5/5~5/6
五月五日(火)
一時間目は理科。黒板には、描き慣れているのだろう、一筆書きで描かれた植物の断面図があった。あとは円と、オタマジャクシのようなもの。「動物には雄と雌があって、受精または受粉をして子を成す場合が多いのです。どちらも生殖細胞を……」という先生の言葉を流して聞きながら、わたしはアリカを眺めていた。羨望や嫉妬といった類の感情が自分の中にあることは気付いていた。わたしとアリカとの違いはたぶん、魔女、という、ただそれだけのこと。次は自分がなるもの。だから、そういう感情は間違いだ。けれど納得できるかと言えば別の話で、ただ感情を持てあましてしまう。
理科の時間が終わって、わたしは近づいてくるアリカの表情をみとめた。得意そうな顔つきだった。それを昨日の、「妖精の秘密」と結びつけるのは簡単だった。ということは、なにか「秘密」をつかんだということだろう。そのことに少し驚く。きっと、「秘密なんてなかった」となると思っていたから。そうなれば良いと祈っていただけかもしれない。
「ねえ」と声をかけられたとき、少しの混乱は隠した。「どうしたの」なんて、いつも通りの反応で。
「昨日の話、覚えてる?」
「魔女の?」
アリカは神妙な顔を作って頷いた。
「あのあと、『家』で、ちょっと年上の人に聞いてみたの。さすがに『大人』は言わないだろうから」
口を少しもごもごさせた。家、とか、大人、とか、そういう単語を誤魔化そうとしているようだった。
「で?」
と促す。話の続きは見えていた。視線を合わせないようにした。
「うん、まだ、よくわかんないことあるけど、とりあえず『秘密』は教えてもらったよ」
「へえぇ、何だって?」
アリカが急に顔を寄せてきた。息のかかるような距離だ、少しだけ身を引いた。
「子供」
「え?」
「妖精って、子供になるんだって」
引いた顔を、アリカの顔に再び寄せた。「それって、どういうこと?」彼女に合わせて、自然とささやき声になった。
「妖精が分裂して、片方が大きくなって、それが子供になるって、そう言ってた。それでね、ちょうどさっき、生物の生殖のこと、やってたけど、ねえ。ね、不思議だと思わない?」
「なにが?」
「雄と雌のこと。子供を産む方が雌なら、人には雌しかいないじゃない」
「それが? たしか、雄と雌のない生物もいなかったっけ」
「でも、それ、アメーバとか、そういうかんたんなのだけでしょ? それだったら、魚とかカエルとかのほうがまだ近い気がするけど」
なにか反論を言いたくて、考えをめぐらした。けれど、うまく出てこなかった。「……かもね。でも、いくらその方が自然だからって、現実には雌しかいないでしょ?」
「そう」少しだけアリカの表情が輝いた。「だからね、こう思うの。『妖精』っていうのは、私たちの雄なんじゃないかって。ほら、花だとおしべめしべが同じ花にあるでしょ」
ふうん、と身を引いて頷いた。なんだかアリカがはしゃぎすぎているような気がした。手柄を得て、自分の考えもあって、そうなる気持ちもわからなくもない。けれど、そんなにはしゃぐことある?
「ええと、妖精が子供になるのが、『秘密』なの?」
「そう。そうだって、高校に通っている人が教えてくれた」
「でも、それって、隠すようなことなの?」
ここで初めてアリカは笑みを消して、口をへの字にした。ただそれだけのことで、なんとなく安心した。「そこがわかんないの」
「だよね」
「『誕生日』のこと以上に隠さなきゃいけない、ってのがわからない」
前にも思った。「死」以上に隠すことなんて、ある?
けれど、このときわたしは、そのこと以上に、彼女の話を切り上げられて安堵していた。
*
誕生日は刻々と近付いてきていた。夕食の席でも、話題になるのはそれだ。長方形のテーブルに椅子が四脚、入り口から見て奥のほうに祖母と母が、近いほうに姉とわたしが、そんなふうに向かい合って座るのが決まりになっている。
「体調、大丈夫?」
「大丈夫」
「寝る前に体温計っときなさい」
「わかってる」
「あ、ほらたまねぎをのけないで。しっかりしないと駄目」
「…………」
母のうるさい指示に、言葉少なく頷く。祖母と姉は我関せずで、黙々と夕食を食べる。祖母はともかく、姉には、薄情もの、と思わないでもない。
ほかの家ではどうかしらないけれど、わたしの家では「魔女」に関することだけ、特別うるさい。主にうるさいのは母だけど、祖母は言葉にしないけれど母以上に厳しいし、姉は文句言わずに従っている。家の外観が洋風なのは――童話のイメージにすぎないけれど、「魔女」らしくするため、と祖母がしたのだ。
どうして、と思った。どうして、そんなに「魔女」にこだわっている?
たまに頭をよぎるその疑問は、アリカとの話に思ったのと同じ感じだった。「どうして、隠す必要がある?」
アリカのはしゃいだ顔を思い出す。
「秘密」をわたしより先に知って。
そりゃ、嬉しかっただろうね。――たしか、高校生に聞いたんだったっけ。
視線を上げて、対面に座る姉を見た。
コッ、と小さい音。小さすぎるかな、と思って少し強めに、コン、と叩いた。
ノックを二回。わたしの部屋の隣、姉の部屋。姉のことは、あまり得意じゃない。嫌いじゃない。どちらかと言えば好きだ、けど、二人で話したりとかするのは、ちょっと怖気づいてしまう。姉とわたしは五歳差で、それくらい離れていると、あまり話も合わない。それに、大人びた表情がちょっと苦手だ。
「なに?」
「わたし」
「ミチ?」
扉が開いて、姉が顔を覗かせた。
「入って」
姉の部屋は小物が多い。動物の形をしたメモスタンドが五つ、机の上に綺麗に並んでいて――メモは一枚もない。写真立てはその役割を果たしていたけれど、写真よりも外枠が気に入っているんだろうな、と思った。そして、ハンガーには紺のブレザーが掛かっていた。市内の高校の制服だ。
姉は読み止しでひっくり返していたマンガを拾って棚に戻し、わたしに向いた。
「何の用?」
「うん、その、聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
「妖精、のこと」
姉は少し目を見開いた。「へえ」ベッドの上に腰掛けた。「妖精の、どんなこと?」言葉の響きから、なにを聞こうとしていたか悟っているのがわかった。
「同級生が、なんか聞いてきてて、その……」こうなっても、まだ、躊躇ってしまう。家族にこの話題を話すのに、抵抗があった。姉はまだ平気なほうだけど。「子供、になるって」
姉は黙って、わたしを見ていた。不安になって付け加えた。「本当に?」
姉は困った顔をして黙り、しばらくして頷いた。
「だよ、うん。そのこと学ぶの、中学校に入ってから、なんだけどねえ」
「隠してるの?」
「教えちゃいけないことになってる、けど、まあ、人の口に戸は立てられぬ、というしね。隠れて知っている子も、それなりにはいるんだろうね」
姉は、魔女のことにはあまりこだわっていないように見えた。決して祖母や母に逆らうことはないけれど、こういうときはそれなりに話してくれる。
「あの、それで、まだ聞きたいことがあるの」
「教えちゃいけないことは、教えないよ」即座に姉は言った。
「それでいいから……あのね、どうして隠すの? 『誕生日』のことは隠さないのに、『子供』のことは隠すって、おかしい気がするんだけど」
再び姉は黙った。どこまで話していいのか考えているように見えた。
「……だって、『誕生日』は十二歳までに知らなきゃいけないじゃない。心構えとか、そういう意味でね。それだけじゃないかな、ね」
と微笑んだ。それはあからさまに作った「大人」の表情で、少しがっかりした。
五月六日(水)
風が吹くと一気に体が寒くなってたまらなかった。プールをあがってすぐが、一番嫌だ。濡れた水着が肌に張り付いて、あまってひだになったところがすぅすぅする。
日の光が照ると、すこし暖かいけれど、速い雲の流れにすぐ隠れてしまう。「寒っ」腕で体を抱きしめたところで、何の足しにもならなかった。日光に当てていたタオルで体を包んでいる子を見て、暖かそうで羨ましかった。わたしもすればよかった。
「アリカぁ」と友達に寄った。固まったほうが寒くないはず。
髪の毛を水泳帽に押し込んで、なんだか野暮ったい感じのする子だ。擦り寄るわたしに何の抵抗もなく引っ付かれた。
彼女は平気そうな顔をしていた。
「アリカ、寒くないの?」
「ん、大丈夫」
「そう?」
背中にぴったりくっつくと、その部分だけあたたかかった。
この子の友達は、わたししかいなかった。押しの弱いところがあって、気がつくと一人でいる。そういう子を、いつもは無視するのだけど、彼女だけにはそうしなかった。気まぐれだ。けれど、その気まぐれがおきたのは、席が隣だったからだろう。
人から離れて、なんでもないような顔をしようとしている彼女を間近で見てしまった。無表情にページを繰り続け。
苛々した。
たまらなく嫌だった。
だから、話しかけた。話しかけていれば、少なくとも彼女は一人じゃない。そうそう用事があるわけでもないのに、彼女に何度も何度も話しかけた。くだらない話ばかりだった。
彼女は最初面食らっていたようだけれど、そのうち自分から話してくれるようになった。
「ミチ」
「んぅ?」
「先生呼んでる」見ると、みんな並んでいた。二箇所、人の抜けたところがあって、それがわたしと彼女の位置だ。
「ああ、うん」アリカから離れた。腕を放すとき、
「あ……」
と彼女が呟いたようだった。
授業を終えて、更衣室へ。
着替えている途中、彼女はまだ湿った髪の毛を掻き分けて眼鏡をかけ、
「ねえ、どうして、そう話しかけてくるの?」
と聞いてきた。
本当のことは言えなかったから、微笑んで「友達でしょ」と答えた。彼女は不思議そうな顔をして、それから頷いた。
「……ずっと友達でいよう」
思いのほか力強い調子で、少し驚いた。
話してくれるようになった、といってもこのくらいのこと、でもそれで充分だった。自分以外にはまだ近付こうとしないところがあったけれど、それもまるで構わなかった。
これは、去年の夏のこと。まだ、わたしに主導権があったときの話だ。
*
学校から帰って、一度リビングに顔を出し――祖母はテレビを見ていた、自室に入った。部屋着に着替えて、ベッドに腰掛けて、そのまま上体をマットにあずけた。天井は白い、モザイク模様。今日の学校のことを思い返す。
「何か、わかった?」とアリカに尋ねた。
アリカは首を横に振った。
「ううん、昨日は訊けなくて。この前、聞けばよかったんだけど、どうして隠す必要があるかなんて、思い当たったの、話し終わってから随分あとだったから」
「ふうん」まだわかっていないことに安堵した。
アリカに、姉に聞いた話は報告しなかった。あまり新しい情報がなかったからだ。報告は、少なくともアリカのようにはっきりした答えを持ってからにしたかった。姉の話は「誤魔化し」が混じっているように感じた。
このあたりで、そろそろアリカとの関係を元に戻したい。「魔女」になったら、立場は一緒だ。そのあとまで、引っぱられていたくない。なにか目の褪めるような発見を先んじてすれば、少しはましになるはずだ。
けれど、打てる手が見つからない。姉はまた誤魔化すだろうし、祖母や母に聞くという選択肢は最初からない。学校の図書室には、十二歳前の子には「秘密」だというからには、そういう本は置いてないだろう。
アリカは口の軽い高校生に話を聞けるようだから、多分そのうち正解を手にするだろう。不利だ。
どうすればいいのかわからなくて、ため息をつく。
いけない、と思う。思考が空回りしている。焦っている。こういうときはなにをしたってドジをやらかしてしまうもの。それはわかっているけれど、動かないのも落ち着かない。同じところぐるぐる回るどころか、なんにも出てこないと思いつつ解決策を模索する。どうにかする切っ掛けも見つからない。
考えているような、いないような時間を過ごした。そのあいだに宿題だった漢字の書き取りをして、マンガを数冊読んだ。そんなことをしているうちにも、どこか思考はべつのところに飛んでいるようにぼうっとした。
窓の外が翳ってきた。
母が呼びに来たときにはもう、なにかおかしいと感じていた。
夕飯にはまだ早い五時ごろだった。返事をしてリビングに向かうと、祖母と母が待っていた。祖母はまっすぐわたしを見ていた。
空気がいつもと違うことに気付いた。鉱物のように冷えて、硬い感触がするような気がした。促されて、おそるおそる、祖母の真正面の椅子に座った。
「ミチ」
祖母の声質は室内の雰囲気と同じだった。
「……はい」
これから起きることには想像がついていて、体は勝手に縮こまった。叱られる。
「妖精のこと、知っているそうだね?」
あ、とその一言で全部わかった。姉だ、姉が、喋った。裏切られた。
「知っているんだね?」
「ミチ、返事なさい」と母。
頷くように、俯いた。「はい、その……知ってます」
祖母は呆れたようにため息をついた。
「知ってしまったことは、まあ、仕方ないだろう。だがね、言わねばならんことが二つある」
「はい」
「まず、だ。そのことは忘れな。誕生日が近いことだ、騒がしいことはやめておくことだ。だいたい、中学に入れば、知ることだからね」
「……はい」
祖母は疑わしそうな目で探ってきたけれど、「まあ、いいだろう」と呟いた。そしてこれが本題だというように、じっと睨みつけてきた。
「誰だね、ミチ、あんたにそんなこと教えたのは」
「…………」
言葉に詰まって、それから意識的に押し黙った。脳裏には、アリカのことが浮かんでいた。
「ミチ」と黙るわたしを責める母の声は妙に優しげだった。
祖母と、母の視線を感じた。じりじりと皮膚を削られているように感じた。
「黙ってないの」
答えたら、どうなるだろう。想像しようとして、うまくできなかった。アリカに直接どうにかするのは、よその子のことだから無理だろう、とか思った。でも、嫌な予感がして、黙っていた。
床を見ていた。
床はじっと見ると傷だらけで、知っていたことだけれど、どうしてか驚いた。
「アリカ、といったか」祖母がぽつりと呟いた。
「え……」視線を跳ね上げた。祖母と、母の顔を目を丸くして見た。
「噂で聞いているの」母は取り繕うように言葉を紡いだ。「ミチ、あなた、その子と友達なんでしょう?」
叱られているのを忘れて、戸惑った。
祖母はじっとわたしを睨みすえていた。
「その子に、近付くんじゃないよ」
一方的に宣告された。
「いや」と咄嗟に口が動いた。反射で。
部屋の空気がさらに硬質になるのを感じて、早くも後悔し始めた。逆撫でする必要なんて、どこにもなかった。頷いておけば良かったのだ。はいはいと頷いて、適当に誤魔化せば。それでも、もう出てしまった言葉をしまうことはできない。
「ミチ」気遣わしげな母の声。
でも、視線は、じっとわたしを見ている祖母から外すことはできなかった。祖母は、黙っていた。
唾を嚥下した。
「どうして……どうして、そんなこと、言われなきゃ、いけないの? わたしが、誰と一緒にいたって、いいでしょ?」言いながら、わたしは怯えていた。耳の付け根がきんきんとして、言葉を紡ぐ唇はぎこちなかった。
「駄目だ」その祖母の言葉には感情がこめられていたようだった。大人らしい取り繕いを剥ぎ取った祖母がそこにいた。「ミチ、その子に近付くんじゃないよ。ろくなことにはならんからね」……
ドアを開けて、閉める、暗い。電気を点けた。いつの間にか、真っ当な夜になっていて、驚いた。全然、気付かなかった。
ご飯は食べなかった。そういう気分じゃなかった。
ずっと後悔した。反抗しなければよかったのに。つい、してしまった。おばあちゃんが、怖かった。
そして、気になることが一つ。
噂、という言葉が気になっていた。アリカは噂されている、なんてそんな話、聞いたことがなかった。
*
その日の晩だった。変な具合になって目を覚ました。意識がだんだんはっきりしてくると、誰かが自分を揺さぶっているのだと気付いた。目を開けると、暗いままの部屋に真っ黒い人影が、わたしの上に覆いかぶさっていた。両手を肩に当てて、揺する揺する。
身動ぎをすると、揺さぶるのを止めた。
「起きたね」
姉の声だった。もぞもぞと上体を布団から出して、暗い顔を見た。
「どうしたの?」
「いいから、ちょっと来て」
姉は焦っているようだった。引っ張られて部屋を出る。ちらっと時計を見ると、まだ日付を越えていなかった。
リビングには母がいて、電話をしていた。「はい、はい、あの、突然倒れて……」
倒れて。誰が?
ソファの上に、祖母が寝ていた。寝ているんじゃない。あれは、気を失っている? 倒れた、おばあちゃんが。
電話を切ると、母は姉に視線を向けた。
「救急車が来るから、家の前で待ってなさい」
姉は素直に指示に従った。それから、母は部屋を右往左往して、なにか準備しているようだった。慌しかった。その中で、わたしと祖母だけは動かなかった。なにも言いつけられなかったし、動いたら邪魔になりそうだった。
わたしにできたのは、祖母を見つめることだった。
ソファの前に立って、横になっているその小さい人を見ていた。顔はしわだらけで、凹凸ができて、影がいくつもできていた。いつもの恐ろしい感じではなかった。なにか、硝子の屑を見ているような楽しみが心に浮かんできた。
ふとやりたくなって、しわに指を這わせた。皮のあいだに爪を挟んで、ツーっとする。たまにつっかかった。
サイレンが聞こえてきた。