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5/7~5/8

     五月七日(木)


 病院から家に帰ってすぐ、母はなにやら準備を整えてまた出かけていった。今度は会社へ向かうらしい。「帰りに病院によってから帰るから、遅くなるわ」と言って、慌しく出て行った。

 残されたわたしは、特にすることもなくて、自室にいた。外にいるのもなんだか悪い気がした。

「…………」

 思い返した。

 祖母は蝋のように透明だった。できれば顔を見ずに帰りたかったのだけど、そうはいかなかった。ベッドに横になった祖母は、口を一文字に閉じていた。それだけは、いつもと同じだった。からからに乾いた肌にいくつもの亀裂が走り、けれど綺麗に蛍光灯の光を反射して、寒天のような透明な層があるようにも見えた。これは、初めての感じだった。

 このしわに指を這わせた、ただ、したかったから。少し後ろめたくなる、姉と話したあとだから、たぶん。でも、そういうことは大概面白い。

 手を顔の前に持ってきて、指を見てにやり。……わたしはこのとき、突然現れた「自由」に酔っていた。


 あのあと、祖母は救急車に運ばれていった。付き添いは姉がした。母は、まだぼうっとしていたわたしを着替えさせて、車で病院へ。深夜の車道では、車はわたしたちのだけではなくて、結構走っていた。こんな時間になにをしているんだろう。そんなことを考えながら、表情は強いて神妙にしていた。自分の心に、負の感情がまるで芽生えないことが不思議だった。母はじっと黙っていた。赤信号で止まると、ハンドルの端を指でとんとんと叩いていた。焦っているのがわかった。母とわたしの、その差に罪悪感を覚えた。

 病院に着いて、姉と合流した。しばらくして、医者に呼ばれて、母だけ話を聞きに行った。わたしと姉が残された。

 静かだった。蛍光灯のあかりが床に反射しててろてろと輝いていた。ソファの表面はざらざらと凹凸があって、祖母の顔を思い出した。同じ病院のなかで、たぶん意識を失ったままのおばあちゃん。

「……ミチ」

 視線を上げると、姉がわたしを見ていた。不安そうな顔、やっぱり距離を感じた。自分の心の、冷酷さを感じてしまう。焦りも不安もなくて、そもそも、現実感が薄くて、なんとも思えない。

「どう思う?」と聞いてきた。

「どう?」

「おばあちゃんが倒れたの」

「うん……」なるべく正しくて冷酷に聞こえない言葉を探した。「びっくりした」

「じゃなくて……倒れる前、叱られたでしょ。あれ、関係あるのかな、って」

「…………」うまく反応できなかった。姉の不安そうな顔に、怯えが混じっていることにようやく気付いた。「やっぱり、告げ口したの、お姉ちゃんなのね……」

「ま、ね。ミチにしたら、窮屈かもしれないけど、でも、おばあちゃん、お母さん、二人には言わなきゃいけなかった」

「……うん」

 責めることはできた。でも、しなかったのは、神妙にしなければと思っていたからかもしれない。雰囲気に飲まれていたのかもしれない。

「そのうち、ミチもわかると思う。……でも、いまは、そう、昨日夕食のときも、ずっとおばあちゃん、機嫌悪いままで。いつも、変わらないのに。倒れたの、関係あるのかな……ね、タイミングが、ちょっと良すぎる気がするの」

 姉は饒舌だった。なんとなく、否定して欲しいんだな、と思った。けれど、どこにも否定の言葉が見つからないどころか、少しずつ恐ろしい冷たさが心の中に広がるようだった。

 もし、あのことが、祖母が倒れたことと関係があるんならば、それは姉だけではなく、わたしにも責のあることだから。

 少しずつ手触りがはっきりしてきた、この病院が、現在が、だんだん明瞭になってあらわれた。

「ねえ、黙ってないで、ねえ」不安そうな調子で姉がせっついてくるのが、余計に恐ろしさを際立たせた。自分に責任がないと、認めて欲しいのは、わたしのほうだ。

 思い浮かぶのは、あの反抗だった。いや、の二文字。それだけだけれど、祖母は、それから感情をさらした。だいぶ抑制のかかった感情だった。それでも、あの祖母が感情を見せるのは珍しいことだった。祖母の心中は想像もしたくない。

 それが、倒れたことに関係あるかどうかわからないけれど、姉の言うように、タイミングが良すぎるように思えた。だから……反抗さえしなければ、倒れなかったかもしれない……

「ないはず。ちょっと不機嫌になっただけで倒れるなんて、そんなこと」姉に、というよりは、自分に対して言った。

「そう、そうだよね」

 それでも姉は安心したようだった。母が戻ってきたときには、不安そうな顔つきは潜み、気丈なふりをしていた。わたしはちっともうまく取り繕うことができなかったけれど、母も平静ではなかったからか、なんとも言われなかった。母は、少し憔悴しているようだった。

「どうだって言っていたの?」姉が尋ねた。

「ええ、……もともと心臓が強くなかったけれど、一気に、悪くなったらしくてね。すぐにどうということはないらしいけれど、少し長い間、入院することになったわ」……


     *


 時間を潰すために漫画を読むのは、いまいち楽しくない。そう学んだ。持っている中で一番長い、単行本で四十三冊の漫画をひとさらいしながら、飽き飽きしていた。家に帰ってきて、とりあえずやることを見つけられなかったので、そんなことをしていた。けど、どうにも面白くない。

(ちょくちょく時計を見てしまうのが駄目なんだ。漫画の世界の中に、うまく浸れない。現実の時間がずっと残ってしまう)

 呼び鈴が鳴る少し前に見た時計は四時を指していた。漫画は三十巻目くらい。読み終わった三十冊くらいの本が塔になっていた。家には誰もいなかった。ちりんりちんとなっている呼び鈴に、仕方なく漫画を逆さに置いて、玄関に向かった。

 アリカがいた。「ハァイ」と手をあげていた。

「うん……」驚いたせいか、少しぼんやりとしてしまった。「どうしたの?」

「学校に来なかったから、どうしたのかと思って。元気そうね」彼女ははきはきと答えた。

 うん、と素直に頷いてしまった。なんだか調子が崩れていたのだ。「とりあえず、あがって」

「おじゃましまーす」

 階段をのぼるとき違和感の正体に気付いた。「そういえば、うちに来るの、初めてだね」

「そうだっけ?」

 アリカはそら惚けて笑った。


 キッチンで牛乳を注いで部屋に戻ると、アリカはきょろきょろとわたしの部屋を眺めていた。三十冊の塔はまだ聳えたままだ。変に気恥ずかしくなって、牛乳をテーブルにおいて、片付けた。「暇だったから、読んでたの」なんて言いながら。いつだって言わなくていいことを言ってしまう。

「で、どうしたの? 休んじゃって」牛乳を一口、アリカは尋ねてきた。「誕生日までお籠もりになるの?」

「ううん……それとは別。誕生日を理由に休ませてもらったけど」

「どうしたの?」

「うん……」少し口ごもった。「おばあちゃん、夜遅くに倒れちゃって、今朝まで病院にいたから」

 そう、とアリカは俯いた。どう反応していいのかわからないのだろうと、そのとき、わたしは思った。ぼんやりとつむじを見ていた。

「明日からは、出るの?」

「そのつもり、だけど」

「わからない?」

 頷いた。「……たぶん、大丈夫だけど。だって、わたしがいたって、何の役にも立たないし。昨夜だって、病院についていっただけだもん。学校に行ってたって、問題ないだろうし」

 本心だった。不機嫌でも、諦めでもなく、特別何も思わず言った。そのつもりだったけれど――アリカはわたしを見つめた。なにか言いたげに、じっと。

「……どうしたの?」

「ううん」アリカは急ごしらえで笑みを作った。「ミチは、それでいいんだよ」

「どういうこと?」

 問いかけても、アリカは「いいのいいの」と言うだけだった。

 それからわたしたちは牛乳を飲みつつ、どうでもいい会話をした。例えば「ラテっていうのは、牛乳っていう意味があるんだって」とか、そういう話だ。「じゃあ、抹茶ラテって、抹茶牛乳?」「そうそう」

 アリカに対する劣等感は、薄かった。たぶん、それ以上に、暇な時間に飽きていたからだろう。「妖精」の話が出なかったのも、良かった一つだ。

 話に夢中になって、気がつけば、西日がカーテンの端でぼんやり輝いていた。

 アリカは鞄を手にとって、「そろそろ帰らなきゃ」と立ち上がった。

「帰るの?」

 名残惜しい気分がした。

「ん、これでね、けっこう家、厳しいからね」


 玄関まで送って、足を靴に入れるアリカを眺めた。

「……それにしても、家、教えてなかったよね」

「そうだね」

「どこで知ったの?」

 他愛もない疑問だった。ただ会話を続けたかった。

「たまたま、ここに帰ってるミチを見たことがあって」

 ふうん、と応えるのと、靴を履き終えてアリカが立ち上がるのがほとんど同時だった。「それじゃ、またね」

「……うん、また」

 アリカが扉を開けた。

「あ」

 と声を出したのは、わたしと、姉だった。

 扉の向こうに、学校帰りの姉が立っていた。


 アリカが帰っていって――

 玄関に、わたしと姉が残された。姉は、何か言いたそうにわたしを見ていた。

 バツの悪さがふっと浮かんできて、「おかえり」と早口に言って、二階へ、自室に逃げた。すぐにノックがした。わかっていた、迷って、観念して、ドアを開けた。

 姉がいることは、わかっていた。話も、もちろんわかっていた。

「ねえ、あの子、もしかして、おばあちゃんに怒られた原因になった子じゃない?」

 逡巡して、それから躊躇いがちに頷くと、姉は呆れたようにため息をついた。

「友達と遊ぶな、とは言わないけどさ……もうちょっと、考えてみても、いいと思わない?」

 返事できなかった。姉が一方的に話を切り上げて、出て行く姿を眺めた。違う、と思った。けれど、どう違うのか、うまく言葉に出来なかった。たしかに、お母さん、疲れていたようだし、これがずっと続くんだと思う。一人で遊んでちゃいけないっていうほうが、正しいと思う。けど――けど……けど、のあとが続いてくれなかった。


     *


 母は疲れた様子でソファに腰掛けた。すらりと長い手を右肩に置いて自分で揉んでいた。年寄り臭いと思った。外見だけは歳より若く見えるのに。時計を見れば九時を回った辺り。病院にまわって、いくつか入院の手続きをしたらしかった。

 わたしは皿を洗っていた。夕食は姉が作ったので、片付けはわたしだ。面倒くさいのだけど、神妙に、献身的にならざるを得ない「雰囲気」に逆らうことはできなかった。「雰囲気」は怖い。誰も、何も言っていないのに、どうしようもなくなる。あるいは、そう強制しているのは、自分なのかもしれなかった。

「ミチ」

 一通り洗い終わったとき、母に呼ばれた。「はーい」と返事をして、タオルで手を拭いて、向かった。

 母は一つため息を吐いて、話し始めた。

「ねえ、これから、あんまりミチに気をかけることができなくなると思うの。短くても三月は」

 三月、と反芻する。長いのか短いのかわからなかった。

「誕生日まで、学校を休みなさいよ」

 命令口調に少し驚いた。「……行っちゃ駄目?」

 もう一度、ため息。

「やめなさいね、わがまま言わないで」

 これは、なにを言っても無駄な感じだ、と思った。

「……はい」

 これが母の素なのか、とぼんやり感じた。会話をする気がなさそうな、こんな感じが。……ううん、いまは疲れているだけ。



     五月八日(金)


 朝、起きるとすでに家には誰もいなかった。ちょっと寝すぎていた。時計は八時を指していた。学校に、もうみんな集まっている頃だろう。

 テーブルの上に置かれたチャーハンをぱくついて、皿を流しに置くと、時間は九時。まだ一日は始まったばかりなのに、することはなくなってしまった。

 しばらくテレビを見ていたけれど、ワイドショーばかりで、どうにも興味を惹かれなかった。それで、漫画を読もうとして、昨日のことを思い出した。たぶん、漫画を読むくらいなんとも言われないだろうし、万一批難されるといったって、ばれないように仕舞ってしまえばいい。けれど、良くないような気がした。

 神妙に、と自分に言い聞かせた。神妙にしなければならない。漫画の塔を作ってちゃいけないのだ。

 祖母が倒れたとき、「自由」を感じた。この家を窮屈に縛る祖母がいなくなれば、居心地がよくなるだろう、なんて、そんなふうに思った。不謹慎だけれど、喜んでさえいたのだ、祖母が倒れたことを。けれど、現実は真逆で、祖母がいたときより息苦しい。見えない鎖が巻き付いてくるようだった。

 …………。

 慣れなきゃいけない――んだろうな、きっと。思うと、頭が痛くなった。到底、出来ないような気がした。


 パジャマのまま、一日過ごした。

 小説や、社会の資料集なら、読んでいても構わないような気がしたので、ぴらりぴらりと捲った。それに飽きるとテレビをつけ、それにも飽きると、再び社会の資料集に戻った。何も生まない時間は、ゆっくりと腐っていった。頭に靄がかかったように、なにも考えられなかった。それはそれで気持ちのよいことだった。なにも考えないというのは、気持ちのよいことだった。けれど、そのことにも飽いてしまうのだった。だんだんと、動きたい欲求が溜まっていくのを感じた。

 時計は三時を指していた。今日もアリカは来るのかな、とふと思い、首をふった。それじゃあ、困る。昨日の姉の言葉を思い出した――「友達と遊ぶな、とは言わないけどさ……もうちょっと、考えてみても、いいと思わない?」……たしかに考えたほうがいいと思った。どこかひっかかることはあるけれど……

 とりあえず外着に着替えて、外に出た。いつもの通学路を歩いた。アリカに会おう、きっと家にいたら、昨日と同じになる。下校中の学童と何度もすれ違った。学校に近付くほど多くなって、なにか新鮮な感じがした。いつもなにも考えないまま、わたしはあの中に混じっていたんだ、と気付いた。空を見上げながら歩くときに似た感じだった。いつもの風景もちょっと視点を変えてやれば新鮮な感じが得られるらしい。

 学校が見えてきた。

 アリカは、校門から出てくるところだった。塀のそばに寄って隠れて、彼女を見守った。わたしに気付かなかったようで、いつもの帰り道を歩き出した。

(――そういえば)ふっと思った。(アリカのことなにも知らない)

 彼女が後ろを見ないことを確認して、あとを追った。

 アリカの歩みはのろかった。踏み締めるように進んでいく。少しいらいらした。もし彼女が何か探している素振りをしたり、少なくとも前を向いて歩いていたら、そうならなかっただろう。彼女は俯いていた。それが、昔と重なった。良くなかった。そう思うことが、自分でさえも不思議だった。昔のようなら、心休まるはずだった。いまのアリカはいけ好かないと思っていたはずだった。でも、俯いている彼女を見ていると、ふつふつと嫌な気持ちがわいてきた。

 だいぶ歩いたと思った。歩みがのろくて疲れただけかもしれない。わたしの家とは反対方向だ。知らない住宅街。

 あれ、と疑問に思った。昨日、アリカが帰りがけに、わたしの家に入るわたしを見た、と言っていた。けれど、どうしてわたしの家の方向にいたのだろう? あのあたりは住宅街で、用事なんてないはずなのに。

 アリカが細い路地に入り込んだ。しばらく待ってから、追いかけた。路地は車一台がなんとか通れるくらいの幅だった。アリカの姿が見当たらなくて、少し走って、次の路地を左右見た。――いた。アリカは、建物に入るところだった。家、というには、なにか清潔さを感じる建物だった。白くて四角くて。アリカが扉の向こうに消えてから、建物に近寄った。周囲は柵で囲われていて、出入り口は校門のようになっていた。そこに、プレートがあって、こう書かれていた。

     〈たつみ学園〉

(――学園?)

 この場所が一体何なのか、すぐには掴めなかった。学園という場所は、わたしの中には、学校しかなかった。それも、私立の、妙に偉そうなところだ。品の良さと鼻持ちならなさを混同してしまっている人の行くところだ。そんなところにアリカの用事があるとは思えなかったし、そもそもこの場所がそんな場所に見えるかというとそうではなかった。壁はところどころ塗装が剥がれて、みすぼらしく見えた。

「あら」

 突然声がして、驚いて視線を向けると、窓の向こうからこちらを見ている人がいた。五十、六十歳くらいだろうか。祖母より若くて、母より歳を取っているように見えた。「どちらさま?」

「いえ、あの……わたし……」慌ててしまった。

 その人は静かに微笑むと、「いらっしゃい」と言った。断る言葉が見つからなかった。

 通された部屋は、雑多な印象を受けた。ソファとテーブルの置き方が校長先生の部屋にそっくりだったので、偉い人の部屋だと思ったけれど、子供が描いたらしいがしゃがしゃの絵や、不恰好な粘土の鉛筆さしのようなものがあって、よく見れば全く別物のようだ。落ち着かなくて、ソファからそういうものを眺めた。彼女はカップを持って戻ってきた。

「ごめんなさいね、散らかったままで」

「いえ……」

 目の前に置かれたカップは、ミルク多めで白っぽくなったコーヒーみたいだった。甘い、良い香りがした。飲んでいいのか、少し悩んで、残すのも礼がないかな、と言い訳して一口飲んだ。甘い。

 彼女は対面のソファに腰を下ろして、優しげに微笑んでいた。

「私はここの園長をしています、高良といいます」

「わ、わたし、ミチといいます」

 ミチさんね、と高良さんは頷いた。「それで、一体何の用かしら」と小首を傾げた。「年頃からして、そうね、リョウコちゃんのお友達?」

 慌てて首を振った。

「いえ」リョウコという名前も聞いたことがなかった。

「そう、それじゃあ、何かしら」謎かけを楽しんでいる風情だった。

 高良さんは初めて会うタイプの人だった。あまり大人の知り合いがいるわけではないけれど、母とも祖母とも違った。そのことに戸惑っていたけれど、不思議と心地良かった。

「……わたし、アリカに、会いに来たんです」

 高良さんは驚いたようだった。目を大きく見開いて、まあ、と声を上げた。嬉しそうに頬を緩めた。「まあまあ、あの子、お友達がいたのね。籠もりがちの子だから、心配していたんだけど」

「籠もりがち?」昔のアリカならわかるけれど、いまのアリカをそう言うのは無理があると思った。

「ええ、なかなか打ち解けなくて……」

 高良さんは自然な口調で、以前の話をしているふうではなかった。戸惑っていると、「アリカ、呼びます?」と訊いてきた。

「あ、え、はい、お願いします」

「それじゃあ、ちょっと待っててね」

「あ」部屋を出ようとした高良さんを呼び止めた。

「あの」

「何かしら」

「ここって、その、たつみ学園って、なんなんですか?」

 高良さんは少し口ごもった。「児童養護施設……孤児院って言ったほうが、通りは良いかしら?」


 しばらくぼうっとした。うまく飲み込めなかった。孤児院、孤児院、孤児院と繰り返して、アリカがここにいることを思い出して、ようやくアリカが孤児だった、という結論をみつけることができた。でも、確信はなかった。うまく想像できなかったせいもあるかもしれない。自分の身の周りに、そういう、辛い状況にある人がいるなんて。それも、親しくしている人に。まるで気付かないことなんてあるんだろうか。

 けれど、認めてしまえば説明のつくこともいくつかあった。(アリカが自分の家のことを話すとき、いつだって誤魔化していたような気がする)(そうだ、親のあいだで噂が流れているのも、孤児だっていうなら、在り得るかもしれない)……

 扉が開いて、高良さんがアリカを連れてきた。アリカはわたしを見て、渋い顔をして顔を背けた。高良さんの言うままにわたしの隣に腰を下ろした。こんなアリカは初めて見た。まるで子供のようにむすっとしていた。

「少し聞きたいんだけれど」高良さんは小首を傾げた。「どんなふうに二人は仲良くなったの?」

 アリカは口を開く感じではなかったので、わたしが答えなければいけなかった。

「そう……ですね。教室で、席が隣になることがあって」はいはい、と高良さんは何度も頷いた。「そこで、わたしが声をかけていて、それから、ですか……」

 高良さんは不思議そうな顔をしていた。

「それだけ?」

「それだけです」

 隣に視線を向けるが、アリカはまだそっぽ向いていた。その様子を見て、高良さんは言った。

「どうやら私はいないほうが良いみたいね」

 わたしが悪いわけじゃないのに、すまない気持ちになった。

「みたい、ですね。じゃあ、あの、コーヒーありがとうございました」

 立ち上がると、アリカも立ち上がった。

 いえいえ、と高良さんは人の良い笑顔を見せた。「良かったら、また来てね」


 アリカはわたしの後ろをついてきた。外まで出ると、くん、と袖が引いてきた。振り向くと、俯いていてつむじが見えた。「……どう思った?」

「それは、孤児院にいる、ってことで?」

 アリカは頷いた。不安そうに瞳が揺れていた。

 言葉を探してじっと考えた。

「アリカは、アリカでしょ。別に変わらないよ」

「そう?」

 アリカはあくまで不安そうだった。その不安を消す方法はみつからなかった、なんといっても、その不安は当たっていないとは言えなかったから。自分がどういう態度をとるべきなのか、まるで見当がつかなかった。

「そうだよ。それくらいで、人付き合いが変わるわけないでしょ、むしろ、なんで教えてくれなかったのか責めたいくらい」

 口からは綺麗ごとばかり出てきた。そんな自分に反吐が出そうだった。

「うん……うん。そうだね」

 まだ不安そうだけれど、アリカは割合素直に頷いた。それから、白状した。

「……ちょうど物心ついたときに、ここに預けられたの。理由はよくわからないけれど、ただ、母は、園長と知り合いだったらしくて。そうだ……ねえ、いままで言ってなかったけれどね、園長、あの人、『妖精』がいないらしいの」

 驚いて、口元を押さえた。

「本当に?」

 おずおずと尋ねると、彼女は神妙な顔で頷いた。「嘘吐いてた。名簿見て疑問を持ちはしたけど、その前から謎があることは知ってたの」

 そのことよりも、「妖精」がいないということで、頭がいっぱいになっていた。どうしたらそうなるのか、よくわからなかった。でも、母の言っていた「噂」が、わかった。「妖精」がいないっていうのは、祖母や母や、姉なんかには、ひどく裏切られたような気分になるだろう、というのも。

 突然黙りこくったわたしに、アリカは、

「どうしたの?」

「うん……」頷いたきり、思っている言葉をどう言葉にすればいいのか見当がつかなくて、俯いた。アリカの少し戸惑った感じが伝わってきた。「どうしたの?」同じ言葉だったけれど、優しさを感じた。いっそう胸がじくじくした。

「ううん、大丈夫」言いながら、どう言葉にしたところでよくはならないと、気付いた。「……ねえ、アリカ。アリカはアリカで、嫌いじゃないよ。けど、」

「なに?」

「絶交、しよう?」

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