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七月十八日(金)
喫茶店で人を待つ、そんな行動に慣れたのはいつのことだったろう。なんの気取りも気負いもなくそういう行動をとるのは、わたしにとってすこし困難なことだった。
自然になれると思っていた。
困難だなんて、ちっとも思っていなかった。
あの日々を思い出す。そう、はじめるなら、あの日からだ。腹にあてられた機械がちょっと冷たかったことが、記憶に残っている。日付もちゃんと覚えている。五月三日、日曜日。あの日の一週間前だから。七を引けばすぐに求められる。
五月三日(日)
白い壁に茶色の染み。消毒液の匂いは煩わしい。後ろに母が立っていて、両肩にはその手がゆったりと乗っていた。神経がその部分だけ敏感になってひりひり。わたしの座っている椅子はくるくる回るもので、重心をずらすとわずかに回った。右、左、右、左と重心をずらして回した――気付かれないように。
歳をとった医者が目の前に座って画面を見ながら、左手でわたしの腹に機械をあてた。何かを探るようにそれを動かし動かし、みぞおちのあたりで止めた。
医者は画面を見つめていた。
「だいぶ、大きいですね」
画面では、黒い影がぐにょぐにょ動いていた。モニターからはコードが出て黒っぽい機械に繋がっていて、それは医者の左手によって、わたしのむき出しのみぞおちにあてられていた、ひんやり。この機械は身体の中を調べるものだ、ということは、黒い影は、わたしのみぞおちの奥にあるということ。
「大丈夫なんですか?」母が心配げに尋ねた。
「大きさは関係がない、という統計結果がありますので」
そうなんですか、と母は安心したようだった。わたしを見て、「がんばるのよ」
嫌な気分が、ふっとわいた。
どう頑張れというんだろう、頑張るとか、なんとか、全然、関係ないんじゃないの? なんて、思ってしまう。でも、ただ頷くことしかしなかった。「……うん」
このことに関しては、一事が万事この調子だった。当事者はわたしのはずなのに、そんな感じはなくて。一生懸命になんなきゃ、って思いはしていたけれど、上滑りしてしまう。母……祖母も、姉も、わたし以上に興味を持っているようだった。なんか、うまく落ち着かない。
わたしの中には妖精がいる。わたしだけじゃない。お姉ちゃんの中にも、お母さんの中にも、おばあちゃんの中にもいる。おなかに機器をあてると、画面に黒い影が映る。動く。
うにょうにょ。
妖精。
「もういいですよー」
医者は人肌に温まった器具を外してくれた。
服を下ろして腹を隠す。なんだか服の感触に違和感があって、何度か叩く。落ち着かなかった。
診察室を出て、母の背中を追った。
母は、手際よくお金を払って、それから外に向かっていた。少し離れた駐車場に車を停めてあった。母はちょっと歩幅が大きくて、付いていくのに早足にならないといけない。
自動ドアを抜けると日差しが目を射した。雲はほとんどない。五月にしては暑かった。早足で歩いていると汗をかいてしまいそうだ。どうしてか、病院に来るときはこんな天気が多い気がしている。
回り込んで、助手席に乗り込んだ。
運転手席から、母はわたしの顔を覗いた。
「どこかでご飯食べてこうか?」言いながら、シートベルトを締めた。わたしもシートベルトを引っ張るのだけど、目的のところにうまく差せない。なんでこれ、しゅるしゅるってひっぱる力があるんだろう。
「いい」金具をいじりながら、首を振った。
「遠慮しなくていいのよ」
再度聞いてきた。なんとかシートベルトを締められて、顔を上げた。
母の顔はすっきりしている。余計な肉がついていなくて、顎の骨のかたちがはっきりわかる。作った笑顔がよくわかる。
「……いい、いらない」
「そう」
母は、ため息混じりに視線を外して、前を見た。キーをさしてエンジンをかけた。母のこの表情は素だ。
ちょっと機嫌を損ねてしまった。でも、本当にいらない。いつもどおりでないのが嫌だって、大人はちっとも思わない。大人は大人の論理で動く。こうすれば喜ぶとか、単純に思い込んでいる。「優しくする」方法が、もうできあがっちゃっている。違う、と思う。
「学校は?」アクセルを踏み込みながら聞いた。
わたしは母の横顔を見ながら、決めていたことを言った。
「……行く」
「わかった、じゃあ、連絡しなくていいのね」
「うん」
五月四日(月)
わたしの席は窓側から三列目の前から二番目、教卓の右斜め前方、ちょうど先生と目の合う位置にあった。教室の扉を開けると、ちょうど窓際一番後ろの席の子の姿が見えて、話しかけられたくなくてのそりのそりと席へ向かう。けれど、そう上手くいくはずがない。彼女は席を立って、近づいてきた。
「おはよう」
アリカ。
長い、黒く輝く髪をさらさらと流して、微笑んでいた。頷き返すけれど、なんだかぎこちなくなってしまった。
「そろそろ誕生日だね」
そうだね、と小さな声で応える。何気ないふりをして席に座り、鞄から教科書を取り出して、机にこめる作業をはじめた。視線はとりあえずランドセルの中。暗く影になったそこから順序良く四時間目算数、三時間目理科、二時間目……と教科書を取り出して机にしまった。その順番で机に入れれば、上から時間順に並んでくれる。
「休まないんだ? 今日は会えないかもって思ってた」
そうして気にしないようにしていても、彼女の声はなめらかに耳から入り込んできた。教室の中がうるさいときだって、彼女の声だけははっきり聞こえる。このあいだから。
顔を上げて、彼女の顔を見た。
一足先に十二歳を迎えた少女。少し面長の、整った顔立ちをしている。薄い笑みを顔に貼り付けているように感じた。その姿に違和感が消えない。
「……別に、必ず休めってことでもないし」視線をずらした。
誕生日が――十二歳の誕生日が、間近に近付いていた。来週あたまの、五月十日、日曜日。一週間前――つまり今日から休んでいいことになっていた。
「で、どう、どんな気分?」とアリカは聞いてきた。
「どうって……別に、たぶん、アリカと一緒だよ」
「じゃあ、大丈夫だ」アリカは笑った。「ミチも、きっと大丈夫だ」華やぐような、姉のような笑みに、なんとなく居心地が悪い。
「そうかな」言い返したいだけの言葉が出た。
「病院は?」
「……昨日行って来た」
「医者は何だって言ってた?」
「大きいって、妖精。関係ないらしいけど」
ふうん、とアリカは気のない頷き。「あのさ、みんな病院行くよね。でもね、意味ないと思わない?」
「意味ないって?」
「実際、妖精のことって、あんまりわかってないしさ。どうなれば、どっちに転ぶかなんて、医者が診たってわかんないよ」
ちょっと斜に構えた感じ。このごろ、アリカはそんな言葉遣いをする。少し嫌だな、と思った。嫌だな。なんか遠い感じ。前のアリカはこんなふうじゃなかった、十二歳になる前のアリカは。
「アリカは?」
「ん?」
「アリカは病院、行った?」
「行ったよ、家族がみんな行けって言うもんだからさ」
「何て言われた?」
「なんにも。普通だったんでしょ、普通」
彼女がそううそぶいたときに、ちょうどチャイムが鳴った。
ブッ、スピーカーがノイズを吐き出し、ジジジ、と巻く音がして、リリリリ……と放たれる。
「じゃ、またあとでね」アリカは片手をあげて自分の席へ向かうが「あ、そうだ」と振り向いた。「今日の放課後、時間空いてる?」
少し戸惑って、戸惑ったまま、何も考えず頷いた。「だい、じょうぶ、だと思う」
「うん、じゃあ、放課後」
うしろ姿を見送って、息をついた。
彼女が離れていって、ほっとしている自分が間違っているような気が、ちょっとしていた。
この日の一時間目の授業は道徳で、内容はちょうど妖精のことだった。教科書の、物語風に仕立てられた文章を読んで、妖精のことを考える、じゃなくて、きっとこれは心構えをしよう、ということだろう。
去年も似たような授業をしていた。「なおみちゃんは今年十二歳の誕生日を迎えます。」の一文から始まる物語も、どこかで読んだ感じがあった。ちょっとしたイラスト、腹の部分が透けて、その中に小さな人のような妖精が描かれているのも、見たことがあった。まるきり同じではないだろうけれど、似通っている。
もうすでに知っていることを、同じ方法で、何度も何度も。だからわかりやすい――内容だけに限らず、こういう内容を押し出してくる「大人」の目的だって、見え透いている。
それにのせられるわけではないけれど。
腹に手をあてた。
その中にいるものについて思った。妖精、と呼ばれるもの。なんだかよくわからないもの。わたしたちみんなの中にあるもの。心臓の影に隠れるように、じっとしている。
十二歳の誕生日を過ぎて、妖精がいると魔女になる。誕生日には、ある程度痛みを伴うらしい。痛みの大きさも質も、人によってかなり違うようで、不安の種だった。でも、不安はそれだけじゃない。
魔女。魔法を使う者になれる。けれど、魔女になれない人もいる。魔女になれない人の場合、誕生日を迎えると妖精はおなかから抜け出していく。その際、おなかを食い破っていく。当然死ぬ。妖精なんだからすり抜けていけばいいのに、と思う。けど彼らには実体があって、それはどうしようもない。妖精のほうも、人の体から抜け出ると二日も生きられないらしい。……じゃあ、どうして出て行くの、と尋ねたくなる。でも、そもそも彼らに知性があって、明瞭な理由があって出て行くのか、そこから疑わしい。そういうふうにできている、だなんて何も考えていないも同然の答えしか出てこない。
死は怖い。けれど、うまく死を想像できなかった。漠然と怖かった。だからか、少なくとも表面上は、わたしたちは気にはなるけれど、どちらかといえば平気でいられた。幾人か駄目なのを除けば、大体全員魔女になれたのも、大きかったと思う。
大人はみんな、魔女になったら変わる、と言う。どう変わるのか、実はよくわからない。姉は五つ年上で、彼女が魔女になったとき、わたしは小学校に入りたてだった、あんまりよく覚えていない。それに覚えていたとしても変化自体わからなかったと思う。微妙な変化に注意を払っていなかった。誰かの顔が青白くても、気づくことができないくらい。それ以外に覚えるものが多すぎた。大雑把に捉えておけば、それで充分だった。
だから変化の例は、同い年のアリカや他の数人だけだ。彼女たちは、確かに変わったとは思う。
アリカの席に目を向ける。魔女になったアリカ。綺麗になったアリカ。ぼんやりと、気の抜けた様子でページを繰っていた。授業とは別のページを見ているようだ。見ていると、こちらに気付いて、先生にばれないように手を振ってきた。微笑みを返す……ちょっとぎこちなかったか。
アリカはつい先日の四月十六日が誕生日で、五十人いる六年生の中で一番早く誕生日を迎えた。最初に魔女になるかならないかの壁に当たった。
みんな、アリカの様子には注意を払っているようだった。自分がこれから一年以内にあたる運命を、彼女になぞらえていた。けれど、その注目を一番実感していたのはわたしだったかもしれない。
アリカは独りでいることを望んでいるようだった。厚ぼったい眼鏡で、俯いて、地味で、そんな自分で満足しているようだった。長い髪は結ばれて、美しいとはちっともわからなかった。休み時間になると、誰だったか忘れたけれど、特定の、海外作家の小説を読んでいた。その姿は他者から距離をとっているようだった。
彼女の誕生日が近付いたころ、わたしは「アリカちゃん、どんな気分なのかな」と何度もクラスメイトに質問された。そのたび、わたしは控えめに「わからないよ」と答えた。
孤独を好んだアリカ。例外はわたし。四年のはじめに話しかけていたら、どうしてか気に入られたらしい。「ミチ」と彼女はわたしの名前を呼んだ。いまの明るい調子とは違う、けれど親しみをこめた声で。彼女がそう呼びかけるのはわたしだけだった。だから、みんなわたしのほうに彼女のことを聞いたのだろう。
一度だけ、アリカ本人に尋ねたことがある。ちょうど、わたしが聞かれたのと同じ調子で。
「ねえ、アリカ」
アリカはゆっくりと顔を上げた。
「なに?」
「誕生日、あと少しだね。……ねえ、どんな気分?」
一度顔を伏せた。何か考え事をするときの彼女の癖だ。しばらくして、じっとわたしの瞳を覗いてきた。
「怖い」と、そう言った。「怖いよ。大丈夫だって、ずっと自分に言い聞かせているし、ほとんどは生き残れるって。学校に来ているのは、恐怖に押しつぶされていないって、自分で信じるため、かもしれない」
その心理はなんとなくだけど理解できた。理解できたけれど、現に目の前にいる少女はそこまで怖がっているようには見えなかった。どこか余裕を感じた。
あのころは――ついこのあいだのことなのに、随分前のことに思えた――わたしがアリカを引っ張る立場だった。変わったのは、彼女の誕生日からだ。
魔女になった翌日、彼女はもうわたしの知っている彼女ではなかった。眼鏡を外していて、話を聞くと「不要になったの」と魔女になったアリカは言った。それだけではなくて、硬く結われていた髪の毛はもうその美しさを隠していなかった、声も明るくなったし、華やいだ笑みを浮かべるようになった。垢抜けた、という表現がこれほど相応しく感じたのは初めてだった。そんな変化に戸惑っている間に主導権を奪われた。いまでも取り戻せていない。
そんなふうに思い出していると、唐突に、
「ミチさん」
先生に呼ばれた。
「え……、はい」慌てて立った。
「このときの、なおみちゃんの気持ちを代わりに答えてもらえますか」
「はい……その」教科書に視線を落とした。「ですね」誕生日を翌日に迎えたなおみちゃんの気持ちを答えなさい。「……」意訳すると、わたしの気持ちを答えろということだろうか。
アリカの席に視線を向けると、興味津々といった感じでわたしを見ていた。
「……。魔女になれたら、いいな、とか。そう、先のことを考えます、大人になったら、どうするとか。それで、たぶんいろいろ紛らわせると、思います」
*
帰りの会が終わって、アリカが手を挙げながら近付いてくるのを、微妙な気持ちで迎える。
「ミチ」明るい口調。まだ、記憶の中のアリカと整合性がとれなくて戸惑うことが多かった。
「なにがあるの?」
アリカは周囲を見回した。まだたくさんの人が教室に残っていた。うーん……と唸って、
「ここじゃなんだから、ちょっと街に出よう」
わたしの腕を取ってきた。腕をからめ、体を密着させてくる。少し鼻をつく、あでやかな匂いがした。
何か言おうとして、やめた。「……うん」と頷くだけ。彼女が引っ張るままついていった。
学校から出ても、彼女は腕を離そうとしなかった。無理矢理外そうと思えば簡単に外れるだろうけど、そうまでするのは、なんか違う気がした。……アリカ、嫌な気分になるだろうし。抵抗しなかった。けれど傍から見ればどう見えるのか、気になった。友達だと思ってくれていればいいけど、(……付き合っているように見える?)人の姿が見えるたびにびくびくした。そういう風に見えるのは、嫌だ。そのうち、誰かと付き合ったりするようになるのかもしれないけど……
アリカの目的地は、駅前にあるチェーンの喫茶店だった。
自動ドアの前で躊躇してしまった、場違いな気がして。子供だけで入るのに、違和感がある。けれど、アリカは普通に歩いていたので、ぐっと引っ張られた。
アリカが顔を覗きこんできた。
「どうしたの?」
彼女はあんまりに平然としていた。その余裕に、少し焦る。
「別に」なんでもないよ。
逆にアリカを引っ張るようにして、早足に店内に入った。
勝手を知っているふりをして、メニューを眺めた。けれど、いままで触れた事のない横文字が並んでいて、それがどういう味なのか想像できなかった。コーヒーは苦いのでやめておくとして、ラテってなんだろう、普通に烏龍茶を頼んどいたほうがいいかな……。でも、アリカが洒落たもの頼んだらどうしよう。見劣りはしたくない、けど。
なんて考えているうちにアリカはレジのところでさっさと注文して戻ってきていた。
「頼まないの?」涼しい顔が憎らしかった。
「……ちょっと、目移りして。ねえ、おすすめとか、ないの」
「そうねえ、抹茶ラテとかおいしいけど」
ふうん、と頷いて、レジに向かった。緊張していると伝わらなかっただろうか、ちょっと不安。アリカは、いつの間に、こういう場所に慣れたんだろう。そういう素振りはちっとも見せなかった。なんか裏切られたような気分がして落ち着かなかった。
つっかえながら注文して(「アイスですか、ホットですか」と聞かれてちょっと戸惑った)、アリカのいる場所に戻った。
「抹茶ラテにした」
いらない報告だったかと、言ってから思った。
お姉さんからカップを受け取って、禁煙席のフロアに向かうアリカを追いかけた。
歩きながら、手に持った「抹茶ラテ」を眺めた。薄緑色した表面に氷が浮かんで、たゆたゆ揺れていた。受け取るとき、お姉さんがちょっと微笑ましげに見ていたのが、気になる。
「この辺りでいい?」
「うん」
座るとようやく人心地ついた、角のテーブルで良かった。
ストローを慎重に唇で挟んで、ゆっくり吸った。抹茶アイスだこれ、間違いない。
アリカはコップをじっと見ていた。つむじが見えそうなくらい。見たことあるな、と思ったら、一ヶ月前まではよく見ていた角度だ。まだわたしが主導権を握っていた頃、よく見た。懐かしい気分になった、いい感じだ――と思ったら、彼女は指でコップの水面を指差した。「ね、ミチ」と微笑んだ。
釣られて見てみると、「あっ」チョコレート色した水面が勝手にぐるぐると渦を巻いていた。アリカは悪戯そうに笑った。「ミチに、見せてなかったでしょ?」
「魔法……」呆然と見入っていた。「こんなこと、できるんだ」
「どう?」
「すごい」わたしの口は素直に感嘆した。
十二歳以上の人は誰もが魔女だった。魔法を使えた。けれど、魔法を滅多に見ることはできない。魔法を使って良い場所と時間は決まっていた――例えば、「誕生日に一度だけ試してよい」だとか。
――もちろん、いまは大丈夫じゃなかった。そのことに思い当たって、急に不安になって周囲を見回した。ころころとアリカの笑い声が聞こえた。「ミチ、大丈夫。ここは死角になってるから」
「……そう?」
アリカの堂々とした姿に、いくらか気分が楽になった。それでもおずおずと、再び目を向け、見入った。渦は少しずつ変化していっているようだった。回転が二つに分かれ始め、やがて八の字を描くように――ありえない渦を作った。
「私ね、結構、器用らしいのよね」と少し誇らしげにアリカは微笑む。
対抗心がわいて、強いて視線を外した。
「ねえ、用事って、このこと?」
素っ気無い口調をどうにか作った。
アリカは首を左右にふった。「違う違う、これは、余興だよ」それから顔を寄せてきた。「話、なんだけどね……ミチに言うのが初めてなんだけど」アリカは声を小さくする。秘密を囁く、その調子で。「妖精について、知らされていないことがあるって言ったら、どう思う?」
「知らされていない……」ぴんとこない。「知らされていないって、どういうこと?」
妖精については、小学校に入ってからずっと道徳や、ほかの教科でたびたび勉強してきた。大人の目論んだように、流して聞いていても覚えてしまうほど。
みんなのおなかの中に生まれたときからいる生物で、魔法の源で、そして十二歳の誕生日にわたしたちを終わらせるかもしれないもの。まとめてみれば、それくらいだ。
「五十年前の一学年の生徒、何人いるか知ってる?」
五十年前……。五十年前といえば、祖母がいまのわたしくらいだろうか。大昔という感じがして、想像もできない。巨大な羊歯植物が群生し、テラノが闊歩していたと言われても、知識として嘘だとわかるけれど、なんとなく納得してしまいそうになる。
首を横に振った。
「でしょう。あのね、いまの、五割り増し以上って言ったら、信じる? 七十人から百人くらいいたらしいの」
へえ、とどこか外れた声が出た。よくわからない、どうしてそれが妖精のことになるんだろう?
「大人は、何か、隠している気がする」
「隠している……」
鸚鵡返しで相づちを打った。彼女が何か確信した上で言っているのは語気でわかる、けれど、その意味自体がうまく形をとってくれない。そういうこともあるかもしれないね、くらいにしか思えない。
「あの……五十年前の生徒の人数と、妖精と、どういう繋がりがあるの?」
アリカが少し詰まった。「うん、ええと、大人の、態度かな」
「大人の」
「うん」アリカはちらりと上目遣いにわたしを見た。「……ねえ、知ってる?」
「知ってる、って、何のこと?」
「ううん、別に、なんでもない。……あの、そういうこと、記録が残ってて、知って。『家族』の大人にね、その生徒の人数のことで尋ねたことがあったの。で、ちょっと妖精とか、そんな時期だったから、冗談めかして混ぜてみたの。『こんなに多いんじゃ、妖精のことで大変だったかもしれませんね』……なんてね。でも、返事が少し戸惑っているような――ほら、隠し事をしている感じで、なんかよくわかんなかった」
「それ、気のせいじゃないの?」
小さく、アリカは笑みを浮かべた。「そうかもしれない、けど」
「けど?」
「違うと思う。感覚だけどね」
ふぅん、と頷きながら、わたしは自分が彼女の話に引き込まれていると感じていた。妖精の話だったからだと思う。一週間後に控えた誕生日のこともあって、無視することは出来なかった。だから、
「ねえ、あばいてみない、秘密」
と持ちかけられたとき、即座に応えることができなかった。素直に彼女に従いたくはなかった。けれど、もしあるとしたら、その秘密を知りたい。大人が必死に隠していることを暴くのはさぞ爽快だろう、という気持ちが湧いてくる。
「どういう方法で知ろうっていうの」
「そうねえ……親に聞いてみるとか」
その返事に落胆して安堵した。「無理だよ、そんなの」と簡単に答えることができたから。
「無理でもいいよ、わかったら教え合うくらいで、ね」
「うん、まあ、それくらいなら」
それからしばらく話をして店から出ると、いつの間にか赤々とした夕焼けになっていた。
「で、初めての喫茶店、どうだった?」
アリカが尋ねてきた。
*
わたしの家は学校から十五分ほど歩いた住宅街にある。妙に洒落た赤レンガを模したタイルのせいで、ちょっと近所から浮いている。この家は祖母と母だけのときに建てられた。こういうデザインにしたのは祖母らしい。「魔女なんですから、ちょっとくらいそれらしくしたっていいでしょう」というのがその言い分だった。玄関で靴をそろえて、いつものようにリビングに向かう。
この時間、家にいるのは祖母だけだ。いつもリビングでテレビを見ているか、縫い物をしているか、電話をかけているか、外を見ているか、そのどれかをしている。ドアを開けると、今日は外を見ていた。窓際に立って、庭の一角のちくちくとしたアザミを見ているようだった。近くの台に薬と水が置いてあった。心臓の薬らしかった。詳しいことはわからないけれど、歳のせいでだいぶ弱ってきているらしい。
アリカとの話を思い出す、大人が隠していることをあばこう、とか。方法は彼女が言ったものくらいしか思い浮かばない。わたしの身近にいる大人は、母か、祖母か、先生か。ちょうど祖母は、すぐそこにいる。けれど、聞く、という行為がうまく想像できない。こんなに近いのに。
(だから、無理だって)
「おかえり」
わたしに気付いて、祖母はわたしのほうへ視線をやった。コッコッ、とゴムが板間の小さな溝に当たって鳴った。祖母は室内でも杖をつく。そのため板間も少し傷ついている。けれど、それについて誰かが言うのを聞いたことがない。ちょっとしたことでも怒る母だって、それについては何も言わない。理由は、なんとなくわかる。
ただいま、と応える、少し俯き気味で。
「遅かったね」
「友達とちょっと遊んでいたから」
そうかい、と祖母は興味無さそうに呟いた。「ミチ」しわがれた声は、そのまま童話の魔女のようだ、地面から響いてくる。外見は単なる老人なのに、そのせいで恐ろしく思えてくる。
「そろそろだね」
誕生日が。十二歳の誕生日が。
はい、と応える。祖母の前にいると、何かスイッチを入れるように従順な自分になる。
「心の準備はできてるかい」
はい、と応える。実際、どうしようもないことに心の準備なんてできてやしない。それでも祖母の前ではどうにか取り繕う。嘘を吐く、慣れたものだ。きっと祖母も嘘だとは気付いているんだとは思うけれど。
「頑張りなさい」
まただ、と思う。母も言っていた、がんばれ、なんて。どう頑張れというのだろう。「……はい」
答えると、祖母は視線を外し、薬とコップに手を伸ばした。
ここでおしまい、の合図。あとは自分の部屋に戻ればいい。けれど、ちょっと迷った。このまま帰るか、一つだけ――迂遠にでも尋ねてみるか。アリカには負けたくない気分だった。
「あの……」
外した視線を戻して、祖母はわたしを見た。
「いえ、なんでもないです」
そう答えると、祖母は薬を口に放り、水を飲んだ。
少し早足で居間を出て、二階に登って、道路側の部屋に入る。そこがわたしの部屋だ。自分の部屋に入って、安堵の息を吐く。一番落ち着くのが、部屋で、一人でいるときだ。ここのところ、とくに。
家に帰って、まずリビングに行く。それがいつものことになっている。いつからだろう、そして、いつから祖母はあんなに怖かっただろう。気付いたときには、もう、祖母の前では萎縮してしまうようになってしまっていた。母も自分とそう変わらないのを思えば、ずっと前からかもしれない。
そんな祖母には――そしてその祖母に逆らえない家族には、「妖精の秘密」なんて聞けない。聞けるはずがない。そう思った。