一年前よりもまた少し精悍な顔つきになったエリック王子だった。
誤字報告ありがとうございました。