炎の中で鳳雛は翼を広げる
会場入り口担当の警備員は愕然としていた。
ライブが始まる前、普段行われるアイドルライブと違い、にやにやと笑ったりアイドルを侮辱するような言葉を吐く観客たちに対し、嫌な雰囲気だなと印象が残っていたからだ。
普段からアイドルに興味がなく今日のライブもいつもの仕事の延長だったが、会場から説明があったため経緯は軽く知っていた。
ライブを延期しなければならないような不幸が何度も重なり、メンバーがひとりになってしまったアイドルがたったひとりで2時間歌うと聞いたときは同情もした。
きっといい結果にはならない筈だ。
このアイドルはこれっきりステージに立てなくなるかもしれない。
そう思っていたから、ライブが終わり会場から出てくる観客たちを見て信じられない気持ちを抱いた。
老若男女、腕章をつけたマスコミの人間まで、魂を抜かれたようなうつろな顔をして、開場前にはほとんど並んでいなかった物販エリアへふらふらと列を為したからだ。
背筋を冷やしながら会場を振り返る。
一体この会場の中でなにが行われていたのか。
アイドルは面白半分で来た人間の心を短時間で塗り変えてしまうことが可能なのだろうか。
その日年若い警備員は初めてアイドルに興味を持った。
彼が実際に彼女のステージを見るのはもう少し後の話だ。
◆◆◆
男は帰りの電車の中で、あれはなんだったのだろうと考えていた。
腕の中には大鳥ヒナコのグッズが詰まった袋がしっかりと収まっている。
特段アイドルファンというわけではない。
スプラッシュスパークルは昔有名だったアイドルがプロデュースしているので新人にしてはメディア露出が多く、なんとなく姿は知っていて、一番小柄な女の子が可愛いなとはなんとなく思っていたが。
そんな新人アイドルグループが坂道を転がり落ちる姿を面白いと思って見ていた。
顔が良く苦労なんてしていないだろう少女たちが不幸になる姿はなによりの娯楽で、ついに最後のひとりだけでライブを行うと発表になった瞬間、男はキャンセル再販分のチケットに飛びついた。
男はそれほど登録者の多くない動画配信者だった。
破れかぶれになるだろう記念すべきライブを生で見て、ライブ感想としてぼろくそに叩く動画を配信しよう。
面白がって便乗する人間、擁護するファンが入り混じり、チャンネル登録者数が急増するに違いないと思っていた。
そこに嫉妬が隠れているなど認めることなく男はライブ当日を迎えた。
予想に反しメガネがトレードマークだと思われる地味なアイドルは失敗することなく、逆に高い技術を見せつけてくる。
どうにか叩ける粗を探し出そうと凝視したところで、アイドルの衣装がなんらかのギミックで変わり、かけていたメガネを外す。
どこかで聴いたことのメロディだと思っていると、近くで誰かが「トリコだ……」と呟いた。
なるほどプロデューサーの曲を歌うのか。
それほど興味は持たない。
だが歌い始めたアイドルと時折目が合っていることに男は突然気付いた。
偶然なんかではない。客席とステージの距離を無くしたように何度も何度も彼女は俺だけのために歌っていると思う瞬間が訪れた。
メガネの下に隠されていた黒目がちの瞳は星空のように瞬いて、直接語りかけてくる。
俺は彼女に愛されている。
俺も彼女を愛している。
なんて幸せな時間だろう。
気が付けば泣きながら舞台袖に消えていく彼女の姿を惜しんでいた。
そのとき初めて、周囲も同じように泣いて別れを惜しんでいることに気が付いた。
彼らも短時間で彼女の恋人になったのだと自然に受け入れる。
抱くのは嫉妬ではなく仲間意識だ。
肩を組んで一緒に物販へ並び、次のライブでまた会おうと連絡先を交換した。
その熱が解けない魔法のようにまだ男の中に残っている。
家に着いたら真っ先に大鳥ヒナコを讃える動画を作らなければいけない。
それができるのは彼女の恋人になった自分たちだけだと使命感を滾らせて。
そして使命感の火を燻らせていたのは男ひとりだけではなかった。
◆◆◆
少女は自信を持っていた。
天音トリコに憧れていたから、アイドルグループをプロデュースすると発表されたとき、オーディションに申し込むつもりだった。
だが予想に反しオーディションは行われず、メンバーは天音トリコが直接スカウトしたとの噂を聞き悔しがった。
天音トリコに知られていれば私だってメンバーに選ばれていた筈だ。
たったひとり残った地味なメンバーより私のほうが見た目が優れているのだから。
きっとライブ会場に天音トリコはいる。
もし一目でも会うことができたら、私を新規メンバーに選んでくれるかもしれない。
あの小さいくせに妙に存在感のあるセンターやモデル出身だというリーダー相手なら太刀打ちできないが、あの地味子相手であれば私が次のセンターだ。
その自信は開演まもなく打ち砕かれる。
地味で特徴も人気もないはずのアイドルは、驚くべき技術を最初から叩き込んできた。
まるで彼女を依り代にして本物のメンバーが歌っているかのように、ソロパートを歌い分ける。
高らかに、凛々しく、明るく、のびやかに、艶っぽく。
これまで発表してきた曲はスローテンポな曲ばかりではない。
アップテンポかつひとりでは息継ぎもできないような曲でさえ、彼女はミスなく歌い上げた。
いつかスカウトされたときのために練習してきたからこそわかる。あれはただ歌が上手いだけではなし得ない。
歌だけではない。
ステージが狭く見えるほど端から端まで使い彼女は踊っていた。
あの動きは初めに脱退したメンバーを彷彿とさせる。
ときに肉食獣のように、ときに流れる水のように、あのペースでは息切れを起こして倒れてしまうのではないだろうか。
なのに彼女は倒れず、かつてのメンバーが得意だったバク宙まで行った。
その際衣装のバルーンスカートの裾が弾けるように広がり、中から夜空を映したようなチュールスカートが現れた。
あのスカートには見覚えがある。
勿論実際に見たことはない。
でも繰り返し映像で見た。
あれは天音トリコが引退するときに着ていたドレスに似せて作られた衣装だ!
流れてくる前奏の中、ステージ上の彼女が初めてメガネを外す。
誰だ。
あれを地味だと言ったのは。
私のほうが可愛いと思っていたのは。
同時に、メガネをかけていなければ、あの瞳を隠さなければ、この世界に埋没できなかったのだろうと思い知らされる。
ステージ上の大鳥ヒナコは吸い寄せられるほど美しく、なにより印象的な目をしていた。
夢見るように訴えかける、天音トリコと同じ星空の瞳だ。
噂は聞いたことがある。
大鳥ヒナコと天音トリコには血縁関係があると。
それは人気のない大鳥ヒナコが身内贔屓によってグループに加入したという誹謗中傷の一種だと思っていた。
でも今本能で理解した。
あの噂は本当だと。
顔は似ていない。目だけが本当によく似ている。
そしてその目が少女を捕らえた。
誘われている。
こちらへいらっしゃいと囁かれている。
ライブが終わった後、少女には爽快な敗北感が残った。
今のままでは同じ舞台に並び立つこともできない。自分に足りないものを埋める努力が必要だ。
そう感じながら、忘れないように大鳥ヒナコの名を呟く。
努力を重ね、自分を磨き、いつかファンとしてアイドルとして隣に並び立ちたい。
少女にとって大鳥ヒナコは空に輝き自分を導く北極星になった。
◆◆◆
取材腕章をつけた記者は打ち震えた。
ステージの上に天音トリコがいる。
彼が初めて天音トリコに出会ったのは高校の文化祭でシークレットゲストとして講堂に現れた人気アイドルに大歓声が響いていた。
たまたま裏方をしていた彼はそのとき天音トリコとすれ違い、確かに可愛いけれど人気の理由がわからないと思った。
彼女の歌を聴くまでは。
ラストライブには行けなかった。
人気過ぎてチケットは抽選だったし、転売すらなかったからだ。
大学の在学中に書いた天音トリコへの恋文を読んだ編集長から今の職場にスカウトされた。
最初はアルバイトとして、卒業後は正式な記者として。
そこはアイドルニュースを取り扱うネットメディアだった。
信念は新しくも古くも大きくも小さくもアイドルには平等に。ただし自分が恋したアイドルに関しての記事には一番の情熱を捧げること。
熱量がこもればこもるほど、良い記事になるからと言われる編集部は記者にとって最良の職場と言えた。
今回ダイヤウルフ芸能事務所よりスプラッシュスパークルおよび大鳥ヒナコを褒める記事を書かないようにと通達がきていたが、うちの信念と異なると編集長が蹴ったのは痛快だった。
きっとライブに失敗し業界を去ってしまう少女だというのに随分念入りだ。
そう思っていた。それなのになんだ。
ステージ上で歌うのは天音トリコであるとしか言いようがない。
あの目も歌声も仕草も。
顔は似ていないのに、天音トリコがそこにいると感じてしまう。
天音トリコは懐かしさとあの頃の恋慕を掻き立てる曲を何曲か歌った後、突然チュールスカートを剥ぎ、ジャケットを脱いだ。
中から現れたのはホットパンツとチューブトップ。ここまでの青を基調とした衣装とは違い、白から赤へグラデーションしている炎のような色合いだ。
惜しげもなく晒された腹部は引き締まった筋肉の上にうっすらと少女らしい肉を被せ、13歳に似つかわしくない色気すら漂わせている。
天音トリコの殻を破り生まれてきたような新たなアイドル。
あれが本来の大鳥ヒナコなのだと肌で感じる。
彼女が歌う知らないメロディの中に天音トリコの気配を感じるが、そうではない気もした。
あれは大鳥ヒナコのために用意された楽曲なのだろう。
伸びやかな歌声が音楽に溶け、この空間を共有している全ての観客に大鳥ヒナコの存在が叩き込まれ、心に灼けつく。
ダイヤウルフから金を受け取ってしまった取材陣は頭を抱えるに違いない。
今日のライブをどんなに矮小化して伝えたって大鳥ヒナコの素晴らしさは伝わってしまうだろう。
うちはネットメディアだ、ページ数はなんとでもなる。
再びアイドルへの恋文を綴る日が来るとは思わなかったと記者はひとりごちる。
既に見出しは決めた。
これしか思い付かない。
「鳳雛 飛び立つ」
炎の中で見事に生まれてみせた大鳥ヒナコにはこれしかないと確信しながら。




