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sin-心-  作者: 小城
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sin-心-3

 この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。

 某タイムスリップ漫画とは、関係ありません。

 先に、拙著『戦国ラブコメ』を一読して頂けると、内容が、より理解しやすいかもしれません。

 戦国時代に迷い込んだ自称、臨床心理士の倉橋心。彼は、万相談役を勤める中で、友達となった服部半蔵や百地丹波守と伴に、信長のいる京都を見物していた。その中で、心は、信長の小姓、森乱丸と、信長の娘、月姫に出会う。


百合姫

 信長は大坂へ向かった。彼を襲おうとした刺客は、紀州の土橋一派の者だという。その背景には、本願寺受け渡しを拒む門主の息子一派が絡んでいるのではないかと疑われた。

 しかし、それらの騒ぎは、織田家に任せて、心と、半蔵、百地の3人は、信長の治める安土へ向かった。

「いつ見ても、テーマパークみたいですね。」

「てーまぱーく?なんだそれは。」

 百地が聞く。

「遊び場ですかね。乗り物とかがいっぱいある。」

「ふむ。未来は、よく分からぬな。」

 心は、百地たちに、本能寺の変のことなどを打ち明けてからというもの、幾分か楽になっていた。

 心たちが、安土城の石段を上っていると、後ろから、輿を囲んだ一団が来た。

「家中の者ぞ。」

 3人は跪き、一団が去るのを待った。

「いつっ…。」

 京都の雑貨店で遭ったような頭痛が、心を襲った。

「おい。心左衛門。」

 心が気が付くと、畳の上だった。

「ようやく気が付いたか。」

「百地さん。」

「無理をするなと申すに。」

「ここはどこでしょうか?」

 辺りは、夕方だろうか。広い座敷の襖からは、オレンジ色の光が見えた。

「織田の姫君の屋敷だ。会っただろう。彼らが、ここへ運んでくれたのだ。半蔵は、今、家老と話しておる。」

 心が気を失ったあと、通り掛かった姫君が、心配し、屋敷に通してくれたと言う。

「徳川家中だと言うてな。半蔵に感謝するのだな。」

 そういう百地も、おそらく、心の傍らに、付きっきりでいたのだろう。

「ありがとうございます。」

「ふむ…。」

 心の気持ちを、百地も感じ取ったのだろう。彼女は、人間の心の機微に敏感であった。

「おう。気が付いたか。」

 半蔵だった。

「今宵は、屋敷に泊めてくれるそうだ。まあ、この部屋で、寝ることになるがな。」

「何を今さら。」

 百地は、行ってしまった。

「姫君には、会われたか?」

「いえ。まだ。」

「そうか。京で会った姫の妹児にあたるらしい。」

「月姫様でしたか?」

「そうだったか?」

「気が付かれましたか?」

 姫だった。

「いっ…。」

 頭痛がした。

「大丈夫ですか?」

「はい。」

 心は、彼女をどこかで見た気がした。

「都で姉上がお世話になったそうで。」

「いえ。私はなにも。」

 姫は、心を、じっと見ていた。

「どうかされました…?」

「いえ…。どこかでお会いしたような。いえ。何か不思議な感じが致します。父母に会うたような…。」

 何か不可思議で、神秘的な感覚を、心だけではなく、姫も持っているようだった。

「申し訳ありません。分からぬことを。」

「いえ。乱丸には会いましたか?」

「えっ?」

 乱丸。心はそう言った。何故かは、分からない。それは、心の口からではなく、まるで、誰かに言わされているような感覚であった。

「森乱殿にございますか?」

「あれ…。今、私、何て…?」

 静かな時が過ぎた。

「まだ、疲れておるのだろう。」

 半蔵が口火を切った。

「すみません。では、ごゆるりと。」

 姫は去ろうとした。

「お待ち下さい。百合姫様。あなた方のことは、私が何とかします。ですから、ご安心下さい。」

「…。」

 再び、沈黙が走った。

「あなた様が、何者か、何となく分かった気がします。何卒、私や乱丸、姉上たちの未来をよろしくお願いします。」

 そう言うと、姫は去って行った。

「どうしたのだ?心左衛門。それに百合姫などと?それは、誰のことだ?」

「いいえ。半蔵さん。僕も、何となく、分かりました。」


斎藤利三

 心、半蔵たちは、三河へ戻り、信長も安土へ帰還した。上方からは、本願寺攻めの不手際から、織田家の家臣数人が、信長から叱責されたと聞いた。

「わしは、大殿の下へ戻るが、おぬしは、いつまで、いる気だ。」

 心たちが、岡崎に着いた後も、百地は、相変わらず、心の傍らにいた。

「三太夫へ、往来は送ったのか。」

「三太夫自ら、様子を身に来た。」

 百地は、岡崎に来てからも、ずっと、心と伴に、万相談室にいた。

「来ましたか?」

 心が尋ねた。

「昨日、嫁、姑のことを相談に来て、金子を置いて行った者がおろう。あれが、そうだ。あやつも、苦労しておる。」

「えっ!?全然、分からなかった。けど、三太夫さんって、奥方がいたんですね。僕は、てっきり…。」

「三太夫は、おれの兄ぞ。」

「お兄さん?」

「左様。何故か知らぬが、先代は、わしにまことの当主の役を与え、やつに、偽物の当主の役を与えた。まあ、その方が都合がよかったのだろうが、もはや、わしは、真偽を明らかにして、やつに里を任せても良いのだがな。」

「どのみち、しばらく、ここにいるということだな。まあ、良い。迷惑を掛けるなよ。」

「おぬしに言われたくはないわ。」

 こうして見ていると、百地と半蔵も兄妹のようである。

「御免。」

 万相談室に訪客があった。

「拙者、明智家臣、斎藤内蔵助と申す。」

「明智殿でございますか?」

「左様。石谷孫九郎の弟にござる。」

「ああ。石谷殿。」

 京都で世話になった明智家臣である。

「それで、何か御用でございますか?」

 万相談室には、机がある。といっても、文机であるが、それを挟んで、心と内蔵助は相対した。

「殿や兄に、噂をお聞きしておりましてな。美濃に用があったので、立ち寄ったのでござる。」

「それは、わざわざ、どうも。」

「あいや。先生は、人悩みを和らげる術に長けておられるとか。」

「?」

「殿は、先生の話をお聞きしてから、何やら、御様子が、和らいだような。己が身を案ずるようになったと思いましてな。」

「ああ…。」

 心は、いつか光秀と罪のことを話したことを思い出した。

「もとより、明智殿も、医術の心得があるそうなので、素養があったのでございましょう。」

「ご謙遜を。然れば、某も、ひとつお尋ねしたい儀がござるが、よろしいかな?」

「あ、はい。少々、お待ち下さい。」

 心は文机に、筆と紙を用意して、日付と名前を書いた。

「はい。どうぞ。」

「うむ。実は、某、此度、美濃へは、人を訪ねに参ったのでござる。那波和泉と申す某のかつての同輩にござってな。なかなか能がある者故、殿の下にお仕えさせたいと思っておるのだが、なかなか、うむと言わぬ。どうすれば、那波を説き伏せられるでござろうか?」

「本人が嫌なのであれば、それは、無理に説き伏せるべきではないと思います。」

「ふむ…。」

「その那波殿が、嫌がるのには、何か理由があるのでございましょう。それを、無理に説き伏せるのは、如何かと思います。」

「然れど、やつは、くすぶっているように見える。我が殿の下にくれば、今よりも、高禄で、いずれは城を持つこともできよう。」

「それは、斎藤殿のお考えにございます。那波殿は、また、違った考えを持っているかと思います。」

「だがな…。」

 内蔵助は、思い悩んでいるようだった。

「斎藤殿がそこまで、言うのには、何か、ご理由がお有りなのでしょうか?」

「りゆう?」

「訳と言いますか。先ほど仰りましたものとは、他に、何か、斎藤殿ご自身に、そこまで、那波殿を迎えたい訳があるように見えるのですが?」

 心は思った。内蔵助は、那波を明智家に迎えるのは、那波自身のためであると考えているようだが、心には、それが、内蔵助自身の問題にあるように思えた。

「…。」

 内蔵助は、しばし、黙考していた。心は、それを黙って見ていた。

「腹癒せ…。」

「腹癒せ…?」

「うむ。かつて、某も、その主の下に仕えておったのでござるが、実は、その主と馬が合わず、出奔して、明智殿に仕えたのでござる。」

「馬が合わず?」

「左様。融通がきかないと申すか…。それに比べて、明智殿は、家来衆のことをよく見ておられる。耳も傾けて下さる。」

「明智殿は、ご家来衆のことを思っているのですね。」

「左様。なので、那波が不憫であってな…。」

「斎藤殿は、那波殿と仲が良かったのでございますか?」

「うむ。互いに、槍を取り、先陣を駆けたこともござる。」

「伴に、先陣を駆けたのでございますね。」

「うむ。先生。何とかならぬものかの。某は、また、那波と伴に軍功を立てたいのでござる。」

「那波殿が、何故、斎藤殿の誘いをお断りしているか、その訳は、お尋ねなさいましたか?」

「いや。尋ねても、黙っているだけにござる。」

「それは、何か言いにくい訳があるのかもしれません。」

「言いにくい訳?にござるか。」

「はい。先ほど、斎藤殿が、悩みながらも、仰って下さったように、何か、心の内に思っていることがあるのかもしれません。」

「ふむ…。それは、如何様にすれば、尋ねることができようか?」

「今、斎藤殿が、某に仰ってくれたのと同じにございます。何故、今、斎藤殿は、心の内を明かしてくれたのでございますか?」

「それは、先生が、某の心の内に気づかせてくれたからにござるが…。」

「そうですか…。ひとつ、お教え致します。」

「何がにござる?」

「人というものは、こちらが、心の内を明かせば、向こうも、心の内を明かしやすくなります。」

「ふむ。」

「それが、仲の良い者同士ならば、なおさらにございます。なので、那波殿に、斎藤殿の気持ちを、順を追って、お伝えしてみたらどうでしょうか?」

「某の、気持ちをか…。」

「先ほど申し上げられた、また、那波殿と伴に、先陣を駆けたいというようなお気持ちをです。」

「ふむ。」

「それでも、那波殿が、斎藤殿のお誘いをお断りされるような訳があるならば、斎藤殿も納得されるのではありませんか?もし、それでも、納得できないようならば、また、ここにお訪ね下さい。そうすれば、某も伴に、また、考えますので。」

「ふむ。いや、まるで、禅僧の問答のようだ。承知仕った。何かあれば、また、知恵を頂戴しに参ります。」

「いつでも来て下さい。それと、そのことに気付かれたのは、斎藤殿、ご自身のお力にございます。某は、ただ、きっかけを作ったに過ぎません。」

「なるほど。先生の言い分、至極、最も。」

 内蔵助は、丁重に礼を述べて言った。

「まこと、謝礼は良いのでござるか?」

「謝礼は入りません。特に決まってもないですし。」

 心は、謝礼を貰わなくても、信康から禄を食んでいるので、困ることはない。それでも、どうしてもという者には、その半分だけを、ありがたく頂戴していた。

「それでは、これにて。」

 内蔵助は、これから美濃の友人の下へ行くと言っていた。

「終わったか。」

「どこにいたのです?」

 百地はいつも、クライアントが来るといつの間にか消えて、クライアントが帰ると、いつの間にか現れる。

「明智というやつ。そんなに良い主か?おれはあのような者に仕えとうはないがな。」

「どうしてですか?」

「前に、都で会ったとき、あの者は、おれを小娘と思うて、侮っておった故、挨拶もせなんだからな。」

「そうでしたか?」

「そうじゃ。」

 百地は、そう言って、畳の上に寝転がった。


安土再び

「織田殿が、京で開く天覧馬揃えに、父上の名代として、参加することになった。」

 岡崎の万相談室で、信康が言った。本来は、織田家の者だけで良いのだが、遠江の状況も穏やかなので、信康が名代として、信長に馬を献上し、そのまま、参加するらしい。

「心左衛門も参加するのだぞ。」

「某がにございますか?」

 聞くところによると、天覧馬揃えと言うのは、帝観覧のパレードのようなものらしい。

「馬の乗り方は…。まあ、大丈夫だろう。」

 信康は、床に寝転がっている百地の方を見た。彼は、うすうす、百地の正体に気付いているようだし、心のことも、それとなく存知ているようだった。

「馬乗りなど、並足で、馬に任せておけば良いのだ。」

 岡崎城の馬場で、心の乗馬訓練が行われた。指導教官は、百地である。

「手綱を引き過ぎじゃ。」

「ちょっと…。待って!?」

 真っ直ぐは進めるが、方向転換がうまく行かない。

「おれが口取りしてやる。」

 百地が心の轡を取り、伴に歩くと、心を乗せた馬は、スムーズに方向転換をする。

「いっそのこと、それで、参加してはどうだ。」

 半蔵が立っていた。彼もまた、馬揃えに参加するらしい。

「何故、おれが口取りなど。」

「案外、似合っておるぞ。」

「…。」

 百地は心の顔をじっと見つめた。

「参るか。」

 年が開けてすぐ、信康一行は、岡崎を発った。心の乗る馬の轡は、百地が引っ張っていた。信康らは、このまま安土へ向かい、年始の挨拶を済ませた後、しばらく、逗留して、信長と伴に、京都へ向かうらしい。逗留先は、またしても、明智邸だと言う。途中、信康は、岐阜で、信忠に年始の挨拶を交わした後、連れ立って、安土へ向かった。

「近頃、父上は、寛容になられた。」

「義父上がでござるか。」

 信忠が言った。信康一行には、後ろの方に、徳姫の行列もいる。

「能道具を見ても、以前のように、さいなまれなくなってのう。」

「左様にございますか。」

 その変化が何によるものなのかは、分からない。それでも、何か、この時代の些細な変化の巡り合わせなのかもしれない。

「よう。参られた。ゆるりと過ごされよ。」

 一行は、信長に面会した。

「は。有難き御言葉にございます。三河守よりの進物にございます。」

 信康が目録を渡した。その相手は、森乱丸だった。

「ほう鹿毛の馬か。楽しみであるな。わしは、馬揃えには、葦毛を出そうと思うておる。」

 信長は馬が好きらしい。心は、それが、スポーツカーや名車を集める現代人のように見えた。

「姫も息災で何よりだ。それに、其方たちは、京で会ったな。」

 信長は心に向かって言った。

「は。その節は、お世話になりました。」

「うむ。」

 心は緊張した。信長。噂に聞く信長である。

「逗留先は、日向の所であったな。」

 信長は、再び、信康と話し出した。

「明日は、左義長故、其方たちも楽しむが良い。」

「(左義長…?)」

 左義長とは、1月15日の行事で、どんと焼きなどとも言う。

「(すごい、渋谷のハロウィーンみたいだ…。)」

 左義長の日、安土城の馬場では、爆竹が鳴らされ、老若男女貴賎の別なく、思い思いの出で立ちで、城下に集っていた。

「おい。」

 心は百地と一緒にいた。半蔵は信康と伴にいる。

「カステラじゃないですか。」

 茶屋の一画に、カステラ、金平糖など、見覚えのあるお菓子が並んでいた。

「お召し上がりなさいませ。」

 茶屋の主が言った。心は、カステラを一切れ食べた。

「甘い。」

 戦国時代に来て、初めての砂糖の甘さであった。心は、金平糖も口にしたが、それも、やはり、甘かった。

「甘いぞ。これは、あまづらとは異なるぞ。」

「あまづら?」

「甘い汁だ。」

「これは砂糖の甘さですよ。」

「砂糖?」

「甘い粒。」

 心と百地は、甘酒も飲んだ。それは、今度は、麹の自然な甘さであった。


馬揃え

 ひと月程のち、信長一行は、京都に入った。その中には、信康たちもいた。馬揃えは、昼前から昼過ぎまで、行われた。

「(すごい群衆だ…。)」

 戦国時代にこれほど人がいたのかと思う程、辺りは、隙間もない程に人だかりができていた。それを織田家の侍たちが、警護している。それは、テレビで見るVIPのパレードそのものであった。そのようなことを思いながら、心の乗った馬は、百地に引かれて歩いて行く。

「(あれは…。)」

 桟敷席に、少女が二人いた。

「いっ…。」

「どうした?」

 百地が尋ねた。

「大丈夫です。」

 頭痛がしたが、以前のときより、だいぶ、軽くなっていた。

「(おそらく、この頭痛がなくなれば…。)」

 それが、心が、この世界に迷い込んだ理由なのだと思った。

「皆の者、御苦労であった。」

 夕方前に、馬揃えは終わった。群衆も散り散りとなり、人々は、それぞれの逗留先へ帰った。

「織田殿がいる本能寺だ。」

 信康たちは、京都所司代、村井民部の屋敷に逗留している。そこへの途上に、本能寺があった。

「(本能寺…。)」

 傍らにたたずむ寺は、塀と堀と林に囲まれて、建物は見えない。心は、この寺が、焼けてしまうだろうと言うことは、知っている。しかし、心の中で、今では、それは、未来のことではなく、過去のことになっていた。


利三再び

「御免。」

 心らの宿所に訪ねて来たのは、斎藤内蔵助であった。

「おられたか。先生。」

 内蔵助は心のことを先生と呼ぶ。

「あれから、如何でしたか?」

「今日は、そのことを、伝えに参った。実は…。」

 内蔵助は静かに話し出した。あの後、内蔵助は美濃へ行き、那波和泉守に会ったという。

「先生の仰るように、某の心の内を那波に伝えましてござる。」

 それを聞き、しばらく、那波は黙っていたという。心がそうしたように、内蔵助も、また、黙って、那波を待った。

「其方の気持ちは分かった。ありがたいことだ。と那波は申しました。」

 俺は、良い友がきを持ったものだと。

「然れど、俺は、主の忠を大事にしたい。それは、おぬしたちのためでもある。考えてもみよ。もし、おぬしに続き、俺までも、家中を出奔したとすれば、主の面目は愚か、仲立ちをしたおぬしや、明智殿の面目にも、関わろう。主は、頑固には違いないが、それでも、俺を重宝なさっておる。それに、近頃、主は、家督を若君にお譲りなされた。今は、その若君を盛り立てていかねばならぬとき。左様なときに、家中が乱れては、主も報われぬであろう。」

 那波和泉守はそう言ったと言う。

「その言葉を聞き、某は、耳が痛くござった。己の短気を恥じる思いにござる。然れど、那波は、某が、気持ちを打ち明けてくれたこと。それに、伴に先陣は、駆けられぬとも、戦場で、相まみえたときは、容赦はせぬぞと申しおった。」

「はは…。まさに猛将ですね…。」

「なので、某も、そのときは、遠慮なく、其方の首を貰い受けると応えた。」

 心は、改めて、ここが戦国時代なのだと思った。

「然れど、何故か、お互い、腹の内は、すっきりしてござる。」

「それはよかった。」

「先生のおかげだ。そこで、此度は、近江へ参り下さらぬかと思いましてな。」

「近江にございますか?」

 近江は、明智光秀の所領で、そこに、内蔵助の屋敷もあるので、そこで、もてなしをしたいということだった。

「行って参るが良い。」

 信康と半蔵に相談したとき、彼らは、そう言った。

「我らは先に、三河へ戻っている故、時は気にせず、ゆるりと過ごして来るが良い。」

 信康はそう言って、明智家と斎藤家に持って行く進物を用意してくれた後、向こうで述べる口上と書状を用意してくれた。

「百地がいれば良いだろう。」

 半蔵は、一足先に用事があり、遠江へ戻るという。

「心左衛門の面倒を見てやるのだぞ。」

「分かっておる。」

 半蔵は百地にそう言ったが、その後、心に向かって、小さく頷いた。


近江

 信長たちが、安土へ戻った頃、心は百地を連れて、近江に向かった。伴には、内蔵助もいた。

「岡崎殿よりの進物にござる。」

「忝い。」

 内蔵助の屋敷に、心と百地は、逗留した。内蔵助は、百地のことを、よく働く下女だと思っているらしかった。

「ほう。伊賀の生まれにござるか。」

 道理で、体付きが違うと言った。

「どういうことだ?」

「動きが良いということにござるよ。」

 屋敷に泊まっていると、光秀が石谷を連れてやって来た。

「申し訳ありません。本来ならば、こちらから挨拶に伺わなくてはならないところを…。」

「お気になさるな。」

 心は進物を渡した。

「内蔵助が世話になったようで。」

「いえ。とんでもない。」

 光秀は心たちの前に胡座を掻いて、座った。

「もとより、某も、那波殿を無理に迎えるのは、どうかと思っておったのだよ。」

「左様でございますか。」

「某も、稲葉殿と、もめることはしたくない故な。」

 那波が仕えているのは、稲葉家というらしい。

「ところで、そちらは?」

 光秀は、百地の方を見た。前回は、百地のことは、意に介していなかったが、何故か、今回は、光秀も、余裕があるのか、ゆるりと話している。

「服部半蔵の縁者じゃ。」

「ということは、伊賀のお生まれにござるかな?」

「そうじゃ。」

 光秀は、百地をじっと見ていた。

「なんだ?」

「失礼だが、ご婦人にござるかな?」

「見れば分かるであろう。」

「あいにく、近頃、目を病みましてな。時折、ぼやとしか見えなくなるのでござる。」

「(そうなんだ…。)」

 心は思った。もし、自分が眼科医だったならば、何かできたのだろうかと思った。

「目薬の木の汁を点じれば良かろう。」

 百地は言った。

「そのような物がおありなのかな?」

「今度、採ってきてやろう。」

 その後、心らは、ゆるやかな時の中で座談をして過ごした。光秀は知識人らしく、心や百地から、いろいろな事を聞いていた。

「ほう。それ故、我らの住するこの大地は、丸いと言うわけでござるか。」

「例えば、遠く船出して行く船を見ていると、下の方から、見えなくなっていくでしょう。もし、平らであれば、そういうこともありません。南蛮の船乗りたちは、自然とそういうことを知っていたようでございます。」

 心も、なるべく答えることにした。それは、この世界が、自分が元いた世界とは、別の歩みをしていると、今では、思っているからだった。

「それ故、南蛮の船乗りたちは、東からも西から、大地を渡ってやって来るのでございます。」

「どちらから進んでも、元いた所に行き着く訳だな。」

「そういうことにございます。」


長浜

 光秀たちから、もてなしを受けた翌日、百地は、朝から出掛けていた。

「これが目薬の木だ。」

 百地は、カエデのような枝と樹皮を持っていた。

「この皮を煎じた汁を目に点じると、眼病が治る。」

「(本当かな…?)」

 心は思った。百地は、それを内蔵助に教えていた。

「それでは。岡崎殿にもよしなに。」

 数日滞在して、心と百地は、近江坂本を発した。

「高島まで、お送りしよう。」

 心らは、内蔵助の案内の下、湖西を北上し、高島に着くと、そこの庄屋の屋敷に一泊した。

「では。」

内蔵助と別れ、心と百地は、船に乗り、長浜へ渡った。

「船が見えますね。」

「織田様の世になってから、往来も増えましてござる。」

 船頭は、長浜の出身だという。

「筑前殿は、良き殿様にござる。」

「へえ~。」

 筑前殿が誰のことかは、分からなかったが、それは、羽柴秀吉のことであった。彼は、近江長浜の城主であるが、このときは、中国地方で、軍勢を率いて、毛利家と対峙していた。

「立派な町ですね。」

 長浜の城は、琵琶湖に面していた。通りには、人々が多くいる。

「行くぞ。」

「つっ…。」

 百地がそう言ったとき、再び、心は頭痛に襲われた。

「おい、またか…。」

 辺りは船着場である。とりあえず、百地は、心の背中を支えた。行き交う人々は、皆、遠くから、二人を一瞥して去って行く。護摩の灰か何かかと思われているようだった。

「つっ…。」

「おい。しっかりせよ。」

 心の頭痛は治まることを知らなかった。そのうち辺りがざわめき出したかと思うと、船が一艘着き、中から人が数人降りて来た。

「何事か?」

 それは、信長であった。森乱丸もいた。

「其方らは…。三河の。」

「岡崎殿の御家来衆の倉橋殿と才蔵殿かと。」

 乱丸が言った。百地は織田家の前では、才蔵と名乗っていた。

「癪でも起こしたのか?」

「どこか休める所はなかろうか?」

 百地が必死に言った。

「ふむ。此度は、安土へ帰ろうと思うておったが…。良い。乱。長浜へ遣いをせよ。」

「は。」

「虎。担いでやれい。」

「は。」

 信長の小姓だろうか、若武者のような凛々しい男子が、心を背負った。

「城へ参るぞ。」

 信長一行は、心を連れて、長浜城へ向かった。


第六天魔王

「気が付いたか。」

 以前のように、心が気が付くと、百地が傍らにいて、心は、畳の上に寝かされていた。

「信長に礼を言うのだな。」

「信長さん?」

 心は、自分が倒れた後の事情を聞いた。

「あやつらは、今、支度をしているようだ。」

 突然の主君の登城に、城中は、ばたばたしていた。食事や寝泊まりの準備をしているらしい。

「おれらも、城に泊まらせてくれるらしい。」

「そうなんですか…。」

 夕方、食膳が運ばれて来た。相変わらず、城内は、慌ただしいようだった。

「良くなったか。」

 信長であった。食後、心と百地が休んでいた所に、突然、信長が乱丸を連れて入って来た。

「この度は、ありがとうございました。」

 心は平服した。彼もいつの間にか、戦国時代人のようになっていた。

「固くならずとも良い。」

 信長は、どかっと座った。

「日向の所に参っておったそうだな。」

「日向…?」

「明智のことだ。」

 百地が助けてくれた。

「おう。斎藤内蔵助殿よりもてなしを受けました。」

「ああ。あやつか。」

 信長は呟いた。

「倉橋と申したか。おぬし、何者だ?」

 久しぶりに受けた質問であった。

「会うたときから、思うておった故、いつか聞いてみたいと思っていたのだ。おぬし、侍ではなかろう。言葉振りや風体も変わっておる。それが、何故、岡崎殿に仕えておる。」

「それは…。」

 心は一考した。信長は、このときの天下人である。そのような人間が、心の話を信じるのか。それに、本当に話してしまってもいいのだろうかと思った。

「心左衛門。言うても構わぬだろう。」

 百地が言った。

「偽りは聞かぬ。」

 信長が言う。

「そうですか…。では、私は、倉橋心と言います。」

「心?」

「それが、私の名前です。2021年の日本から来ました。」

「二千二十一年。南蛮の暦か。」

 信長は鋭かった。彼はヨーロッパの宣教師から知識も仕入れているのだろう。

「然れど、南蛮坊主たちは、今年は、一千五百八十一とか申しておったがな。二千二十一年とは、だいぶ先だ。」

「未来になります。」

「海ではなく、時を越えて来たか。して、その証はあるか?」

 信長は、まだ、信じた訳ではなく、ただ、面白がっているだけのようである。心は、腕時計を見せた。それは、もう止まっていたが、心は腕にはめていた。それを、外して見せた。

「からくり時計か…。それも、小さい。」

 信長は、目を凝らして、それを見ていた。

「珍しい物には、相違ないが、おぬしが、時を越えてやって来た証にはなるまい。」

 信長はそれを乱丸に渡した。

「これを。」

 心は背負い袋を開けた。

「何だこれは?」

「スマホにございます。」

「すまほ?箱ではないか。」

 それはもはや、電源のない箱である。

「少々お待ち下さい。」

 心が取り出したのは、予備バッテリーだった。非常用にリュックサックに入れていたものである。もう使うこともないかと思っていたが、持ち歩いていた。

「(まだ入っているか…。)」

 予備バッテリーは、放っておくと、徐々に漏電していく。信長は、その予備バッテリーも不思議に眺めていた。

「ついた。」

 スマホのバッテリーが上がった。待機画面の後、起動した。

「何事か、これは?」

「未来の道具にございます。」

 心は、信長からスマホを借り受け、カメラを起動して、百地の写真を撮った。そして、信長と乱丸の写真も撮った。シャッター音が響いた。

「そこな女子ではないか?」

「こちらが、上様にございます。見たものを写し撮ることができます。」

「わしか…。」

 信長は、口髭をいじりながら、画面に映った自分の顔を見ていた。それを後ろから、乱丸が覗いていた。

「ふははは…。これは驚いた。信じよう。おぬしの言い分。わしの負けだ。ふははは…。然れど、世の中は、不思議なものぞ。時を越えるなど。おぬしは神仏ではないのであろう?」

「はい。紛れのない人間です。それに、何故、私がこの世に迷い込んだのか、詳しいことは分かりません。」

「ならば、おぬしは、自ら、時を越えて来たという訳ではないのだな。」

 信長は、乱丸から、渡された腕時計とスマホを心に返した。

「ひょんなことから、この世界にやって来ました。」

「迷い人ということか。それが、今は、岡崎殿の所に厄介になっている訳か。」

「はい。」

「心当たりはないのか?」

「ないことはありませんが…。」

「左様か。ならば、良かろう。」

 信長はそれ以上、尋ねなかった。

「ところで、迷い込んだということは、おぬしは、もとの世に戻ろうとしている訳か?」

「はい。」

「ふむ。詳しいことは聞くまい。しかし、久々に良いものに出会うた。長年の憂さを晴らすことができたようだ。倉橋心と申したか。礼を言おう。」

「とんでもございません。」

「ふははは…。天下を取ったつもりであったが、時を越えて参ったか。それでは、太刀打ちできまい。」

 信長は笑っていた。心は、信長という男は、これほど笑う者なのかと思った。

「ただ、上様に申し上げたいことがございます。」

「聞こう。心。」

「どうやらこの世界は、私が知っている世界とは、また、異なるようなのです。」

「異なる世界とは如何?」

「それが、私がこの世界に呼ばれた訳だと思っていますが、少しずつ、私が知っている世界とは、ずれてきている気がするのです。それに、先ほどの頭痛…。」

「頭痛?」

「はい。何かがあるとき、突然、頭が痛くなり、気を失うのです。おそらく、それが、きっかけであると。」

「おぬしは、この世界を変える役目として、呼ばれたということか?そして、そのきっかけが頭痛であると。」

「はい。」

「ふむ。ならば、こうして、おぬしとわしが会うのも、何故かのことという訳か。」

「詳しくは分かりませんが。」

「とは、言え、わしらには、それを知る術はなし。もとより、未来など知らぬ故な。全ては、おぬしの心次第であろう。」

「そうなります。」

「きっかけか…。」

 信長は、口元を押さえていた。

「おぬし。今まで何をしてきた?」

「何をとは?」

「おぬしがして来たことだ。わしは、天下に武を布くことであった。然れど、それも、近ごろは、行き詰まりつつある。」

 心は、違和感を覚えた。もはや、信長にとって、天下統一は、目の前ではないのだろうか。が、とりあえず、心は、信長の質問に答えることにした。

「私がしてきたことは…。人々の悩みを聴き、それに応えること…。」

「人々の悩みを聴き応えることか。それがおぬしの役目であったのだな。」

「はい。」

「左様か。ならば、心よ。わしの悩みに応えてもらおう。それが、きっかけなのだろう。」


天下布武

「わしの悩みを一言で申すならば、わしに天下は取れぬということだ。」

 心は驚いた。歴史上の偉人である織田信長の悩み相談を受けるとは思ってもいなかったし、その信長の悩みが、天下を取れないということだと。

「それは、どういうことでしょうか?」

 心と信長の対話を乱丸は、黙って聞いている。一方、百地は、飽きてきて、もう眠いらしい。心たちがいる一室は、外側に面しているとは言え、段々と暗くなってきた。

「そのままよ。わしが天下を治めることは適わぬ。」

「それは、何故、そう思われるのでございましょう?」

「ふむ。時を越えて来たおぬしには、分からぬか。然れど…。」

 信長は、考えあぐねているようすであった。

「乱。」

「は。」

「うぬならば、分かるであろう。」

 信長はそう言った。

「恐れながら、天下の主は、上様を除いて他にはおらぬと、某は思いまする。」

「うぬも分からぬか。」

「申し訳ありませぬ。」

 心は思った。信長は英雄である。英雄は時に、普通人とは異なる。おそらく、彼は、感覚的に物事の先見性を捉えることに長けているのだろう。おのれがなにをするべきか、おのれがどこまで行けるのか。そういうことが、信長は分かる。見えると言った方が良いのかもしれない。そして、自分は、その光景に向かう。周りの人も、巻き込む。時には、その走る速度に、周りの人々が付いて行けないこともあるのかもしれない。しかし、信長は走るしかない。それを誰かが止めるまで。だからこそ、信長は、自分の限界が分かる。だが、それを言葉にするのは難しい。

「失礼仕ります。」

 心は、袋から、筆紙を取り出した。

「乱。机と灯りを持って参れ。」

「は。」

 しばしの休憩の後、乱丸が、文机と、行灯を持ってきた。心は、戦国時代に来て、初めて、行灯を見た。

「ありがとうございます。」

 心は、文机に冊子を広げ、それに墨で、織田信長殿と書いた。

「今日は、幾日にございましょう?」

「天正九年。卯月十日にござる。」

 乱丸がそう言った。

「上様。これが、天下だとします。」

 心は、紙の端に、大きく天下と書いた。

「ここに上様がいます。」

そして、その反対側に、上様と書いた。そして、そこから、反対側に向かって、矢印を引いた。

「こちらから、こちらへ向かうのに、何が足りないのでございましょうか?」

「人だな。」

「人?」

「うむ。あとは、もとより、わしに天下に立つ器はないということだ。」

「器にございますか?」

「うむ。永禄の頃、わしは尾張の荒野で、ただ、名主として生きて来た。親父が死に、若くして当主となり、そのとき、わしのやることは、簡易であった。今、思えば、あの頃が、一番、良かったのかもしれぬ。」

 信長は言った。

「周りは、わしの敵ばかりだ。身内も臣下も、皆、わしを見下し、殺そうとして来た。わしは、ただ、それを討ち平らげるだけであった。そして、いつの間にか、わしは、尾張を平らげた。そしたら、道三めが、殺される間際に、俺に、美濃を譲った。それも、敵国を譲りおったのだ。自ら、切り取れということだ。それに、八年もかかった。」

 そう語る信長は、うれしそうだった。

「ようやく、美濃を手に入れたと思えば、次は、将軍が、わしを頼って来た。天下に武を布けと。それからだな。生きることが、つまらなくなったのは。」

「信長様…。」

 心は、つい名を呼んだ。目の前にいるのは、英雄でも、天下人でも何でもなく、ただ、自分たちと変わりない一人の人間だった。

「元亀の頃は、大変であったな。そうだな、毎日が、あの田楽狭間のようであった。周りが皆、家中を挙げて、わしを追って来る。仕舞いには、将軍までも、わしに歯向かうて来た。向こうから、わしを頼って来たのにな。笑えるであろう。」

「はい。まことに。」

「は。左様よ。だから、わしは、向かって来る者は、撫で斬りにした。当然のことだ。将軍も西国に逃げた。残ったのは、天下だけよ。仕方がない。わしが取るしかないわな。尾張のうつけと呼ばれていたわしが、天下に令しておる。わしは、そのことを、夜な夜な、独りで笑っておったわ。」

「上様…。」

 乱丸も、静かに、信長の話を聞いていた。

「茶の湯、相撲、南蛮人たち。おもしろいのは、それくらいだわ。天下など、居座れば居座る程に、皆、わしに歯向かうて来る。わしは、休まるときもなく、走り続けた。時に、先手を取り、時に、後手を取り、殺し合うしかない。天下など、誰かに譲ってやりたいのだ。どうだ。分かったか?」

「はい。」

 信長が言っていたことは、始めに言っていたことと異なるし、脈絡はない。しかし、言わんとすることは分かる。それが、信長の本当の気持ちなのであろう。

 信長の悩みは、現代人のそれと変わらないのかもしれない。人々の上に立つ者独自のと言えばよいのだろうか。現代では、トップに立つ人たちの政治も、ある程度システム化されている。だから、人々は、そのシステム通りに、動いて行けば、ある程度、目的は達成されるし、仲間もできる。しかし、信長の場合は、そのシステム自体が敵となり、刃を向けて来ている。本来、信長は、そのシステムを修理しようとして立ち回っていた。だが、もはや、そのシステム自体が、機能不全に陥っていた。そして、いつの間にか、その誤動作したシステムが、信長を敵と見なし、攻撃して来たのである。

 信長はシステム管理者として、それを何とかしようとして、試行錯誤している。今もその最中なのだろう。しかし、本来、彼は、システム管理者であり、システム開発者ではなかったのかもしれない。


織田三郎信長

「上様は、大変なお苦労をして参りました。それは、今の話で、よく分かりました。」

「左様か。」

「残念ながら、私には、上様が天下を取る術をお教えすることはできません。何故なら、それは、某にも、分からないからにございます。」

「最もなことだ。」

「しかし、私に言えることがあるとしたら、上様は、けして、お一人ではないということにございます。」

「…。」

 信長は黙っている。それは心の真意を掴もうとしているのだろう。彼は、直感力に優れているが、その反面、物事を深くまで見ることができる。

「城介様もいます。」

「菅九郎か。」

「徳姫様もおります。」

「五徳か。」

「信康様も、家康様もおります。」

「岡崎殿。三河殿。」

「乱丸殿も、明智殿も、秀吉殿もおるでしょう。」

「乱。日向。筑前。」

「他にも、私が存知上げないながらも、上様の周りには、大勢の方たちがいるはずです。」

「…。」

「彼らは、ここまで、上様が走って来るのを信じて、付いて来られた方たちにございます。」

「うむ。」

「なので、上様も、彼らを信じて上げて下さい。」

「わしが信じよというか。」

「はい。ただ、信じる。それは、おそらく、天下人よりも、優れた凄いことなのだと、私は思います。」

「信じることは、天下よりも、重いと。」

「はい。」

「なるほどな。」

 信長は頬杖を付いた。心の後ろでは、いつの間にか、百地が眠っていた。

「ただ、もうひとつだけ、私がお伝えできるとしたら、上様は、人よりも、物事が明らかに見える性質のように思われます。」

「せいしつ…。性分ということか。」

「はい。その通りです。それが、人よりも優れております。しかし、上様と同じ景色が、周りの人たちも、見えているとは、限りません。それが、時に、腹立たしく感じることがあるかもしれません。」

「思い当たる節はある。」

「それ故に、苦手かもしれませんが、ご自身の思っていることや考えを、今一度、噛み砕いて、人に伝えることが肝心かと思います。」

「はっはっは。おぬし。もう、わしが分かっておるわ。それが、わしにとっては、何よりも苦痛で、つまらぬのだ。者共にも、戦などでは、各々が自ずから、猿が木から木へ飛び移るように、立ち回りできるようにと思うておる。」

「おそらく、それが、上様の、今までの強みだったのでございましょう。然れど、今は、それが行き詰まりを見せていることは承知のはずです。」

「なるほどな。わしが、己で白状した訳だからな。」

「はい。時が変われば、求められることも、自身の考えも変わります。右と左、どちらが正しいかではなくて、時に、右、時に、左に向かいながら、歩いて行く。それが、天下への道筋なのかもしれません。」

「見事。倉橋心。よう、わしに天下への道を示した。」

「ありがとうございます。」

「なるほどな。今一度、己の考えや思うことを噛み砕いて、伝えるか。」

「上様は、今まで、急いで走って来られました。故に、今は、もう少し、その歩みを緩めても良いのかもしれません。」

「ふむ。肝に銘じておこう。」

「上様。微力ながら、某も、天下への道、お伴仕りたく存知まする。」

 乱丸が応えた。

「頼りにしておるぞ。乱よ。」

「は。」

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