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 子どものころから違和感はあった。自分の知っている世界との乖離。

 例えば食卓にお米が出てこないだとか家が広すぎることとか、動きにくい服に不便な生活。

 違和感が確信に変わったのは物心がついて本を読むようになってからだった。語彙が増え、空想ファンタジーと現実の境が明確になり、本から世界のことを学ぶようになって、ようやく自分の持つ記憶が、全く別の世界のものだと気が付いた。

 最初はびっくりしたけれど、なぜ死んで、なぜ転生できたのかなんてことは考えても分からないから、それはもう仕方がないと、私は早々にこの第二の人生を受け入れた。


 第二の人生は楽しかった。

 高い身分に優雅な暮らし。国は安定していて未来は明るい。気のいい使用人たちに良好な家族関係。

 ただひとつ、儘ならないことがあるとするならば、私の人生を自分で決めることができないということだけだ。





◆◆◆





「このバカ者っ!!!!」



 頬に一線の傷をつけて帰ってきた私を見て、兄のマークは声を荒らげ駆け寄ってきた。

 枇杷の木から降りるときに枝で少し擦ったのだ。


「明日は小さなお茶会なんだぞ?その顔でいくつもりか」

「血も止まってるし化粧で隠れるわ」


 不遜な私の態度にマークは目を吊り上げながらも傷の具合を見てくれた。


「これなら痕にはならなさそうだな。…まったく、なぜお前は17にもなってお転婆を続ける」


 呆れたように言葉にするマークに、わたしはうんざりして答えた。


「お転婆をしているつもりはないわ。琵琶を食べるために木に登って、それでちょっと怪我しただけよ」


 たいして高い木でもない。右足左足と2歩もよじ登れば果実に手が届くのだ。怪我をしたのは降りるときに周囲の枝のありかをよく見ていなかった不注意で、そんな些細なことをとんでもないお転婆娘のように言われても困る。


「食べたければ人に頼めばいいだろう。自分で取ろうとするな。お前は伯爵家の娘なんだぞ」

「伯爵の娘は自分で琵琶を取ってもいけないの?」

「しなくていい苦労はする必要がない」

「琵琶を取ることくらい苦労に入らないわ」

「…口答えをするな。貴族には貴族としての生き方がある」


 理不尽だ。私はむっとして唇を尖らせた。


「お兄様に言われなくても、わたくし、ちゃんと貴族の娘を演っているわ。」


 豪華な生活は当たり前じゃない。一度目の人生を身分制度のない国で過ごしたおかげで、これがとても特権的な生活だと理解している。だからこそ、これまでやるべきことはしっかりやってきたつもりだ。

 拗ねるような私の声音にマークは少し気を使って答えた。


「わかっているさ。社交の場でも小さなお茶会でも、お前はよく頑張っている。最終選考まで残ったことも誇らしく思っている」


 そっぽを向く私の手を取りマークが続ける。


「お前が貴族の生き方に不満を持っていることは良く知っているし、家のため家族のために良い令嬢を演ってくれていることも分かっている。…でもだからこそ、お前には何不自由なく暮らせる道を進んでほしいんだ」



 妃になってほしいと、私と同じ琥珀の瞳が心からそう願っていた。



 マークは不遇の世代だ。王族と同世代に生まれれば、私たち高位の貴族は高確率でその側近に引き立てられる。それを見越して多くの家ではうまく()()()()()()()()()()。マークも最初の王子が誕生する2年前に生まれた。王子の誕生は王と妃がご成婚されてすぐのことだったので国は大いに沸いたという。失意の底に落とされたのはそれから5年後のことだった。王子が病気で亡くなられたのだ。

 

 仕えるべき主を失ったマークは、伯爵家の子息でありながら王城での居場所がない。

 そうなったのは誰のせいでもない。なのにマークは自分を責めている。自分がしっかり役目を果たせていれば、貴族らしく生きることが苦手な妹が妃候補として頑張る必要もなかったと。

 マークは私に負い目を感じている。その贖罪として私を妃にと奮闘しているようだが、私にとってそれは嬉しいことでもなんでもない。


 マークの事情がなくても、貴族に転生した以上、果たすべき責任から逃れられないのは分かっている。進むべき道を自分で決められないことも飲み込んだ。それでも、


「自分ができることでさえ、自分に委ねさせてもらえないのは……不自由だわ」


 身の回りの些細なことくらい、私に決めさせてくれないだろうか。


 切実につぶやいた私の言葉に、マークは静かに目を下げた。一度何かを紡ごうと開かれたその唇は逡巡の後に閉じられ、マークは私の手をゆっくりと離した。





◆◆◆





「あったわ、これよこれ!」

「お嬢様、そんな高いところに登って、昨日マーク様に叱られたばかりではありませんか。いってくだされば私が取りますのに」


 王城の図書室で目当ての本を見つけた私は、セーラに声をかける前に自分で傍らの梯子を上っていった。


「別にこれ位取れるわよ」

「でもさすがに昨日の今日で、しかもお茶会の前ですよ?用心は必要ですよぉ」


 私の自由さ加減を知っているセーラは口ではそう言っていても、実際そこに咎める色はない。

 気をつけてね、くらいのニュアンスで、私にはそれがとてもちょうどいい。


「わかったわ」

「で、それ何の本なんですか?」

「うちにあるものの続編よ。愛憎渦巻く復讐劇でこれがなかなか面白いのよ。昔の本だから今は作られていないみたいなんだけど、さすがお城の図書館は揃えがいいわね。3巻目もあるわ!」


 小さなお茶会までまだ3時間はある。3巻目はともかく、続巻は読み切れるだろう。好きな本で気分を上げてればあの胡散臭いお茶会も少しは楽しく感じられるかもしれない。

 私はわくわくとしながら本棚の間の小さな読書スペースに転がり込んだ。






「あの、お嬢様…」


 セーラが声をかけてきたのはあと少しで読み終わるというときのことだった。物語への没入を妨げられた私はちらりとセーラを見て、そのまままた読書にもどった。


「…お嬢様っ!」

「何よ、いった…ぃ」


 今度は肩を揺さぶられる。これには私も顔を上げ、目線の先に佇む少年を捉えた。豪華な黄金の髪にサファイアブルーの瞳。御年14歳の少年は、成長が始まったしなやかな四肢を持て余すように、ゆっくりとこちらに近づいてきた。

 私は慌てて立ち上がる。


「ご、ご挨拶申し上げます。エリック王子」

「こんにちは、イザベラ嬢…邪魔をしてしまいましたか」

「いいえ、邪魔など!」


 私は突然の王子のお出ましに驚き、王子の発言を否定するため思わず手をぶんぶん振ってしまった。レディあるまじき行動だ。しかし王子がそれを咎めることはなかった。


「何を読んでいたのですか?」


 小さなお茶会での会話を彷彿とさせる面接のような質問に、私は『ドロドロの愛憎劇』と答えることができず、嘘を吐く。


「詩ですわ。オフィールの」

「オフィールといえば、有名どころは『金貨』でしたか。」


 家庭教師から教えてもらった詩人の名を口に出せば、王子は当然知っているといった様子で暗唱を始めた。


『私の手には金貨がある。皆それを欲しがりやってくるが、渡すことはできないのだ。金貨は私の手に埋め込まれ、削ぎ落すことなど到底出来ぬ。』


王子は少し照れくさそうにはにかんだ。


「実は、先日学んだばかりなのです。力ある立場に生まれた者には逃れられぬ責任がある、という意味だと習いました」


 どうやらこの詩は貴族社会では誰もが学ぶものらしい。確かに、‘貴族としての生き方’を教えるのにはぴったりの題材なのかもしれない。

 私はこの詩を学んだ時に、自分も責任から逃れられない1人なのだと思ったことを思い出した。

 王子が言葉を続ける。


「ですが…詩というものは面白い。私は最初、別の意味で捉えました」

「別の意味ですか?」

「自らの手を削ぎ落すことができない者が、金貨の埋め込まれた手に縋って生きているようだなと感じたのです。金貨をどう使うかはその人次第。責任や立場は逃れられないものではなく、自分に委ねられているものだと、手の中の金貨はそれを意味しているのではないかと思うのです」


 …自分に、委ねられている?

 貴族に生まれた以上、何もかも自分で決めることは出来ないのだと、半ば諦めていた私にとって、その言葉は思いもかけないものだった。

 誰もが、貴族とは責任を負って生きるべきだと言った。けれど、この王子はそれは全てその人次第だと言う。

 その言葉は私の心に渦巻く、儘ならない感情を軽くしてくれた。


「わたくしも…そう思います!」


 私は王子の言葉に強く賛同した。王子は勢いよく答えた私に軽く微笑んで、ふと私の手元の開かれた本に目をやる


「…それは」


 まずい!手元に開かれた本の分量と分厚さは、到底詩集には見えない。

 私はとっさに取り繕う。


「さっきまでは詩を読んでおりましたの!今は、ちょっと息抜きに物語を…」


 ほほほ、と優雅に笑って見せる私に、王子はそうですかと頷いた。


「もう読み終わりですね。続巻もあるのですか?……ああ、上なのか」


 無意識に書架上部の第3巻を目で負った私を見て、王子はさっと梯子に手をかけ、するすると登り始めた。

 梯子は高い。私より背の低い王子が上るとより一層高く見える。


「お、王子!危ないですから、ほかの者に取らせましょう!」


 慌てる私は王子の供はどうしたと周囲を見回すが、少し離れたところに堅物そうな事務官が興味もなさげに突っ立ているだけだった。


「これくらい平気さ」


 私の慌てようを笑った王子はさっと目当ての本をとり、あっという間に戻ってくる。最後の数段を軽やかに飛び抜かし、私の前に着地した王子は、物語の第3巻をはい、と手渡す。



「それに、自分でできることくらいはしたっていいじゃないか」



 サファイアブルーの瞳をやんちゃに輝かせて笑う王子が、どこかで聞いたことのある言葉を紡ぐ。

 私は、手渡された本をぎゅっと胸に抱き、頷いた。



「そう…ですね。わたくしもそう思います」



 胸の鼓動がひとつ鳴る。

 それはほんの些細な一言。何でもないような言葉だったけれど、その瞬間、私は自分と同じ考えを持つこの人に、惹かれてしまったのだ。



「では、イザベラ嬢、またあとで」

「はい、後ほど」



 去っていく王子の背を見つめ、私は世界はこんなにも明るかっただろうかと首をかしげた。





◆◆◆




「…えーっと、つまり、お嬢様は王子が本を取ってくださったから惚れたってことですか?」


 ジョシュの恋話の後、皆がイザベラ様も!とせがむから、仕方なく王子に惹かれたきっかけをかいつまんで話したというのに、ジフはそれだけで?といった顔で文句を言う。

 なによ!ジフなんてエイダが可愛くてちょっかいかけちゃう小学生男子のくせに!!


「別にわかってくれなくったっていいわ。あの時のエリック様の笑顔は本当に素敵だったんだから!」

「好きな人の笑顔って格別ですから」

「そうなの!もう世界が一変するレベルなの!」


 当時を思い出してにやける私に共感してくれるのはどうやらジョシュだけのようだ。

 やっぱりジョシュは分かってるね!さすが同士!!


「今のお話を聞いて、イザベラの真剣な気持ちがよくわかりました。やはり私はイザベラ様を応援したいと思います……本当は姉のための切り札だったのですが、姉が家を出て行った以上、私はイザベラに使っていただきたい」

「えっと…切り札?」


 急に真面目なことを言い出したジョシュに、私は目をぱちくりさせる。


「はい、切り札です。ただ、少し根回しが必要ですから…待っていてください。必ずいいようにしてみせます」


 傷のある側の顔を歪ませてジョシュがにやりと笑う。

 良くわからないけれど、これはお願いしておけばいいのかな?ソフィアが使おうとしていた切り札を横流ししてくれるというのだ。貰えるものは有難く貰っておこう。


「そう、じゃあお願いするわね」

「はい。お任せください」


 トンっと胸を軽く叩いたジョシュに軽く頷いて、私はヴィクトリア先生を振り返る。


 …さぁ、いい感じに場も温まってきたし、そろそろ夜蝶のヴィクトリアの逸話を聞かせてもらおうじゃない!?

 私はうきうきしながらヴィクトリア先生に恋話を強請った。




――その日私がベットに入ったのは、明け方も近くになってからになったことは言うまでもない。


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