賢者と人魚
或る晩、その音は何の前触れもなく耳に届いた。
気のせいかと思い耳を澄ませてみたが、やはりそれは微かに聞こえてきた。
小さな窓へ歩み寄り、少し距離のある浜辺の方向へ意識を集中すると、次ははっきりとその存在を感じた。
胸騒ぎはしたが、経験したことのない感覚が湧きあがる。
手にしていた諸々を机に置き、椅子にかけてあったコートを手に取り、足早に部屋を出た。
虫たちが足元で囁く森の中、念のため足音を消して進んでいく。
微かだった浜辺から聞こえるそれは、だんだんと近づくにつれ「歌声」なのだとわかった。
真夜中に響く歌声・・・浜辺まではそう遠くはないが、魔術で巧妙に結界を張っている研究所まで聞こえてくるのは、不可解でしかなかった。
気配を殺して正体を確認しに行ったところで、こちらに気付かないという保証はない。
そう思いながら、やっとその姿を肉眼でとらえた時、それは痩せこけた体を岩に預け浜辺に座っていた。
浜辺と言っても、人に管理された遊泳場所ではないため、流れ着いたゴミや貝殻の破片が無造作に散らばっている。決して居心地のいい場所ではない。
歌声もそれはそれは弱々しいものだが、魔力を帯びた特殊な声だった。
少し思案したが、意を決して側へ歩み寄った。
「誰か呼んでいるのか?」
そう声をかけると、まるでふっと火が消えるように、歌声と魔力が散り散りになって消えた。
殺意も攻撃性も特に感じなかったので、その背中に近づく。
わずかにこちらに顔を向けた女は、月明かりに照らされた長い髪から、白い肌が覗いていた。
やがて女を側で見下ろすように踏み出した足が、砂浜をさくりと踏んだ時
その姿に、思わず息を飲んだ。
・・・人魚・・・?
一瞬思考が停止した。
女の座っている腰元から下は、紛れもなく人のものではない。
それは魚の鱗よりも遥かに、月光を反射させるほど鮮やかだった。
まるでオパールを敷き詰めたようで、先は細かい血管が透き通ったヒレがある。
困惑したままその姿を確認していると、問いかけに応えるように、女はゆっくりと振り返った。
「あなた・・・魔術師ね」
歌声と同じく、その声にあまり力はなかった。
血色のない肌に、深い青色の大きな瞳が、虚ろに浮かんでいる。
「呼んでいたわ・・・。でもあなたじゃない・・・」
薄い桃色の唇が、小さく動く。
今にも倒れそうな体が少しふらついていた。
「・・・誰か探していたのか?残念だが、この辺りに人里はない。」
女はまた海に視線を戻して答えた。
「私はもうじき死ぬわ。延命出来るとしたら、人の血肉を食らうこと・・・。でも貴方みたいな魔力の塊のような肉体に口を付けたら、死に急ぐようなものね・・・。」
そう言いながら女は苦笑した。
それすらも弱々しく、話しながらも少しずつ生気が失われていくのがわかった。
どうやら魔力の量と質を感知できるようだ。
「そういうことか。なら魔力が薄まればいいのか?」
「薄まる・・・?」
いつものように「身代わり」を用意してみせた。
人魚は魔術で目の前に現れたもう一人の男を見て唖然とした。
「これは・・・?あなた、いったい・・・」
「魔力が薄いこれならどうだ。これは感情の具現化の魔術だ。腹が満たされるかどうかはわからないが、一応血肉はある。」
同じ見た目をした人型のそれに、女は酷く困惑していた。
不信感が拭えないようだったが、身代わりは腕を突き出して見せた。
『ほら、食べるといい。死んでもいいのか?生きたいのなら躊躇うな。』
女は眉をひそめ、差し出された腕を見つめていた。
淡々と話す様に、尚も不信感を抱かせてしまったようだが、女はゆっくりと身代わりの手首に歯を立てた。
数十分程経った後、人魚は結局肉を食らうというより、血を飲んだだけで食事を終えた。
もういいのか、と声をかけたが、少し悲しそうな表情をして「一度にたくさん食べられはしない」と答えた。
それは食べる力が湧かないことへの悲しみではなく、何か遠慮したような返答だった。
それ以上詮索してほしくなさそうだったので、ひとまず俺は砂浜に腰を下ろすことにした。
女もまた、動く気力もなく自身の回復を待っているようだった。
「・・・人魚は時々人を食うのか?」
聞くべきか迷ったが、単純に人魚の生態には興味があった。
女は少し目を丸くして、無表情の俺の顔色を伺った。
「私は・・・食べたことはなかったわ・・・。他の何かで飢えをしのぐことは出来ていたから。」
「そうか。・・・さっきは歌声で誰を呼んでいたんだ?」
女は目を伏せて、何から伝えるべきかと思案しているようだった。
そしてやがて、月光が溶け込んだ静かな海を眺め、話し始めた。
「昔聞いたことがあったの。人間の姿をした人魚の生まれ変わりがいる、と・・・」
「生まれ変わり・・・?」
女は俺の瞳をのぞき込むように、向き直った。
「私はただ聞いただけだけど、もし本当にいるのなら、私が食べても死ぬことはないんじゃないか、と思った・・・だから・・・」
なるほど・・・。無暗に人を食って怪我人を出したくはないのか。
「貴方は聞いたことはある?生まれ変わりがいる話・・・」
女は真剣そのものだった。
だが射貫くようなその視線を受け、思い返そうとしても知りうる情報はなかった。
長く生きてきたが、人魚を見つけたこと自体初めてであったし、ましてや人間にその生まれ変わりがいるなどと、噂ですら耳にしたことはない。
女にも何となく俺の思考が伝わったのか、残念そうに薄い眉が下がった。
「知らないわよね・・・。」
「見つけたとして・・・えーと・・・名前を聞いていいか?」
「・・・セリーナよ。」
「生まれ変わりを見つけたとして、セリーナはそいつを食べるのか?」
彼女は少しばつが悪そうに顔をそむけた。
「・・・その子がもし、傷が早く治るのなら、食べさせてほしい・・・。私たちは皆、人間に存在を知られることを恐れて、海の底で飢えを凌ぎながら生きていたけど、いくら長命でも少しずつ仲間は死んでいったわ。」
その昔、アレンティアにも人魚の伝説が存在した。
どこかの国の王子が乗った船が難破し、その命を救ったのが人魚だった、とか
はたまた遠い異国の旅人が立ち寄った浜辺で、人魚の歌声に誘われて連れ去られた、とか。
おとぎ話の中では、良い者とも悪い者ともとれない描かれ方をしている。
特徴としてはその美しい髪や鱗に、どんな宝石よりも価値がある、などと言われることもあった。
だがハッキリと存在を証明できる物はなく、文字通り伝説の生き物であるが故、信じる者はない。
セリーナは静かにつぶやいた。
「本当はもう・・・生き永らえる理由なんてないのだけれど・・・。ただ死ぬことはとても恐ろしくて寂しいわ。・・・貴方のような若い魔術師にはわからないかもしれないけど。」
「・・・生き永らえる理由ね・・・。」
俺は立ち上がってコートについた砂をはらった。
「今にも死にそうになりながら、食べたこともない人間を食らって生きなければと、歌っていたんだろう。生きたいという理由を探すよりも本能的に。」
セリーナはただ俯いた。
「生きたいと、死が恐ろしいという本能を持つなら、どんな手を使っても生きればいい。誰も傷つけたくないという信念は立派だが、それで己の身も心も滅ぼすなら本末転倒だ。俺はこの国の賢者だ、無暗に人を襲うというならお前を殺すしかないが、分け与えてほしいと言うなら、いくらでも身代わりをやろう。」
彼女は大きな青い瞳に涙を浮かべながら、睨むように俺を振り返った。
「どうして国民でもない私にそこまでするの?貴方が「賢者」だから?」
「・・・俺はかつて医者だった。だが戦争ではたくさんの命を奪った。賢者であり続けるのは贖罪ではないし、それが役割だから、というわけでもない。」
日の暮れた浜辺は、少しずつ厚い雲に覆われて、冷たい風が吹き始めていた。
「目の前の命を助けたいのは、俺がそう在りたい、と思って生きているからだ。」
セリーナの細く凍えそうな体にコートをかける。
俯いた彼女の長い髪の隙間から、涙がこぼれだした。
「・・・私、国境がどこかも分からず彷徨っていたの。ここは、アレンティアなのかしら。」
「そうだな。もう少し南側に入るとリーベルだ。」
セリーナは涙を拭って改めて俺の顔をじっと見た。
「賢者というなら、貴方が私たちよりもずっと長命な『ロディア様』なの?」
俺がうなずくと、彼女はどこか安堵したような表情で続けた。
「そうなのね・・・。ありがとう、ロディア。私、夜が明ける前に帰らないと・・・。」
「そうか、気を付けてな。」
そうしてセリーナはコートを羽織ったまま海に飛び込み、泳いでいった。
(ここからセリーナ視点)
誰かと話したのも、親切にされたのも、本当に久しぶりだった。
嬉しくてうれしくて、かけられたコートをそのまま持ってきてしまった・・・。
「『そう在りたいから』・・・か」
考えたこともなかった。
ただ生きることに必死だった。
深い深い海の中は水の流れる音と、遠くに通る船の音
今度こそ同じ場所に戻るために、迷わず帰ってきたつもりだけど・・・
「また、会えるのかしら・・・。」
私の中で人間のイメージは、欲と感情にまみれた生き物だった。
でもロディアからはそれらを感じなかった。
まるで小さな子供と対峙したときのような、向けられる気持ちが真っ白で・・・
ゆらゆらと揺れる水の中で、彼のコートを見つめた。
昔偶然見つかって知り合った青年は、魔術師になるため熱心に勉強している子だった。
人間の文字が読めない私に、ロディアのことが書かれている本を読み聞かせてくれた。
懐かしい気持ちと今日出会った不思議な彼を思いながら、いつの間にか眠りに落ちた。
暗い海の底に、また光が差し込む頃、私はロディアから渡されたコートに腕を通した。
そして勇気を出して海面へと泳いでいくことにした。
近くに船や人の声が聞こえないことを確認して、昨夜ロディアと出会った場所辺りから、南へと進んでいくことにした。
海流も早くて、船の往来も昼間は多い場所
私はどうにか隠れられる場所を見つけて、夜になるのをひたすら待った。
少しウトウトして気が付いた頃、海の中は昨夜と同じく月明かりに照らされていた。
ただ昨夜と違うのは、なんだか少し遠くの方から人の声が聞こえること。
私は恐る恐る、ゆっくりと声のする方へと泳いでいった。
すると浜辺近くから、ゆっくりと沖へと漕ぎ出していく小さなボートを見つけた。
「何かしら・・・」
海の中からは人の陰までは見えない。
そうして見ているうちに、静かにボートは停まった。
そしてさっきよりも大きな声で、人の声が聞こえてきた。
私は驚いて、深く潜ってその場を離れようとした。
けれどもその時、声よりももっともっと大きな水の音が、体にまで響いてきた。
ばしゃーーん!!
私は怖い気持ちよりも、驚いた気持ちが勝ってそれを振り返った。
「え・・・?嘘・・・・!」
見るとそれは、ボートから落ちたのか人間が一人、海に投げ出されていた。
驚いて固まっていると、どうしてかさっきまで止まっていたボートはゆっくりと漕ぎ出し、浜辺の方向へ戻っていこうとしていた。
「え・・?なぜ・・・・?」
訳がわからず、慌てて落ちた人間を見るも、それは力なくゆっくりと沈んでいってしまう。
若い女性だわ。
長い髪と伸ばされた腕だけが、空を惜しむように伸びて落ちていく。
口から吐かれた空気の泡がとぎれとぎれに浮かんで・・・
私は無意識に彼女の方へ体が動いていた。
抱えるように受け止めて、少し離れてから海面へ出た。
「はぁ・・・はぁ・・・しっかりして!!目を開けて!!」
その子は咳込みながら水は吐き出したものの、意識がはっきりしない。
「どうしよう・・・どうしたらいいの・・・。」
人間にとってこの季節はきっと寒いもの、どうしたら助けられるのかわからない・・・。
とにかくどこかの浜辺へ・・・
自分でもどうして助けようと思ったのかわからないまま、船のないことを確認し、とにかく浜辺へと向かった。
人を抱えながら、海面に顔を出したまま泳ぐのは、想像以上に至難の業だった。
息を切らしながら、どれだけ泳いだか・・・何とか休める浜辺にたどり着くことが出来た。
「はぁ・・・ここ・・・昨日の場所だわ・・・。」
一先ず彼女を仰向けに横たわらせ、ロディアのコートを脱いだ。
濡れたコートを畳んで、目いっぱい絞った。
乾かさなければ体にかけてもきっと寒い・・・。
私は彼女の頭に畳んだコートをしいて、枕にすることにした。
「私じゃ・・・この子を温めてあげることも出来ない・・・。このままじゃ・・・。」
青白い顔をしたその子は、まだ10代後半くらいに見えた。
私に似た長い金髪が、海水で乱れてしまっている。
そうよ、この辺りに人里はないなら、もう一度彼に聞こえるように歌うしかない・・・。
ふぅ、と息を吐いて深い森を見つめる。
私には・・・足はないもの・・・。
目いっぱい息を吸い込んで、歌声を空気に乗せた。
祈るように、届くように。
お願いロディア・・・この子を助けてあげて。
空気に乗り、風に乗り、歌声は運ばれていく。
歌いながら、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
一頻り歌い終えると、遠くの方で強い魔力が森の中で光っているように見えた。
届いたのね・・・。
私は彼女の体が海水に当たらないように、出来るだけ体を浜辺に押した。
「大丈夫よ・・・。」
なんだか、涙が出そう
私に足はない・・・。
誰かと生きていくことは出来ない。
でもきっと貴女は助かって生きていける。
その時、近づいてくる彼の気配を感じた
「ロディア・・・今ならわかるわ。貴方がなぜ、私を助けてくれたか・・・」
でもここにはいられない。
私、誰かと生きてみたい、と思ってしまったの。
海に飛び込んで、その場を後にした。
水の流れに揺られながら、何度も浜辺を振り返りながら。
もうどこに戻るかわからなくなってもいい。
月明かりが差し込まないところまで、深く・・・。
海に溶ける涙は、誰にも拭ってもらえはしないの。
私はまた、暗い海の底で静かに生きていく。
貴方にもらった血を、この身に感じながら。