表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雷命の造娘  作者: 凰太郎
~第一幕~
8/26

ともだち Chapter.7

挿絵(By みてみん)

 アンファーレン宅の敷地裏には、木造仕立ての納屋が在る。

 農作業道具や(まき)が収納されているものの、老人自身は盲の(ため)、滅多に訪れる事がなくなった小屋だ。

 そこが〈()〉の寝床になる。

 そして、最近は同居人が一人(ひとり)増えた。

 戦乙女(ヴァルキューレ)だ。

 中央に山積みとなった(わら)が、二人のベッドであった。その量は共有しても余りある。

 一応、アンファーレン老の名誉の為に付記しておく。

 彼は家屋での睡眠を勧めてくれた。

 しかしながら、ブリュンヒルド自身が丁重(ていちょう)に辞退したのだ。

 屋内の造りは御世辞にも広いとは言えず、来客用の個室も無い。

 そんな環境では、否応(いやおう)無く〈()〉と共に居間で〝(うなぎ)寝床(ねどこ)〟状態だ。それでは盲目の老人が歩くにも障害物と成り兼ねない。

 何よりも先客である〈()〉が(かたく)なに拒み続け、納屋での寝起きに従事しているのだから、新参者の自分がぬくぬくと温床に預かるわけにもいくまい。

「野宿よりマシなのですから、贅沢は言えませんね。それにしても……」

 積まれた(わら)へと腰を沈めて、ブリュンヒルドは感慨を漏らす。

 物憂(ものう)い宿す視線の先には、藁束(わらたば)を寝台と整え続ける巨体が在った。

「どうした?」

「あ、いえ」気付かれたばつ(・・)の悪さに、慌てて取り繕う。「意外と柔らかい物だ……と。それに肌触りも、思っていたより不快ではありません」

「うん、(わら)はフカフカ」

「ええ、保温性も思っていたより悪くありません」

(わら)は温かい。冷たい洞窟で寝るよりも温かい」

「……そこまで極端な比較はしていません」

「そうか」

 相変わらずの噛み違いに困惑するも、ブリュンヒルドは会話に含まれていた違和感に気付く。

「え? 洞窟に? そんな場所で野宿した経験があるのですか?」

「うん」無関心に返事をしつつ〈()〉は作業を続けた。「アンファーレンに会う前は、色々な場所で寝た」

「そう……ですか」

「寒かった。そして、固かった」

 いそいそと働く巨体を見つめていると、何故だか(わび)しい感情が込み上げてくる。

 相手は〈怪物〉だというのに……。

(……随分(ずいぶん)と苦労したのでしょうか)

 神界の戦士として禁忌(タブー)とは知りながらも、ブリュンヒルドは〈()〉への同情を抑えられない。

 やがて就寝準備を終えた〈()〉は、真顔を向けて言った。

「ブリュンヒルド、寒かったら言え」

「え?」

「抱っこする。体温、温かい」

「……遠慮しておきます」




 並んで横たわる。

 ジージーと夜虫が鳴き、天井板の(わず)かな隙間が風と月明かりを(さそ)い込んだ。

 倦怠(けんたい)的な疲労感に反して、ブリュンヒルドは寝つけなかった。

 横臥(おうが)()える意識が、物憂(ものう)いを巡らせる。

(下界は、ここまで混沌としていたのですか……)

 完璧なる軍隊フォルコメン・アルメーコーア──。

 ウォルフガング・ゲルハルト──。

 アンファーレン老人と、孫娘のマリー──。

 ハリー・クラーヴァル──。

 そして、正体不明の〈()〉────。

 此処数日で、目まぐるしい体験をした。

 脳内整理だけでも一苦労(ひとくろう)だ。

 何よりも日中に体験したばかりの惨劇は、彼女の心に悪夢として刻まれた。

 (あたか)も〈怪物〉としての本性を(さら)け出したかのような〈()〉の姿は……。

(いったい貴女(あなた)は、どちら側(・・・・)なのですか……)

 何故だか寂しさにも似た感情に想う。

 優しく無垢な〈()〉──。

 恐ろしくも忌むべき〈怪物〉──。

 その両極端な側面を知ってしまったが(ゆえ)に、彼女は〝奇怪な隣人〟への心象を持て余すのだ。

(もしも、あの〝殺戮の化身〟が彼女本来の姿だとしたら、私は……私が()すべき事は…………)

 (おのれ)の在り方を自問する。

 さりながら如何(いか)なる選択であろうと、自分自身で決断せねばなるまい。

 闇暦(いま)の彼女は北欧神界(アースガルズ)の助力を断たれ、孤立無援(こりつむえん)の身なのだから……。




 旧暦一九九九年七の月──地上は突如発生した魔界の気〈ダークエーテル〉によって侵食された。

 青い生命の泉は奇病に侵されたかのように黒ずんでいき、甦った死人(しびと)が人々を襲い喰らう──五感を放棄したくなるような阿鼻叫喚(あびきょうかん)が繰り広げられた。

 前代未聞(ぜんだいみもん)地獄絵図(じごくえず)を天界より見ていたブリュンヒルドは、胸が張り裂けんばかりの想いを噛み締める。

(地上が……私の愛する地上が〈魔〉に侵される!)

 それは耐え難いものであった。

 だから、独断に地上へと降り立ったのだ!

 仲間(ヴァルキューレ)達の制止を振り切ってまで……。

 だが、ブリュンヒルドの降臨から数時間後、地上は完全に〝闇の世界〟と変わり果ててしまった。

 新世界の法則と蔓延(まんえん)する魔気(ダークエーテル)は神界との交流を遮蔽(しゃへい)し、絶対的支配者と君臨する黒月(こくげつ)が救世の停滞を(うなが)す。

 そして、闇暦(あんれき)世界が完成した。

 彼女(ひと)りを〝(かご)(とり)〟と堕とし……。

 俗に〈終末の日アンゴルモア・ハザード〉と呼ばれる大災厄の体現であった。



 北欧神界(アースガルズ)へと帰る(すべ)を失った。

 (ゆえ)に、流浪(るろう)を続ける。

 さりとも、目的を(いだ)かぬままに彷徨(ほうこう)する事を()しとしていたわけではない。

 主神(オーディン)の加護が地上に及ばぬのならば、(みずか)らが〝加護〟と成れば良い。

 この現世魔界に()いて(なげ)き苦しむ人々を守り、その剣と成りて〈怪物〉達から救えば良い。

 それが、彼女の宛無(あてな)旅路(たびじ)の目的と化した。

 如何(いか)に現世魔界に身を置こうとも、自分は誇り高き〈戦乙女(ヴァルキューレ)〉なのだ──その自覚を(よりどころ)とする現実逃避だと、薄々気付いていながらも……。





 とりとめのない黙想に、どれだけの時間が経過したであろうか。

 やがて背中合わせの巨体が、のそりと身を起こした。

(こんな夜更けに? 何を?)

 ブリュンヒルドは緊迫の中で、寝入(ねい)芝居(しばい)(てっ)する。

 内心は穏やかにない。

 昼間の暴走ぶりが悪夢と想起(そうき)され、彼女の胸中に戦慄と警戒心を呼び起こしたからだ!

(まさか? いえ、やはり(・・・)人知れず悪行を?)

 闇夜を味方した不審な行動が、情に殺していた敵対視の方を傾かせた!

 はたして、それは殺人であろうか?

 はたまた人食いであろうか?

(やはり〈怪物〉は〈怪物(・・)〉! 同情など(いだ)くべき対象ではなかったのです!)

 (みずか)らのアマさを()いた!

 狙いは、盲目の老人?

 いや、もしかしたら、この瞬間に我が身へと襲い来るのやもしれない!

(私は〈戦乙女(ヴァルキューレ)〉……偉大なる主神(オーディン)の戦士! みすみす()られなどしません!)

 高揚が確信を(あお)り、失望が(むな)しさを刻む。

 失望?

 何故?

 相手は〈怪物〉だ。

 この闇暦(あんれき)で人々を支配し、苦しめ、その命すら軽んじる〝神の敵〟だ。

如何(いか)に善良の仮面で擬装(ぎそう)しようとも、所詮(しょせん)は〈怪物〉──ようやく本性を(さら)けだしたに過ぎないだけ!)

 なのに、何故……こうも胸が冷たくも痛い?

 触れれば壊れる繊細な氷細工ように……。

 上体を起こした〈()〉は、(しば)し隣の戦乙女(ヴァルキューレ)の様子を観察していた。

 背中一杯に視線を感じ、鼓動(こどう)が早鐘を打つ!

 が、熟睡(じゅくすい)していると感受したか、ゆっくりと寝床から起き上がった。

 いよいよ来る──ブリュンヒルドが予測するも、その展開は一向に訪れない。

(何故?)

 警戒心を裏切るかのように〈()〉は表へと出て行った。

 両手に軽く分けられる程度の藁束(わらたば)を抱えて……。




 距離は左程(さほど)ではない。

 歩いて一〇分程度の道程(みちのり)だ。

 とはいえ、不確かな獣道(けものみち)しかない悪路は(ある)(にく)い。常人であるならば……だが。

 闇暦(あんれき)特有の暗さは夜闇(よやみ)の祝福によってますます深く染まり、雑木林(ぞうきばやし)魔樹(まじゅ)の森と(しげ)らせていた。

 その中を黙々と進む〈()〉は、追跡に気付いた様子が無い。

 適当な間合いを取って──(ある)いは、樹の陰へと身を隠しながら──ブリュンヒルドは追った。

 無論、鎧装束は装着済みだ。

(一体、何処へ?)

 晴れぬ疑念に洞察する。

 そう、(いま)だ潔白が証明されたわけではない。

 確かに自分を襲いはしなかった。

 アンファーレン老も……。

 さりとも、彼女が悪行を働かぬという立証にはならない。

 尾行は続いた。

 (さら)に一〇分といったところか。

 完全に街からは(はず)れ、領域外となっている。

 足下に泥濘(でいねい)する黒霧(くろきり)が、その立証だ。

 この魔気〈ダークエーテル〉は、人工領域には侵入出来ない。

 ダルムシュタット内部に〈デッド〉が発生しない理由が、それ(・・)だ。

 裏返せば、こうも黒い霧が発生しているという事は、それだけ街から離れたという事でもある。

 いつ〈デッド〉と遭遇してもおかしくない。

 そんな(あや)うい環境で、二人(ふたり)の追跡劇は続いた。

 もっとも(まん)(いち)〈デッド〉に襲われたとしても、両者にとって敵ではないが……。

(例えば、あの(わら)(たば)を種火と使って、山火事を引き起こそうと(たくら)んでいるとしたら? 何よりも、皆が寝静まったこんな夜更(よふ)けに、見計(みはか)らったかのような行動は(あや)し過ぎます!)

 鼓舞(こぶ)めいて、自分へと言い聞かせる。

 相手は狡賢(ずるがしこ)い〈怪物(・・)〉……情に(ほだ)されて気を許しては、姦計(かんけい)を見抜く事など出来ない!

 だが……そうだとしたら、この後ろめたさは何だというのであろうか?

 揺らぐ。

(私は……本当に正しいのでしょうか)

 その自失に注視を()らした一瞬、忽然(こつぜん)として〈()〉が消えた!

「しまった!」

 慌てて〈()〉が居た場所まで駆け出し、周囲を見渡す!

「ど……何処へ?」

 (とどこお)黒霧(くろきり)は視界を(かす)ませ、(おお)(しげ)る樹々が〈()〉の味方と索敵(さくてき)(はば)んだ。




「……た……て……だ……ある……て……」

 (かす)かに聞こえた〈()〉の発声を頼りに、ようやくブリュンヒルドは居場所を突き止めた。

 気取られない程度の距離で、(しげ)みへと隠れて様子を(うかが)う。

 岸壁を行き止まりとする(ひら)けた場所であった。

 周囲は樹々の緑に囲われながらも、そこだけは土肌に禿()げている。

 そこに〈()〉は居た。

 拾った枝を(たきぎ)として(だん)を取り、その前で地面に直接座っている。

 彼女の奥に見えるのは、岩壁を(えぐ)った浅い穴。一見には(ほこら)にも見えた。

 はたして自然に刻まれた物か、はたまた〈()〉が怪力任せに砕いたのか……それは判らない。

 ただ、その中には納屋に劣らずの量で(わら)が積み上げられていた。おそらくコツコツと持って来ていたのだろう。だとしたら、寝床(・・)だ。

 他にも古びた鍋やら斧やらが無造作に放置され、貧しくも荒れた生活臭を演出している。

(隠れ家……なのでしょうか?)

 状況から、そう推測した。

(もしかしたら、此処で人間に反旗を(ひるがえ)す算段を画策しているのかもしれません)

 そんなブリュンヒルドの疑念を知る(よし)もなく、当の〈()〉は焚き火の明かりを頼りとして本に()(ふけ)っていた。

「……た……か……が……の……」

 先程から聞こえてきた意味不明な発声は、どうやらコレの朗読である。

 まだ難解な文面は解読できないようだ。

(いったい何を読んでいるのでしょう? 呪文書(グリモワール)(たぐい)ではなさそうですが……)

 というよりは〝魔術〟などという高等知性的な技能を扱えるとは思えない。

 どちらかといえば〈魔獣〉と同じく〝生態として備わった魔力を行使するタイプ〟だ。

 いや、それ以前に……。

(彼女からは、いわゆる〝魔力〟というものを感じないのですよね……近しい禍々(まがまが)しさは感受するものの…………)

 不思議な感覚であった。

 怪物──魔物──人間為(ひとな)らざる者────そうした存在には間違いない。

 にも(かか)わらず、この〈()〉からは前提条件たる〈魔力〉が感知出来なかったのだ。

「……から……で……」

 奇妙な音読は続く。

(本当に、一体何を?)

 好奇心に突き動かされて身を乗り出す。

 それが抜かり(・・・)であった!

 手前の足場が段差となっている事に気付けず、ブリュンヒルドは滑り落ちる!

「きゃ!」

 短い悲鳴に尻餅をついた!

「いたたたた……!」

 自分の間抜けさに苦笑したくも、(さす)る尻の痛みが涙を誘う。

 と、(みずか)らに(かぶ)さる暗さで、ブリュンヒルドは慄然(りつぜん)とした!

 眼前を見上げれば、白い月明かりを背負った巨躯(きょく)の影が!

「あ……あ……」

 威圧的なシルエットに戦慄する!

 完全に不意を突かれた!

 応戦しようにも万全の状態に無い!

 武器は転げ落ち、腕を伸ばしても届かない位置に有る!

 圧倒的に不利な体勢で発見されてしまった!

「ブリュンヒルド、来た」

「あ……あの……こ……これは……!」

 大きい()がユラリと迫る!

()られる?)

 恐怖に(まぶた)()じ、(すく)身体(からだ)を縮めた!

 しかし──「え?」──彼女の予測を裏切り、大柄な手は優しく頭を()でる。

 その挙動に添えられた言葉は、(おだ)やかな抑揚であった。

「大丈夫。痛いけど痛くない」

「な? 何を?」

「ブリュンヒルド、まだ痛いか?」

「い……いえ」

「尻、(さす)ってやる」

「結構です!」




「では、此処は貴女(あなた)新しい家(・・・・)だと?」

「うん」

 パチパチとはぜる()()の前に(すわ)()み、二人は事の真相を語り合った。

「……いずれ出ていくつもりだったのですか? アンファーレン老人の所を?」

「うん」

 膝を(かか)えて(すわ)る〈()〉は、踊る炎を眺めながら答える。

 ブリュンヒルドは、茜の陰影を遊ばせる横顔を見つめ続けた。

 相変わらず感情の機微(きび)は無い。

 だが、物悲しそうにも映るのは、ブリュンヒルド自身が憐れみの念を(いだ)いてしまったせいだろうか。

 不覚にも、この怪物(・・)に……。

「いつまでも居てはいけない。私が居たら迷惑」

「アンファーレン殿は、そんな風に思っていないのでは?」

「うん」

「でしたら、もう少し考えてみては……」

「ダメ。私が居たら、きっと不幸を呼ぶ」

「不幸を?」

 (うれ)いたかのような眼差(まなざ)しで闇空(あんくう)(あお)いだ〈()〉は、胸中に秘めた想いを吐露(とろ)する。

「私は〈怪物(・・)〉だから……」

「ッ!」

「〈怪物(・・)〉は、人間と一緒に居てはダメ。いつか不幸にしてしまう。誰も傷付けたくない」

「あ……貴女(あなた)は……」

 胸が締め付けられた。

 (おのれ)偏見(へんけん)()じた。

 どこまでも無垢(むく)で、優しく、寂しい〈()〉……。

 どこまでも憐れな〈()〉……。

 ブリュンヒルドは初めて知った。

 こんな〈怪物〉もいるのだ……と。

 ふと(われ)へ返ると、こちらをジッと見つめる〈()〉の視線に気付く。

「な……何です?」

「ブリュンヒルド、まだ痛いか?」

「え?」

「泣いている」

 指摘されて、ようやく自覚した。

 自分の頬を(つた)(しずく)に……。

「い……いえ、これは……目にゴミが……」

 ばつ悪く指で(ぬぐ)い、(つと)めて明るく話題を転化する。

「ところで、先程、本を読んでいらっしゃいましたね?」

「うん」

 素直に(うなず)く〈()〉は、外套(がいとう)の中から対象物を取り出した。

 それは〝本〟ではなく〝手帳〟だ。

 革製の表紙で装丁されているものの、年季からか(いささ)かボロボロになりつつある。

「城から持ってきた」

「城?」

 怪訝(けげん)鸚鵡(おうむ)(がえ)しを(くち)にしたものの、ブリュンヒルドはそれ以上追求しなかった。

 一応、彼女が以前に居た生活環境だと察しはつく。

「これで言葉を勉強してる」

「言葉を?」

「うん」

 預かった手帳を開いてみる。

「こ……これは!」

 閲覧して、すぐさまゾッとした!

 魔術書(グリモワール)ではない。

 しかし、もっとおぞましい代物(しろもの)だ!

 身の毛がよだつ()まわしい書物だ!

 (すう)(ページ)(めく)っただけで、不快な吐き気すら(もよお)す!

 人間を部位解剖した()()に、事細かな注釈が殴り書かれていた!

 (ぜん)(ページ)が、それ(・・)だ!

「これは……これは!」

 悪夢に魅入(みい)られたかのように、ブリュンヒルドは荒く読み進める!

 筋肉の解剖図──眼球の断面図──神経組織の展開図──そして、脳の解体図!

「これはこれはこれはこれは!」

 記述(きじゅつ)されていたのは、狂気ともいえる手記!

 外道(げどう)(きわ)まりない人体実験の記録(・・・・・・・)

「そんな……そんな……そんな!」

「ブリュンヒルド、そんなに面白いか?」

 不意に呼び掛けられ、現実へと呼び戻された。

 途端(とたん)、精気を吸いとられたかのような憔悴感(しょうすいかん)に支配される。

 呆然自失(ぼうぜんじしつ)とした虚脱(きょだつ)の瞳が、憐れな〈()〉を(とら)えるなり(うる)んだ。

「どうした? 悲しいお話だったのか?」

 無垢な好奇心が()を指しているかは理解している。

 ()れど、もはや(ぬぐ)うつもりは無い。

 その(すべ)も無い。

 (ほほ)(つた)う涙を……。

「私も、早く読めるようになりたい」

 未体験の楽しみへと浮かべる微笑(びしょう)

 その愚かしい様に、戦乙女(ヴァルキューレ)は哀しく首を振る。

 そして、心の底から込み上げる激情に突き動かされていた!

 (むく)われぬ魂を……神にさえ見放された魂を抱き締める!

 愛のままに!

 強く!

 力強く!

「ブリュンヒルド、苦しい」

 その胸に(うず)められた頭が、唐突な抱擁(ほうよう)に困惑する。

「この本は……私が預かります! もう……もう絶対に……この本は読まないで下さい!」

 (こら)えきれずに叫んだ!

「ぅ……ぅぅ……ぅぁぁ……」

 噛み殺していた嗚咽(おえつ)()れる。

 汚らわしい無垢なる手が、泣き濡れる頬を優しく()(なだ)めた。

「ブリュンヒルド、大丈夫……痛いけど痛くない」



 如何(いか)なる『魔術書(グリモワール)』よりも、()の『邪神召喚書(ネクロノミコン)』よりも、禍々(まがまが)しき呪われし手記『Fの書』──。



 ブリュンヒルドは理解したのだ……。

 この〈()〉は、死体の繋ぎ合わせ(・・・・・・・・)

 手記に記載されていた()まわしい人体実験の産物!




 黄色く(よど)んだ単眼が見下(みお)ろす夜闇(よやみ)に、無情なる哀しみが痛みを(きざ)んだ。



 それは、決して()には(かえ)せぬ人類(ひと)の大罪であった……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ