sin-心-2
この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。
某タイムスリップ漫画とは関係ありません。
先に、拙著『戦国ラブコメ』を一読して頂けると、内容が、より理解しやすいかもしれません。
階段から落ちた拍子に、何故か戦国時代にタイムスリップした臨床心理士の倉橋心は、偶然、出会った徳川家臣と伴に、お家騒動に巻き込まれる。その中で、彼らの話を聞き、また、彼らも、心の話を聞き、事態は思わぬ方向へ、舵を切ることになり、本来、切腹するはずの家康の息子が生き延びることになった。そんなことは、露知らず、心は、次なるステージである織田家の内紛に巻き込まれていく。向かう先は、本能寺の変。
未来人
心は、安土城の天守を仰ぎ見ていた。
「何度、見ても豪勢じゃなあ。」
そんな心の傍らに半蔵がやって来た。
「織田殿は、今年の夏に、天守に御座をお移りなられたそうな。」
「へえ~。」
「ところで、心左衛門。おぬし、まことは、何者なのだ?」
「え?」
「皆、気が付いておらぬと思うておったのか?まあ、行く先々で、おぬしの素性を変えてしまう故、おれたちも、悪くは言えぬが。少なくとも、武蔵生まれで、南蛮渡来の船乗りにしては、肌も焼けておらぬし、筋肉も付いてはおらぬ。」
心は思った。やはり、彼らは戦国の者なのだと。おそらく、この服部半蔵は、今まで、様々な所で、密かに、心を観察していたのだろうと。
「…。」
心はどうしようかと思った。
「まあ、言いたくないことは無理には聞かぬ。」
半蔵は、その場を行こうとした。
「待って下さい。」
彼らからしたら、心は不審な人物でしかない。それでも、なお、彼らは心のことを信用してくれている。そんな彼らの心根に応えたいと思った。
「何と言えば言いのでしょうか…。私は、この世界に迷い込んだと言いますか。もともとは、この世界の人間ではない。」
「…?」
「服部半蔵。と言えば、忍者。忍び。」
「忍びということもないが、もとは伊賀者だな。」
「伊賀忍者ですよね。黒装束を着て、手裏剣を投げたり…。」
「そういう者もおるにはおるだろうがな。何故、そのようなことを知っておる?」
「徳川家康さん。今川義元。桶狭間で織田信長に討たれた。」
「…?」
「あとは、長篠、鉄砲。南蛮渡来のポルトガルとか。オランダ。あとは、秀吉さん。」
「秀吉?」
「猿みたいな人。信長さんの家来の、草履を温めたっていう。」
「羽柴筑前のことか?かような者もいるとは聞くが。」
「あとは…。」
本能寺の変。しかし、それを口にすることは憚った。第一、彼らはそのことを知らないだろう。
「何のことやらさっぱりだ。正直に申せと言うのは、おぬしではないか。」
そういえばそんなことを言った気もした。
「未来。」
「未来?ずっと先のことであろう。」
「そう。私は、未来からこの世界に迷い込んだのです。未来の日本。東京。そこで、僕は、心理士をしていました。人々の心を見つめる仕事です。」
「未来の日本…?」
「はい。たぶん、今、ここから、500年くらい先の日本です。階段から転げ落ちたら、あの三河の沼地にいました。」
「500年先の世から来たか。」
「はい。」
「並の者が言うたとしても、信じることはできまいが、おぬしには、それなりの証もあるしなあ。」
「信じてくれるのですか?」
「おぬしが言うのならばそうなのだろう。」
半蔵は笑っていた。半蔵のその言葉が、心にはうれしかった。
小姓
半蔵に自分の素性を打ち明けた後、心は、改めて、自分の境遇を見つめることができた。そして、できるならば、未来へ帰ることを望んだ。
「(漫画だと。確か、同じ場所で、似たようなことを起こして、現代に帰ったはずだけど…。)」
しかし、あの沼地に高いところなどはなかった。
「(帰れるかどうかは、全くの偶然…。あるいは、何かをやり遂げた後…。)」
漫画やアニメだと、だいたいそんな筋書きである。
「(何かって何だ…?)」
心には思い付かなかった。そうこうしている内に、信康たちは、三河へ帰ることになった。
「帰りも、岐阜へ寄ろうではないか。」
信康は言った。ことの次第を信忠に報告したいのだろう。
「(解決することだけが答えではない。)」
心は、先輩の心理士に、そう言われたことを思い出していた。
「(問題の解決は、確かに、個人の課題にとっては、重要だが、それだけではないと知っておいた方が良い。時には、自然に任せることが大事なときもある。そういうときは、実は、問題の解決というのは、結果でしかなかったと、後から気付くものだよ。)」
後半の言葉の意味は分からなかった。しかし、心も、とりあえず、未来への帰還のことは後回しにしようと思った。
「これは、森殿。」
信康らが岐阜に着くと、安土から信長の遣いで、小姓が来ていた。
「岡崎様にございまするか。」
彼は、信長からの太刀を信康に渡したときにいたあの小姓であった。その太刀の礼として、信康は、三河からの信長への返礼品が届くのを待っていたことから、しばらく、安土に逗留していたのだが、そのときにも、度々、顔を会わせた。
「(綺麗な顔立ちの子だな。)」
小姓はまだ、中学生くらいなのだろうか。それでも、端正な顔立ちをしていた。
「三河守様によしなにと上様が申し上げておりました。」
「それは忝い。」
「では。これにて。」
小姓は去って行った。
「あの方は、確か?」
「森乱殿だな。」
半蔵が言った。
「美濃の森武蔵殿の弟君らしい。」
「森乱…。」
彼の後ろ姿を、心はどこかで見たことがある気がした。が、それは、気のせいなのだろうか。
「参られたか。」
岐阜では、再び、信忠に会った。
「義兄上のおかげにござる。」
「おれは何もしておらぬ。それより、父上は、おれのことを申しておったであろう。」
「かようなことはございませぬ。」
「おぬしは嘘が下手だな。」
信忠は言った。
「おれは、父上のようにはなれまい。」
安土城で、信長は、信忠のことを愚息と言っていた。心は、それが現代人の感覚から謙遜であると思っていたが、もしかしたら、信長と信忠の間には、確執があるのかも知れない。
「左様なことはございますまい。」
酒食の席で、信康は言う。
「我と彼と、とりかへられば、良きものを。」
「父こそなけれ、母こそなけれ。」
どういう意味なのだろうか。二人は、おそらく、和歌に思いを託したのだろう。しかし、そのやり取りの真意は、心には、分からない。
「三郎殿は、能はやっておるのか?」
「はあ。たまに、やることもありまするが…。」
「それは、良いのう。」
信忠は、少し酔っているようである。
「能って、あの能狂言の能ですか?」
「未来にも、あるのか?」
心は、半蔵と話していた。
「城介殿は、能がお好きなのだ。されど、織田殿がな。」
半蔵は忍びだけあって、いろいろな情報に詳しい。
「半蔵。おぬしも能をやるのか?」
聞き耳を立てていたのだろうか。信忠が聞いてきた。
「いえ。某などは、猿回しにもなりませぬ。」
「猿回しならば、靱猿でも、やれば良いのだ。」
「それは、重畳。」
一堂は、既に、2時間くらい酒を飲んでいる。
「城介様は、能がお好きなのでございますね。」
心は尋ねてみた。
「おう。本来ならば、わしは、大名などせず、能役者にでもなりたいものだ。」
「義兄上。お戯れを。」
「戯れではない。先だって、三河守殿より頂いた世阿弥の秘書も、朝夕、学んでおるわ。」
「城介殿は、お父上のようになりたいのでございますか?」
「おれか、おれは父のようにはなれまい。然れど、ならねばなるまい。曲がりなりにも織田家の嫡男であるからな。父上もそれを望んでいよう。」
「必ずしもなることはありませんと、思います。」
「はっ。面白いことを言うやつだな。名は何と言う?」
「心左衛門にございます。」
「心左衛門よ。おれは何になればよいのだろうな。」
「城介様は、そのままで良いと思います。」
「そのままで良い?」
「おう。城介様は、城介様ですので、お父上になる必要はありません。城介様とお父上とは、別の人間にございます。」
「別の人間…。」
「おう。ですので、城介様は、城介様の思うようになさればいいかと思います。」
「おれは父上とは、違うか。その通りだな。うむ。酔いが醒めた。礼を言う。」
「いえ。」
それは何気ないやり取りだった。しかし、それは、やがて、芽となり、運命を変えて行った。
万相談役
岡崎に戻ってから、心は、城内にある信康の屋敷に厄介することになった。岡崎に着いてすぐは、信康たちは、家康への報告などに追われて、忙しそうであったが、冬が近づく頃になると、今度は、城内は、年末の準備で、慌ただしくなった。半蔵は、家康と伴に、遠江に戻ることになり、心も、遠江に行くか、どうするかと問われたが、このまま三河に残ることにした。というのも、やはり、自分が現れたこの地で、何か、現代に帰るヒントを探したかったのである。
「(暇だな…。)」
何度か、あの沼地を訪れて見たが、何も分からなかった。城内を行き交う人々は、忙しそうにしているのに、心だけは、何もできずに、暇を持て余していた。
「家中の者の話を聞いてみてはどうか?」
あるとき、信康は言った。
「年寄りのような仕事にはなるがな。其方は適役だと思うが。どうか。」
「なるほど。」
次の日から、信康の屋敷の一室で、万相談役の看板が掲げられた。
新しい命
「それは…。また、つらいことでございます。」
岡崎城の一隅で、心は家中の者たちのカウンセリングをしていた。
「ありがとうございます。先生。」
「また、何かあれば、お訪ね下さい。」
心は、帳簿に、今日の日付とクライアントの名前、相談内容を書き綴った。驚いたことに、戦国時代であっても、相談内容には、人間関係の悩みと呼べるようなことが多かった。あとは、田畑のこと。金銭のこと。現代にあっては、それらは、法律家やそれぞれの専門家たちが、問題の解決を担う。しかし、この戦国乱世にあっては、そうした社会システムは、未だ不十分で、人々は、自給自足するしかない。そうした中で、人々の団結心という物は、強くなり、よくも悪くも、人々は、それに拘束される。そういった中での、相談事も少なくない。あと、心が思ったことは、意外と信心深い人が多いことだった。
「(戦国時代の人って、もっと、斬った斬られたって感じだと思っていたな…。)」
彼らは、そうした中で、宗教に救いを求め、団結するのかも知れない。そういう所は、現代人と、何も変わることはなかった。
「(人の心は、そんなに変わらないのかも知れないなあ…。)」
社会システムは変化する。人の心は、そうした環境の影響下にあることは間違いないだろう。しかし、本質的な人間性は、案外、どの時代でも、変わらないのかも知れない。
「ごめん下さりませ。」
「どうぞ。」
やって来たのは、信康の妻の徳姫だった。
「心左衛門先生には、改めて、お礼をと思っておりました。その節は、ありがとうござりました。」
「とんでもございません。」
「あれ以来、三郎殿は、何かと、わたくしのことを気にかけて下さり、奥へも、しばしば、参られて下さいまする。」
徳姫の傍らには、女中が控えていた。
「それに…。新たに、稚児も授かることができました。」
徳姫は、お腹をさすった。
「それは、おめでとうございます。」
これから一年後、徳姫は、信康の嫡男を生むことになる。それは、心のいた時代の歴史には、登場しない命であった。が、心は、そのことを知る由もなかった。
伊賀
心が、岡崎城で万相談をしている間、信康は、度々、遠江へ兵を連れて、出陣していた。
「武田攻めが、佳境に入って来たからな。」
徳川家は、武田家の遠江高天神城を囲んで攻めているらしい。
「では、参る。」
信康は家来たちを連れて、遠江へ向かった。
「心左衛門。」
「半蔵さん。」
心が岡崎城下を歩いていると、深編み笠を被った侍が、声を掛けて来たと思ったら、服部半蔵であった。
「ちょうど、おぬしを訪ねるところじゃ。」
「私を?」
心は、半蔵を伴い、城にある万相談室に入った。
「先生と呼ばれているらしいな。若殿から聞いたぞ。」
「三郎様からでございますか?」
「うむ。実は、三郎様に、おぬしをしばらく貸してくれるよう頼んでな。」
「はあ?」
「わしと伴に、伊賀に参ってはくれぬか?」
「伊賀に…ですか?」
「ああ。大殿よりの命でな。昨今、織田殿は、伊賀国を攻める手筈を算段しておる。知っての通り、服部家は、伊賀の生まれだ。わしの組下にも、伊賀者が多くいる。その縁者も伊賀国には、多い。それ故、戦になる前に、彼らを、引き寄せておこうと思ってな。」
「戦を止める訳ではないのですか?」
「戦を止めるか…。まあ、それが、できれば良いのかも知れぬが、無理じゃろう。伊賀者は、案外、意固地だからな。」
「だから、私もということですか?」
「そういうことだ。」
翌日、心は、半蔵に連れられて、伊賀国へ向かった。
「急ぐ、必要もあるまい。日に、五里も歩けば良い。」
「すみません。」
心は、この時代に少しは慣れたとは言え、体は、まだ、もたない。
「伊賀国は、山奥にある故、今の内にへばってしまっては、適わぬからな。」
「はあ…。」
半蔵一人ならば、2、3日で着く所を、心は、10日程掛けて、ようやく、伊賀国の伊賀里に辿り着いた。
「なんだ。半蔵か。」
半蔵が訪ねたのは、山奥の一軒家だった。
「なんだとは、存外だな。」
「まあ、上がれ。」
話していたのは、小柄な老人であった。
「そちらの御仁はなんだ?風変わりな男だな。」
「500年先の未来から来た先生だ。」
「それは、奇怪な。」
心についての話題はそれだけだった。
「(この人は、忍者なのだろうか…。)」
心は思った。
「して、用事はなんだ?」
「うむ。織田家が伊賀攻めの算段を立てているのは知っておろう。長門守殿らは、如何なる心得であるか?」
「昨年、信長の息子が攻めて来たな。彼らは退けたが。悪鬼め。やつは、しつこく伊賀を許すことはあるまい。」
「うむ。其方たちが、よければ、徳川の下に来ぬか。」
「里を捨てろと言うか?」
「其方たちも、みすみす死ぬことは望まぬだろう。」
「まだ、死ぬとは決まっておるまい。信長が死ぬかも知れぬ。」
「右府を討っても、誰かが攻めて来よう。」
「わしが、良くても、百地はそうはいかぬだろう。」
「丹波殿か…。」
「今、伊賀で最も、力があるのは、百地だ。それというのも、おぬしの父親が、里を抜けたからよ。」
「抜けたとは聞いてはおらぬ。」
「抜けたも同然よ。どのみち、伊賀の行く末を決める手だては、わしは持っておらぬ。それでもというのならば、じかに、百地に問え。まあ、おぬしの気遣いだけは、もらっておく。」
「左様か。」
半蔵は一軒家を後にした。
「あの方は…?」
心が尋ねた。
「伊賀の上忍のひとつ藤林家の当主の長門守殿だ。」
「こんな所で、一人暮らしているのですか?」
「うむ。まことの当主だな。」
「まことの当主?」
半蔵が言うには、皆が知る藤林家当主、長門守は、砦の近くに屋敷を構えているという。しかし、それは、似非の当主であり、本当の当主は、先ほどの老人だと言う。
「伊賀里では、目に見える物は全て偽物よ。」
半蔵はそう言った。
「ようやく、来たか。服部半蔵。」
次に半蔵と心は、堀に囲まれた、屋敷に向かった。そのは、伊賀上忍家のひとつ百地家当主、丹波守の屋敷だと言う。
「藤林の所に行っていたのか?」
「ああ。」
「藤林は、何と言っていた。」
「其方、次第だと言うておった。」
「ふ。まんまと騙されたな半蔵。今、伊賀で、一番、力があるのは、やつだ。信長の暗殺にしても、やつが、糸を引いている。」
「偽りを申すな。」
「かっかっかっ…。」
百地は笑っていた。
「織田に降れ。里の者を見殺しにしたくない。」
「伊賀者は、どうなる?」
「望む者は、わしが面倒を見てやる。他の者は、百姓となり、畑を耕せばよい。もとより、今までと、何も変わらぬ。」
「田畑を取り上げられては、里の者は生きて行けぬぞ。」
「逃散すれば良かろう。そこで、大名に仕えるなり、田畑を育てるなりすれば良い。おぬしのことだ。つてはあろう。」
「ないこともないが。限りがある。」
「それ故、わしも手伝ってやると言う。」
「かっかっかっ…。分かった。幾人か里人を見立ててやる。国へ連れて行くが良い。、我等もいずれ、いずこに逃散して果てよう。」
「そうか。」
「今宵は、屋敷に泊まっていけい。」
百地丹波守
「行くぞ。」
夕餉の支度ができる前に、半蔵が言った。
「屋敷を出る。泊まるのは、他だ。」
「どうしたんです?急に。」
「百地は、我等を殺すだろう。」
そういうと、半蔵は、心に、頬被りをさせて、屋敷の塀を越えて、外へ逃げた。
「柘植の屋敷へ行く。」
柘植家は伊賀者の中では、孤立しており、彼らの一族では、織田家に属する者もいるという。
「来ると思っておった。」
出迎えたのは、当代、柘植清広であった。
「百地など、何を言っても無駄よ。」
半蔵と心の噂は、伊賀里中に知れ渡っているらしい。
「百地が織田に降ることはないよ。」
「然れどな。」
「何故、そう肩入れするのだ。半蔵は。」
「仲間を見殺しにすることは、忍びないだろう。」
「仲間か。おぬし変わったな。」
柘植は、ずっとすり鉢で何かを摺っていた。
「すみません。」
心が手を挙げた。
「百地殿は、何故、そこまで、戦うことにこだわっていられるのでございますか?」
柘植は、不思議な目で心を見たが、それほど、気になるようでもなかった。
「何故かの?考えたこともないな。」
「里の人々の命を守るのならば、織田家に降ることも考えていいのではないでしょうか?」
「織田家が許すとは限らないからな。」
「それでは、織田殿に、約束してもらえば良いのでは?」
「織田の約定か。」
半蔵が言った。
「安堵状か。もらえるとは、思わぬがな。何より織田家は、今、人よりも、国が欲しいはず。もはや、この国に、織田家を妨げる大名もおらぬ。身内にやる土地が欲しいのは、やまやまだろう。」
「織田の天下を妨げるのは、外ではなく、内に潜んでいるやも知れぬぞ。」
その日は、柘植の屋敷に泊まった。
柘植清広
半蔵と心は、織田家からの約束の取り付けを模索した。
「やつらは約束など、信じはしないだろう。」
柘植清広はそう言った。
半蔵が仲介役に選んだのが、近江瀬田の山岡氏であった。彼らは、もとは、甲賀の生まれだった。
「やはり、百地がうむと言わねば、難しい。」
三河などと手紙のやり取りをしていた半蔵も、根を上げた。
「織田家に降るには、面通しがなければならぬ。」
「やはり、無駄だよ。」
相変わらず、柘植清広はすり鉢を使っていた。
「百地殿に、もう一度、会ってみませんか?」
心が言った。
「殺されるだけだ。」
柘植が言う。
「でも、百地殿の真意が分からないとやりようがないですよ。」
「わしが付いて行ってやる。」
「長門守殿。」
そう言ったのは、いつの間にか、そこにいた藤林長門守であった。
「(いつからいた…?)」
雲、霧、影、そのときの藤林長門守を形容する言葉は、自然物でしかなかった。しかし、心の他の二人は、そのことを別に意に介していない。
「わしがいれば、百地も滅多なことはできまい。然れど、わしは付いて行くだけで何もせぬぞ。」
藤林長門守
「これは、これは、藤林殿。久しぶりじゃのう。」
「左様か。もう、昔のことは、とうに忘れたわ。」
心と半蔵は、藤林を連れ立って、百地屋敷に行った。
「先日は、残念じゃ。馳走を用意していたのだがな。」
「その節は、あいすまぬことをした。急用ができた故。失礼仕った。」
「なんの。それで、此度はなんじゃ。」
「織田に臣従することだ。百地殿。伊賀の頭目が、織田殿に面通しするならば、甲賀の山岡殿らが、仲介してくれる手筈になっておる。」
心が思っていたよりも、意外と話は進んでいた。
「信長に面通しか。そのときに、わしの腕が言うことを効くかの。」
「それは、俺が上から押さ付けてやる故、安心せい。」
「かっかっかっ…。それでは、始終、半蔵と、寝起きを伴にせねばなるまいな。」
「すみません。」
心が手を挙げた。瞬間、金属が飛んできたが、藤林がそれを弾いた。金属の棒は、そのまま、床に刺さった。
「妙な真似をすると命はないぞ。」
百地が言った。
「待て。今のは挙手というものだ。」
「きょしゅ?」
「己がこれから問答をするという合図だ。」
半蔵がフォローしてくれたが、心の内心は、戦国時代に来て、一番、恐怖していた。
「えと。申し訳ありません。百地殿にお聴きしたいのでございます。」
「なんだ?」
「百地殿は、伊賀の人たちの命を救いたいのでございますか?」
「命?そりゃあそうだろう。命を落とせば、元には戻らぬ。」
百地は飄々としている。何が本音で何が本音でないのかは分からない。心にできることは、百地を信じることだけだった。
「ならば、戦を避けることも大事ではありませんか?」
「避けられればな。誰が、その証をくれる。」
「だから、織田に面通しをせよと言うておる。」
半蔵が言った。
「信じられぬがな。」
「どうしたら信じられます?」
「何故、そのようなことを尋ねる?」
「それができるならば、戦を避けられるのでございますね。」
「…。」
百地は黙った。
「伊賀国は、山深く、都に近くとも、下国とされた。その裾々に、伊賀者は、田畑を耕し、生きてきた。そのなかで、頼れるのは、己自身よ。仲間と言えど、信じることはできぬ。それ故、伊賀は、上忍が別れておる。それで、天秤が揺れぬようにしておる。中には、そのような狭小な生き方を拒み、他国へ出る者もおる。半蔵。おぬしの父などのようにな。然れど、わしは、伊賀を束ねる上忍家の身。伊賀に生まれ落ちて、伊賀に死ぬ。他国を使うことはあれど、他国に仕えることはない。それは、わしの下忍たちもそうだ。」
「それは、聞いてみたのですか?」
「聞く?」
「下忍の方々がどう思っているのか?」
「上忍の命を聞くのが下忍であろう。」
「それは百地殿のお考えです。人々が何を思っているのかは、まことに聞いてみなければ分かりません。」
「そうじゃ。百地殿。人は人。おぬしはおぬしじゃ。」
「こやつは、坊主か、何かか?」
若い女性の声が聞こえた。
「若。」
百地の座っている後ろの壁が開き、高校生くらいだろうかの少女が現れた。
「三太夫。あとはおれがやる。」
百地が座を移動して、その少女が真ん中に座った。
「半蔵。こやつは何者だ?何を企んでいる。」
「心左衛門殿は、500年先の未来から来た。理由は、分からぬ。然れど、自らの故地へ戻る術を探しながら、人助けをしておる。ここへは、おぬしらを説き伏せるべく、わしが呼んだ。」
「500年先の未来から来たか。」
心は、いまいち、状況が飲み込めなかったが、何となく予想は付いた。
「(目に見えるものは全て偽物…。)」
今まで、相手にしていた百地丹波守は、偽物で、今いる少女が本物の百地丹波守なのだろう。
「お前、まことに、500年先から来たのか?」
少女は心の目を真っ直ぐ見つめた。彼女のまつげは長く、綺麗な瞳をしていた。
「おう。」
「おう?」
「あ、はい。」
「ならば、おれたちがどうなるのかも知っておるのか?」
「そこまでは知りません。」
「ふむ…。あくまで、決めるのは、おれたちということか。」
「そういうことになります。」
「良いだろう。」
百地三太夫
百地丹波守は、その日の内に、一党の中、下忍たちを集めた。
「織田と戦をしたい者は右手へ。望まぬ者は左手へ付け。」
「殿様は、どちらにござる?」
「わしは、どちらでもない。」
一団を指示しているのは、百地丹波守ではなく、百地三太夫であった。正体を知っているのは、伊賀者の中でも、限られた者たちだけなのだろう。人々は、皆、お互いの出方を窺っているようであった。やがて、一人が右手へ付くと、一団は皆、ぞろぞろと右手の方へ行った。
「明白じゃな。」
戦を望まぬ者は、一人もいなかった。
「すみません。」
心が前へ進み出た。
「もし、百地殿が、戦を望まぬと言ったら、皆さんは、右手と左手どちらに付きますか?」
心は三太夫の方を見た。
「と言うことじゃ。わしは、本当は、戦は望んでおらぬ。」
「ならば、俺もじゃ。」
人々は、ぞろぞろと左手の方に移った。
「皆さんは、百地殿を信じておられるのですね。」
「当たり前だろう。」
一団は、皆、口々に言った。
「ということですが、どうでしょうか?百地殿。」
再び、心は、三太夫の方を見た。
「わしもだ。わしも、本当は、戦は避けたい。大事な者を失いたくないのでな。かっかっかっ…。」
三太夫は、大きな声で言った。
伊賀忍者
しばらくして、伊賀の上忍、百地、藤林、両者は、半蔵と伴に、近江の山岡氏の所へ向かった。
「500年後には、侍はいなくなっておるのか。」
「はい。」
その頃、伊賀では、心が百地丹波守と藤林長門守を相手に、雑談をしていた。
「我等の行く末のことは、知らぬのだな。」
老人の藤林が言う。
「それは…。はい。」
「おぬしの言わんとしていることは分かるよ。わしも、もし、おぬしであれば、人には言わぬだろう。」
「はい。」
「自分の命運は自分で決めるものなのだろう。」
「それに、もしかしたら、この世界は、私が知っている世界とは、異なった世界になっているのかもしれません。」
「どういうことだ?」
少女の百地丹波守が尋ねた。
「虫の予感と言いますか。何かに導かれているような感じがします。それが、私が知っているものとは、違う世界に変えようとしていると言いますか。」
「なるほど。それ故、おぬしは、この世界に呼ばれたという訳か。」
「はい。それに、その行き着く先が、何なのかというのも、何となく見当が付きます。」
「それは神仏か、何かなのか?まあ、しかし、それよりも、おぬしが言う、外つ国の生き物のことはおもしろい。何と言ったか、ぱんだか、きりんか。」
「象ならば、南蛮から来たことがあると聞いたな。」
「まことか?」
藤林が言うと百地が食いついた。
「もう何十年も前だ。九州の大友の下に連れて来られたとか。」
「まことに、鼻が長いのか?」
「らしいの。」
二人を見ていると、祖父と孫という感じである。その内、半蔵たちが帰って来た。
「伊賀者、数名は、三河へ連れて行く。あと、もとより、織田殿は、昨今の伊賀攻めは、伊勢の息子が勝手に兵を率いてしたことらしくてな。その不手際を怒っていたわ。伊賀は、甲賀と伴に、山岡殿の与力になった。もとより、近江での闇討ちのことなど詰問されたが、二人がよくやってくれたわ。」
「信長の狙い撃ちなどは、もとより、我等の意ではなく、本願寺や他の大名らの意向だ。我等は、雇われたに過ぎない。」
百地丹波守が答えた。
「まあ、もう滅多なことはするな。」
堺
しばらくして、本願寺が信長と和睦したという報せを受けた。伊賀では、百地三太夫らが、織田家と仲立ちをして、うまくやっているらしい。
「町がすごいですね。」
「堺は、商いの町だからな。」
その頃、心と半蔵は、堺にいた。
「おい。半蔵。南蛮人がおるぞ。」
「指を指すな。恥ずかしい。」
二人の傍らには、百地丹波守がいた。というのも、三太夫の願いでもあった。
「若は、今まで、里の外を知らぬ故。しばらく、外のことを見せてやってはくれぬか。」
三太夫はそう言っていた。
「里は、わしらで何とかなる故。」
それから、三人旅が始まった。
「おい。船ではないか。」
「これ待て。一人で行くな。」
丹波守は走って行った。
「小娘と変わらぬではないか。」
ところで、半蔵の堺見物は、家康の意向でもあった。上方の探索とつながりを作るのが目的である。
「そんなに、大殿様のもとを離れていてもいいのですか?」
「三郎様。いや、若殿がおられる故な。」
徳川家も、近頃は、うまく行っているらしい。遠江高天神の城も、心らが伊賀に逗留している間に降伏したという。心は、知らないことだが、遠江高天神城陥落も、本来の歴史より、半年以上、早かった。それに、本当ならば、高天神城の兵士たちは、降伏が許されず、ほぼ全滅している。その辺りでも、徐々に、歴史が変わっていた。
「おい。あれを見よ。」
半蔵が指差した先には、百地と誰かが口論していた。
「あの小娘が…。」
半蔵と心はすぐに向かった。
「すまぬな。どうやら、わしの連れが悪いことをしたようだ。」
相手は数人の侍たちだった。
「おい。おれは悪いことなどしておらぬぞ。」
「ああ。その娘の言う通りだ。」
相手の侍が言った。話を聞くと、彼らは、土佐から来た者で、これから、京都に向かうらしい。
「初めてではないのだが、何分、様変わりしていてな。娘に、この辺りのことを聞いておったのだがな。逆に土佐のことを尋ねられて、困惑していたのだ。」
「どのみち迷惑かけた。京都ならば、わしらも行くところだ。良ければ、案内仕るが。」
「左様か。とりあえず、宿に参りたいのだ。」
「安い用だ。」
石谷光政
「ほう。貴殿らは、三河守殿の御家来衆か。」
一行は、土佐、長宗我部家の家臣で、石谷というらしい。
「わしは、もとは、将軍様にお仕えしていたのだがな。娘が土佐に嫁いだ故。今は土佐にいる。此度は、養子が、近江にいる故、彼を訪ねるところじゃ。」
石谷の養子が織田家の明智光秀に仕えているらしい。心らと石谷たちは、堺の同じ宿に逗留し、翌日、連れ立って、京へ向かった。
「父上。」
京の鳥羽口に着くと、待ち合わせていたのだろうか、明智家の侍であろう数名がいた。
「おや。貴殿らは、岡崎殿の家来衆の?」
「どこかでお会いしたかな?」
「安土の日向守様の御屋敷にいた石谷孫九郎にござる。覚えていないのも無理はござらぬ。某が覚えているだけにござる。」
以前、信康と安土に行った際、世話になった明智邸で見かけたのを覚えていたらしい。彼が、光政の養子である頼辰であった。
「そちらの娘子は?」
「わしの従兄弟にござる。山奥育ち故、都を見物させているのでござる。」
足下を見ると、百地が半蔵の足を踏んづけていたが、当の半蔵は意に介していなかった。
石谷頼辰
一堂は、吉田神社の神官、吉田兼見邸に逗留していた。
「我等は、地方に宿を取るので、構いませぬよう。」
「いや。三河守殿の御家来衆を蔑ろにすることは、主の面目に関わります故。しばし、お待ち下され。」
そう言って、結局、心らも、兼見邸に逗留することになった。
「おい。心左衛門。」
「はい。」
「町へ行くぞ。」
百地が言った。半蔵は、石谷らと話をしている。
「勝手に行っては、まずいですよ。」
「行くぞ。」
百地は、心の腕を引っ張って行った。
「前に、三太夫から聞いたことがある。」
百地は言った。心の見る京都の町は、不思議だった。現代で見た京都とは、まるで違うのに、どこか懐かしい。
「あれが、帝が居るところだな。」
一帯が塀に囲まれている場所があった。
「御所ですか。」
現代でいう京都御苑辺りだろうか。
「見つけたぞ。」
振り向くと半蔵がいた。
「心左衛門も、伴に、何なのだ。」
「すみません。」
「おれが連れ出した。それで、どうだったのだ?お前のことだ。いろいろ探りを掛けたのだろう。」
「ふむ。石谷たちは、長宗我部と織田との仲立ちに来たらしい。」
三人は、御所の周りを歩いて回った。
「孫九郎は、もとは、美濃斎藤氏の出で、弟も、明智に仕えている。石谷家も美濃の出で、孫九郎は、その養子だが、義妹が、土佐国主、長宗我部の殿に嫁いでおるそうな。」
「それ故、やつら石谷の者たちが、織田と長宗我部の仲立ちに動いている訳か。」
百地は、世間知らずなのかもしれないが、百地家当主だけあって、こういうことには鼻が利くらしい。
「今、長宗我部は四国の大半の領している。織田殿は、それを切り取り次第と朱印に、したためたが、どうやら、きな臭くなっているようだな。」
「ふむ。やはり、織田など信じられるのか?」
「皆、考えることは同じということだ。」
日向守光秀
石谷たちは、近江坂本へ行くつもりだったが、そのまま、兼見邸に留まることになった。というのも、光秀は、今、丹波にいるらしく、近々、京に参るので、兼見邸で落ち合うことになった。
「上様も、上洛なさるという噂もあるそうで。」
兼見邸で孫九郎が言った。上様とは信長のことである。彼は、和睦が成立して、大坂を退去することになった本願寺の様子を見に来るらしい。
「ならば、わしらも、しばらく留まるか。」
半蔵一行は、安土を抜けて、岐阜から三河へ帰る予定だったが、御命が上方の探索である以上、信長の上洛も見届けておこうと思った。
「わしは、ひと走り、三河へ戻り、すぐに舞い戻って来る故、大人しくしているのだぞ。」
そう言って、半蔵は行ってしまった。それから2、3日して、邸内が騒がしくなったかと思うと、現れたのは、光秀だった。
「其方たちは、岡崎殿の家来か?」
「はい。」
半蔵はおらず、心と百地の二人だけであった。光秀としては、おそらく、友誼の訪問なのだろうが、心は、気が気でなかった。
「服部殿は、今、留守にございます。」
「いや。此度は、挨拶だけ。気遣いは無用。」
「(思ったよりも、気さくな感じだな…。)」
本能寺で主君を裏切った大罪人のイメージがあるが、やはり、それは、後世の偏見なのだろうか。
「そこもとは、名を何と申したかな?」
「岡崎三郎様の家来で、万相談役を勤めております。倉橋心左衛門と申します。」
「万相談役?それはどのような御役目なのかな?」
「はい。家中の方々のいろいろな悩み相談などを聞く役目にございます。」
「ほう。まるで、年寄衆のような。その若さで、なかなかの賢才とお見受けいたす。」
「滅相もありません。」
「悩みか…。」
光秀は、嘆息したように見えた。
「何かお悩み事にございますか。」
「いや。他家の方の手を煩わせることにはござらぬ。然れど…。」
「然れど?」
「ふむ。では、ひとつだけ、問おう。貴殿は、この世で、もっとも悪逆な罪は何だとお思いかな?」
「もっとも悪い罪にございますか?」
「左様。主殺し…。」
光秀がそう言ったとき、心に悪寒が走った。
「不忠、謀反人、別心…。様々あるだろうが。」
「どうしてそのようなことをお尋ねに?」
「いや。分からぬならば、良いのだ。」
「いえ。私は、明智殿が、何を罪と思っておいでなのかは、分かりませぬ。然れど、それに苦しんでおいでならば、それは、罪というより、病。」
「病…?」
「はい。某の考えにございますが、苦しみの陰には、病が隠れていることもございます。それ故、もし、明智殿が何かに、お悩みならば、それは、明智殿ご自身のせいではなく、何かしらの病に侵されていることもございます。故に、罪が先にあり、気鬱になるのではなく、病で気鬱だからこそ、罪がある。なので、まずは、十分に静養なさり、病を治すことが肝要かと思います。」
「なるほど…。まるで医者のようだ。確かに、それはあるな。いや、某も多少は、医術の心得がある故。なるほどな。病だからこそ。罪に思うわけか。」
「あくまで、例えにございます。」
「いや。ためになった。礼を申す。」
丁重に礼を言って、光秀は、帰って行った。
「おい。」
百地であった。
「お前、何かあの男に、思い当たることでもあるのか?」
「えっ。どうしてですか?」
「見れば分かる。」
百地は、じっと心の目を見た。相変わらず、百地の瞳は、薄く輝き、宝石のようであった。
「おぬし、人の悩みばかり、聞くが、おのれのことはどうなのだ?おぬしの万相談役などはおるのか?」
心ははっとした。現代では、心の周りに、悩みを言える友達などはいた。しかし、戦国時代に来て、どうだろうか。一人で抱え込んでいることが多いのではないかと思った。かつて、半蔵に未来人であることを言ったとき、伊賀で、百地や藤林らと話したとき、そうしたとき、心の内面は、幾分か、軽くなり、地下から地上に上って来るような感じがした。
「おぬし、自分でも知らぬ間に、一人で何とかせねばと思っておらぬか?その意気は良いが、言っていることとやっていることが、かたちぐであるぞ。」
「かたちぐ?」
「おぬしなら、言わずとも分かるであろう。」
確かに、百地の言うことは、痛いほど分かる。
「少しは、おれを頼れ。おぬしには、恩もある。」
14、5歳の少女だろうか。そんな妹のような子に、頼れと言われるとは思わなかった。しかし、百地の瞳は、心の心を見透かしたように透明で綺麗だった。
「外に出ましょう。」
心は、百地を連れて、屋敷を出た。
倉橋心
百地と心は、吉田神社の森を歩いた。
「本能寺の変だったか。それが、それほど大事なのか?」
心は、百地に、未来のことを話した。それは、心が妹に話すように、気安く、世間話のようであった。
「たぶん、それを、防ぐのが、役目なのではないかと。」
「それは、おぬしがそう思っているだけであろう。」
そうとも言える。
「謀反など、珍しくもない。それで、誰が死に、誰の天下になろうが。いずれは、また、誰かに覆されるだけだ。おぬしの世界で、その本能寺の変とやらが、大事とされていようとも、今、生きているおれたちには、関わりないことだ。」
百地は、明け透けなく、物を言ってくれる。それが、気鬱とした心には、気持ちが良く。うれしかった。
「何だ。にやにやして。」
「えっ!?そうですか…。」
「それに、前にも、言うたであろう。この世界は、おぬしが知っている世界とは、異なると。」
「そういえば…。たぶん。そうですね…。」
「それならば、別に、悩むことなど、その本能寺の変とやらを気にすることなどないのではないか。」
「そうなりますね。」
「おぬしは、おぬしの思うようにすれば良い。それに、おぬしが、未来に帰られなくなったとしても、おぬし一人くらい養うことはできよう。」
「百地さんにですか?」
「…。おれもできなくはないが。半蔵がいるだろう。」
「…。そうですよね。」
「どのみち。おぬしは一人ではないということだ。」
「左様。」
出て来たのは、半蔵だった。彼らはいつも、知らないところから出て来る。
「悪いが、話は聞かせてもらった。二人がこの森へ入って行くのを見かけた故な。伊賀者の性分と見て、諦めてくれ。」
「おれは気づいていたぞ。」
「ふっ…。然れど、わしも、百地と同じ考えよ。もとより、ここは、わしらの世。心左衛門の世とは、異なるだろう。おぬしの知っている未来は、ここでは過去と同じ。気にすることはなかろう。」
「僕の知っている未来は、過去…。」
「そうだ。」
半蔵は笑っていた。
森乱丸
信長が上洛した。目的は、本願寺受け渡しの視察である。
「都見物か。」
半蔵が持参した手土産を持って、一行は信長に拝謁した。
「ゆるりと過ごせ。」
「は。有難く存じまする。」
半蔵は手土産を小姓に渡した。
「用も済んだし、帰るか。」
「いいんですか。織田殿がゆるりとって、言っていましたけど。」
兼見邸内で、半蔵と心は話をしていた。
「それでも、この屋敷にいつまでも厄介になるわけには、行くまい。」
石谷も光秀も既にいない。
「おれは、もう少しいるぞ。信長の様子も知りたい故な。」
「いずれにしても。市中に宿を取るぞ。」
一行は、兼見に挨拶と三河からの手土産を渡した。
「殿様にも、よしなに。」
「長く世話になり感謝する。」
兼見は、痩せた初老の男性だった。年齢は、分からなかったが、顔を合わせたときは、いつも、神主の格好をしていた。
「留まるといえども、長くはおれぬぞ。」
「良い。」
早速、百地はどこかに行こうとしていた。
「待て。どこに行く。」
「信長の宿所に忍び込むのだ。」
「…。おぬしというやつは。良い。心左衛門。すまぬ。わしは、小娘の世話をする故。市中見物でもしていてくれ。おい。」
そうして、半蔵と百地は行ってしまった。
「市中見物か…。」
当てもなく、心は、京の町へ出た。京の町には、いろんな人がいる。侍、商人、馬方、南蛮人…。
「(イメージと違うな…。)」
その人たちは、皆、生きていた。そして、歩いていた。その姿は、現代の町で見かける人たちと何ら変わらない。
「あ…。」
ふと通り掛かったところに雑貨屋のような店があった。店内には、櫛やら何やらが置かれていた。いちおう心は、この時代の銭貨は持っていた。それは、万相談のお礼や信康、半蔵などからもらった物だった。
「(何かお土産でも買って行こうかな…。)」
いつ戻れるかは分からない。しかし、戻ったとき、この時代にいたことの思い出が欲しかった。それは、タイムスリップの証拠ではなく、この時代で出会った友達とも言える人々のことを忘れないように。
「ごめんなさい…。」
店の中は、さほど広くなく、中には、客が3人いた。
「いつっ…。」
心の頭に刺すような痛みが走って、すぐに治まった。
「申し訳ありません。」
若い女性とぶつかりそうになり、声を掛けられた。
「いえ。こちらこそ。」
女性の傍らには、少年と少女がいた。
「(百地さんと同じくらいかな…。)」
その少年の面影を心は、どこかで見たことがある気がした。
「月姫様はどれをお買いになるのですか?」
「これにいたします。」
少女は、玉の飾りが付いた雑貨を選んでいた。
「それでは、私も同じ物を…。」
そのようなことを言って、二人は、いろいろと選んでいた。
「(何がいいかな…。)」
あるのは、女性用の小物が多いようである。しかし、そのどれもが、心には、物珍しく、いろいろと眺めているうちに、いつの間にか、店内は、心、一人になっていた。
「(これにしよう。)」
何をどれに使うのか、分からないので、櫛にした。
「これは、いくらでございますか。」
「うん?それか、あ~。それは、いいよ。お代は、あんたにやるよ。」
「いえ?どうしてですか?」
「何でだろうな?なんかそれは、もともと、あんたの手に渡る物なんじゃないか?なんかそんな気がする。まあ、大切にしてくれ。」
店主がどうしてもと言うが、悪いので、適当に袋から銭貨を渡して来た。
「(この時代の人って、みんなあんな感じなのかな?)」
心がとぼとぼと歩いていると、前の方が騒がしかった。ズドン。と雷のような音が聞こえた。
「何の騒ぎだ。」
どうやら寺の門前で何かあったらしく、見ると、男が取り押さえられていた。
「(百地さん!?)」
男を押さえていたのは、百地で、その傍らには、半蔵もいた。そして、先ほどの雑貨店で会った3人の姿が見えた。
「半蔵さん。」
「おお。心左衛門か。」
「どうしたのですか?」
「曲者だ。この男、織田殿の命を狙っておった。」
見ると、男の傍らには、筵に包まれた火縄銃が転がっていた。
「引っ立てよ!!」
織田家の侍が来て、男を引っ張って行った。
「待て、この男。おそらく、紀州の者だ。伊賀者ではない。」
「貴殿は?」
「徳川家中、服部半蔵。」
「承知仕った。」
侍は、荒々しく、男を連れて行った。
「大丈夫ですか?」
心は百地に声を掛けた。
「おれよりも、あの小姓に言ってやれ。刀を受けたであろう。」
先ほどの客だった。
「危ないところをお助け下さり、有難うございました。」
店で会った女性が、寄って来た。その後、先ほどの侍が来た。
「もし、一堂。上様がお呼びにござる。」
月姫
「大儀である。」
寺は信長の宿所だった。事情を聞くと、あの時、半蔵と百地は、寺の周囲で、怪しい男を見た。
「あのような稚拙な者は、すぐに分かる。」
百地が言った。
「ほう。さすが、伊賀の忍びだな。」
筵の中身が鉄砲であることは明白だった。そして、火縄が既に付いていることも匂いで分かったという。
「某が問い詰めました所、突然、切り掛かって参りました。」
少年は、信長の小姓の森乱丸であった。
「大事はなかったか、乱。」
「申し訳ありませぬ。某の不覚にございました。」
「気にするな。」
刀は擦っただけだという。
「刺客が姫様に鉄砲を向けましたところを、お二方にお助け頂きました。」
少女は、信長の娘で月姫というらしい。女性は、お付きの女中だった。
「姫も大事なかったか。」
「はい。申し訳ありませぬ。」
「気にするな。半蔵。ところで、おぬし、刺客は紀州者と申したそうだが、何故だ?」
「伊賀者ならば、わざわざ、このようなところには来ませぬ。それに、先ほど小娘が申した通り、技が拙すぎまする。あのような者は、伊賀者には、下忍にもおりますまい。それに、鉄砲の構えが紀州者にござった。」
「ほう。」
「あとは、鉄砲も紀州の物にござろう。本来、あれは、遠くから狙う物にござるが、あのような門前でとは、それも稚拙。」
「よう分かった。皆の命、繋いでくれたこと。礼を言おう。褒美は、思う物を言うがよい。」
「褒美は結構にございます故、このことは、何卒、ご寛容に。」
「分かった。何故、おぬしたちが、かような所にいたか。ふ。市中見物でもしていたとしよう。」
「忝きお言葉にございます。」
「良い。」
信長はそう言って去った。
「改めてお礼。申し上げる。」
「私も。有難うございました。」
乱丸と月姫が頭を下げた。
「ところで、まこと、刀傷はなかったのでござるか。」
半蔵は問うた。信長の手前、乱丸はそう言ったのだと思った。
「ええ。体は、大事ありませぬが…。」
「どうかしたのか?」
「いえ…。」
乱丸は、懐から黄楊の櫛を出した。それは、刀が当たったのか、半分に折れていた。
「それで、命を取り留めたのならば安かろう。」
百地が言った。
「これは、乱丸殿の大事な方への土産物だったのでございます。」
「姫。大事な人…。では。」
月姫が言うと、乱丸は、何故か俯いてしまった。
「ほう。女子への土産か。」
半蔵が、揶揄った。
「まあ、また買えばよかろう。」
「ですが、まだ、残っておりましたか?乱丸殿。」
「ひとつ、ふたつくらいだったかと…。」
乱丸は、少し悲しそうだった。彼が、渡したい相手とは、誰なのだろうか。よほど大切な人なのだろう。
「どうぞ。これ。」
心は、雑貨店で買った櫛を差し出した。それは、乱丸と同じ、黄楊の櫛だった。
「あなた様は、あのときの。」
女中が言った。
「店のご主人がくれたのです。たぶん、これは、本来、あなたの手元にあるはずの物なのでしょう。」
「よろしいのでございますか?」
「ええ。せめてもの、償いに。」
「償い?」
心は自分でも、何故そう言ったのかは分からなかった。