36
私は怒っていた。
ヴィルヘルム公を信用しきっていたわけではないけれど、期待はしていたし、まさか議会で自分の名が挙げられないどころか、別の候補者が決定するとは微塵も思っていなかった。
最初は、その結果に対してショックを受けるばかりだったけれど、ボガート家に潜入していた時にアメリアを上手くコントロールしきれなかったせいだと自分を責めだしたセーラを慰めるうちに、いや待てよ?と思い直した。
いくら王子がアメリア様を推薦したと言っても、ヴィルヘルム公は選考人の一人。
…だったらそれに異を唱えることも、アメリア様の他に私を推薦することだってできたはずだよね!?
ヴィルヘルム公の職務怠慢に、私の中に沸々と怒りが湧いてきた。それは、王子がアメリア様を推薦したという事実に目を向けたくない私の無意識が起こしたものかもしれないけれど。
いずれにしても、約束が反故になった際にはきっちり抗議をするつもりだったのだ。それならばこの気持ちが収まらぬうちにと、私は明け方のウィザードロゥで決起した。
「ヴィルヘルム邸に殴り込みよ!!!」
◆◆◆
数か月ぶりのヴィルヘルムの館はずいぶんと騒がしかった。
表玄関には幾台もの馬車が並び、使用人らが館から持ち出した荷物をせっせと馬車に詰め込んでいる。まるで引っ越しだ。
けれども、走れメロスよろしく一目散にやってきた私は、そんな異様な光景には目もくれず、まっすぐにヴィルヘルム公のいる別館へと向かった。
「閣下、これはいったいどういうことですか。わたくしとの約束はどうなってしまったのでしょう」
簡素な書斎に通された私は、挨拶もすっ飛ばしてヴィルヘルム公の姿を見るなり昨日の議会の結果を問いただした。
「昨日、議会で推薦されたのはわたくしではなく、アメリア様。アメリア様は閣下の姪御様でいらっしゃいますけれど、なにかご事情がおありだったのですか?」
穏やかな口調は保っているけれど、要約すると「私じゃなく親族優先させたな?」ということである。
だって、普通に考えたらいきなりアメリア様が出てくるなんてボガート家絡みで何かあったんだろうなって、そう思うよね!?
部屋に入ってきた勢いそのままに一息で抗議の声を上げた私に、ヴィルヘルム公はなんだか疲れた様子でため息をついた。
「君には、いろいろと聞きたいことがあるが…まず、挨拶はどうしたんだい。そういう基本を疎かにするところが君がアナリーゼに負けてるところだね」
「そ、そんなの、今は関係ありませんわ」
「関係はある。私が推薦するんだ。アナリーゼより優れていなければ私の顔が立たない」
「それは……まだ私を推薦する気がおありということですか?」
机に片肘をついたヴィルヘルム公が、何でもない事のように口にする。
「君はさっき、これはいったいどういうことかと聞いたが、尋ねたいのはこっちの方だ。いつから私は君と婚約することになっていた?」
君と婚約。
聞こえた言葉のままであれば私とヴィルヘルム公が婚約するということだけれど、まさかそんなことはあり得ない。
聞き間違いだろうと、私は公に尋ねた。
「どなたが婚約なさるのですか?」
「イザベラ・オーガスタス。君とだよ」
自分の名前を聞き間違えるわけもなく。
ヴィルヘルム公の薄い唇が吐いた言葉の意味を理解するまでたっぷり3秒。私は驚きに飛び跳ねた。
「はいっ!?」
待った、どういうこと!?
妃候補への推薦をお願いしたらどうしてそれが公爵との結婚になるのさ!
「驚いてるのは私の方だ。会議の前に君の兄上が挨拶に来たと思ったら、不束な妹をよろしくと言われるのだからね。君、ご家族に何か話しただろう。私が君を後援することが捻じ曲がって伝わっていたようだ」
「そんな!確かに兄とは話をしましたけど、閣下と婚約だなんてことは言っておりません!!私はちゃんと、次の会議で閣下に妃候補として推薦していただく予定だってことを兄に……」
…あれ、私、言ったっけ…?
気づいてしまったとんでもない過ちに冷や汗が滝のように流れる。
思い返すは2か月前。マーク襲来の際、私は妃候補の推薦の話だと言っただろうか…?
冬とは思えない私の発汗量に、ことの顛末を察したヴィルヘルム公が困ったように亜麻色の髪をかき崩した。
「王子に発言枠を取られたのはちょうどよかった。君と私が婚約するとの噂が広まっている中で私が君を妃候補に推薦なんてすればどうなるかわかるだろう?噂を立てていた君の実家の面目だって丸潰れだ」
私はその状況を想像して震えた。
公爵との噂があるなか、それを否定するように公爵が私を妃候補に推薦する。そんなことになれば私は妃候補を落第した挙句さらにまた公爵にも捨てられたのだと、世間はそう捉えられるに違いない。
…加えて公爵家へ嫁入りするなんていう虚偽騒動!それってだいぶまずいわよね!?
青くなる私にヴィルヘルムは、呆れた様子でため息をついた。
「私だってそんなゴタゴタには巻き込まれたくないからね。君が妃候補にもならず、私と婚約もしない、そうして噂は噂だと知らぬ顔をしていれば、ことは丸く収まる。どうかな、事情は理解してくれたかい?」
ヴィルヘルム公の判断が状況の悪化を未然に防いでくれたのだと知り、文句を言える立場でないことを理解した私は物凄い勢いで深々とお辞儀した。
「あの、わたくし、知らなかったとはいえ恩知らずなことを申し上げました。でも、決して恣意があったわけではなく…」
「分かってる。そうじゃなきゃ君が今日こうして乗り込んで来ることはないだろうからね。文句を言いにきたんだろう?」
さあどうぞ、と手のひらをこちらに向けるヴィルヘルム公は私がそんなことを言える訳がないことを分かった上で揶揄っている。
ドS!この人Sだわ!
慄く私を見て満足したのか、ヴィルヘルム公は小さく笑って、でもまあ、と続ける。
「君が怒るのも無理はない。約束を守れなかったことは事実だ。君の期待を裏切ってしまってすまなかった」
さっきとは打って変わって真剣な目でヴィルヘルム公が謝罪の言葉を口にする。私は慌てて返答した。
「とんでもありません。今回の件、元はと言えば私がちゃんと家族に話ができていなかったせいですし、そもそも、私に実力があれば閣下のお力を借りることもなかったのです」
そうなのだ。他人を頼ろうとするから思いもよらないハプニングが起きるのだ。結局、私自身の魅力で妃候補に上り詰められなかったのが悪い。力を貸してくれようとしていた公爵を責めるなんてこと私ができる立場じゃない。それに気がついて、私はいの一番にここへやってきたことを猛省した。
一方的に物事を考えすぎてたわ。私が見えてないだけで色々な事情があるんだから……きっと、王子がアメリア様を推薦したのだって、何か理由があるはず…だよね?
エリック王子がアメリアを推薦したこと。その事実は私の中で燻っていた。考えるなと自己暗示をかけ、暗い心を押し込めて、ふと陰った私の表情をヴィルヘルム公は見逃さなかった。
立ち上がった彼は私に向かって二歩三歩と間合いをつめる。
「実力不足が気になるというのなら、一つ良い話がある」
誘うように柔らかに。
亜麻色の髪色によく似合う甘い微笑みで近づいてきた彼は、そっと私の手を取って提案した。
「私と一緒に国を出ないか」
モスグリーンの瞳が私を優しく見下ろす。
繋がれた手は温かく、けれどもその硬い掌は今まで触れたことのない、大人の男性のものだった。