第8話 金持って街へ行こう
8話目にしてようやく外出。
クルスの着衣問題は解決しました。
異邦人クルスの朝は筋肉痛から始まる。
腱鞘炎かとも思われる前腕部の痛み、斧を振り続けたことでの肩と背中の痛み、重いバケツを運んだことでの下半身の痛み、天秤棒を担ぎ続けたことでの赤痣。無事なのは腹筋だけ。腰を痛めていないことが幸運だとも思えるような有様だった
クルス「う゛…イデデデ」
寝たまま姿勢を変えるのすら辛い。ここまで酷い筋肉痛になったのは久しぶりだ。臨時の引っ越しバイト以来だろうか。イベント設営のときも筋肉痛になったけどここまでじゃなかった、などとどうでもいい事を考えながらクルスは芋虫のように蠢いた。
唐突に、コンコンとドアがノックされる。
返答を待たずに扉が開き、ドアノブのやや上あたりから人の顔が差し込まれた。ずいぶんと低い位置から部屋の中を伺うのは、召喚術師のエマだった。
エマは体がドアの隙間から見えないような位置取りをし、恐る恐るといった様子でクルスに声をかける。
エマ「クルス…。起きてる?」
クルスが返事をしようかと一瞬だけ迷い口ごもっていると、エマはするりと部屋に入ってきた。
今まで着ていたローブではなく、簡素な貫頭衣にズボンとサンダルを合わせた村人風の服装だ。部屋はさほど広くもないためすぐに目が合う位置に移動する。
エマ「なんだ、起きてるじゃない」
枕元へと至り、あきれたように言うエマ。
クルスはもそもそと顔を合わせ、気まずそうに釈明した
クルス「筋肉痛で起き上がるのがなー、ちょっと。日頃の運動不足ってやつだ。」
そう苦笑しながら身を起こし、イテテと呻く。エマはそんなクルスを見て、ニヤリと笑った
エマ「情けないわねー。ちょっと叩いてみていい?」
ニヤニヤと笑いながらクルスへと手を伸ばすエマ。
クルスは引きつった笑みを浮かべその手を受け止めようと試みるが、その動きは遅い。
クルス「ちょ、ちょっと待て! 何か用があったんじゃないのか? 話し合おうエマ!」
エマ「え? ああそうね。今日は街まで行くから準備してって話よ。服は…昨日着替えたみたいね。それで靴を履けば大丈夫だから朝食を済ませたら出るわよ。…てい。」
クルス「うぐぉ!!」
話に応じるフリをし、唐突にクルスの肩を突くエマ。
クルスは悶絶しながらベッドへと倒れ込むが、エマは構わずクルスの足首を掴み、曲げたり伸ばしたりし始めた。
クルス「あ痛だだだ! やめ! やめろ!」
痛みのあまり半笑いになるクルス。エマはひとしきりクルスを弄り回したあと、なるほどねと呟き手を離した
エマ「12歳かー。確かにそうかも」
クルス「ちょ、エマ…。エマさん? さすがにこれはちょっと酷くないか?」
息も絶え絶えになりながら抗議するクルス。一応は抵抗を試みたのだが、女とは思えない力で動かされ、痛みもあって無駄に終わった。
エマ「仕方ないか。薬を持ってくるから、それ飲んでから朝食ね。半刻くらいで筋肉痛が消えると思うから。」
クルス「…エマは魔法が使えるんだろ? それで治せないのか? 薬だってタダじゃないだろうし。」
昨夜のケチぶりを聞いていたのかいないのか、そう提案するクルス。だがエマはそれを聞きかぶりを振った。
エマ「治せないことは無いんだけれど…私が使える【癒のルーン】は対象の体力を消耗するのよ。自然治癒を促進するだけだから、一気に傷を治すとそのぶん疲れるの。筋肉痛が全身に渡ってるみたいだしルーンで治しても疲労で動けなくなるだけだと思うわ。」
クルス「ああ、そうか。ちゃんと考えてくれてたんだな。」
酷い悪戯だと思って済まなかったと謝るクルス。思えば恵美もこうした悪戯は好きだった。やり返すと機嫌を損ね、サプライズは断固拒否で理不尽を感じたものだがと思い返す。
エマ「半分は悪戯だから別にいいわ。それじゃあ薬を持ってくるから、飲んだら半刻くらい安静にしてること。筋肉痛が治まったら出発するわ。」
そう言ってエマは部屋を出ていく。
クルスはそれを見送ってからごろりと横になり、二度寝を決め込むのだった。
◇◇◇
クルス「いやー、あの薬ほんと効くな!」
朝食のオートミールを掻き込みながらクルスが朗らかに笑う。エマが持ってきた丸薬を飲み30分ほど寝ていたら筋肉痛はさっぱりと消え、気分は爽快だ。
エマ「本来なら怪我を治すための霊薬だからねー。銀貨1枚もするし、筋肉痛に使うのは勿体ないくらいの品なのよ?」
既に食事を終え、いつものローブに着替えたうえで荷造りをしているエマは嘆息しつつそれに応じた。こいつはモノの価値を分かっているのかと言いたげな表情だが、分かっていないことは分かり切っているのでことさらに言ったりはしない。薬を使うと決めたのも自分なので文句はない。ただ笑顔のクルスを見るとイラっとくる。そんな感じだ。
クルス「ところで最初から気になってるんだが、金貨とか銀貨とか、どれくらいの価値があるんだ? 金を稼がなきゃいけないなら外せない知識だろ。」
エマ「市場へ行ったときに言おうかと思ってたけど…。サダさん、説明お願いできる?」
知識を得たいと請うクルスに対し、傍らで今日も白湯をたしなむ悪魔サダナキアに話を振るエマ。サダナキアはふむ、と首をかしげ言葉を返した。
サダナキア「承ろう。ただ概念的なことはともかく、市場価格に関してはエマ殿の方が詳しい。そちらの説明はエマ殿にお任せしたいのだが、宜しいかな?」
エマ「ええ、いいわよ。」
サダナキア「ではクルス殿、こちらがワガハイの財布であるな。それでこれが…銀貨と、銅貨である。」
そういってサダナキアは腰に下げた小袋を取り、そこから2枚の硬貨を取り出す。
10円玉ほどの大きさのそれらをテーブルに乗せ、ついとクルスの方へ差し出した。
クルス「銀貨って、灰色してるんだな」
その片方を取り、しげしげと眺めるクルス。
十字の溝が切られつる草のような文様が刻まれた銀貨は燻したような銀色に鈍く光っている。物珍しさからか、クルスはそれをころころと掌で転がした。
サダナキア「人の手を渡るたびに黒く煤けていくのであるよ。その銀貨1枚で、銅貨100枚の価値があるのである。」
クルス「へえ、高額貨幣なんだな。でも銅貨10枚分とかの貨幣が無いと困るんじゃないのか?財布が銅貨で溢れそうになるとか。」
サダナキア「そのときは銀貨を割るのであるよ。ちょうど溝が切っているであろう?」
彼はさらに2枚の硬貨を取り出す。片方は半分に割れた銀貨、もう片方は4分の1に割れた銀貨だ。
サダナキア「これが半銀貨、これが割り銀貨である。名称は公に定められたものではないが、それぞれ銅貨50枚ぶんと25枚ぶんに相当するのである。」
クルス「へえ、それで溝が切ってあるのか。手で割れそうだもんな。」
サダナキア「うむ、溝が無い時代には銀貨割りという金てこのような道具で割っていたらしいが、大きい一辺と小さい一辺に分かれてしまったり、5分の1に割ってそれぞれを割り銀貨だと主張されたりしたそうでな。こうして手で割れるように溝が掘られたそうである。銀貨を削って銀を得ようとする試みも、円周部は淵の厚さで、割った部分はその跡が見えることで防がれるそうな。」
クルス「なるほどね。考えてるわけだ。」
サダナキア「そして金貨は…ワガハイ持っておらぬのである。金貨は銀貨10枚分の値打ちがある故、小遣いとしては少々使いにくいのでな。エマ殿は持っておられるか?」
その言葉にエマは顔をしかめ、仕方がないと言った風に革の小袋を開ける。
詰められた金貨がじゃらりとテーブルに広がった。
エマ「ざっと30枚ってところかしらね。今持ってる現金のほぼ全額よ。魔術師は基本的に金貨で買い物をするし、今回はサダさんのバージョンアップもするから多めに持っていくわ。」
そういってそそくさと金貨を仕舞うエマ。クルスはそのしぐさを見て、ひとつ疑問をぶつける。
クルス「それで、金貨ってどれくらいの価値があるんだ?」
エマ「そうね…。だいたい一人前の雇われ職人が月給で金貨2枚くらいね。腕利きなら3枚、親方は雇われじゃないけど5枚から10枚くらいが普通だと聞いてるわ。街でアパートを借りて質素な生活をするなら金貨1枚ほどもあれば生きていけるらしいから、職人は貯蓄のできる職業ね。」
クルス「となると金貨1枚で10万くらいか?月に20日働くとして日当が銅貨50枚、半銀貨1枚もあればその日暮らしができるってわけだ。とりあえずはそのあたりが目標か?」
エマ「そこまで割のいい仕事はなかなか無いけどね。クルスが昨日やった薪割りと水汲みで銅貨10枚くらいが普通かな」
クルス「うげ、肉体労働で稼ぐのは絶望的じゃないか。」
エマ「そのあたりは考えてるけど…まあ後で説明するわ。サダさんは何か言い残したことある?」
サダナキア「ふむ、今までクルス殿が関わった品代を挙げてみるとするであるか? クッキーが10枚で1銀貨、フキの葉が10枚で1銅貨、低位のポーションが銀貨6枚、さきほど飲んだ丸薬が銀貨1枚であるな」
エマ「あとクルスの服が1揃いで金貨2枚ね。2揃いあるから金貨4枚」
クルス「…なんか、俺、いろいろ使い込んじゃった感じ?」
クルスが目を泳がせながらそんなことを聞く。
エマはにっこりと笑い、それでいて目が座った表情でそれに応じた。
エマ「…気にしてくれると、うれしいな?」
クルスの背中を一筋の汗が流れる。
何だろうこの圧迫感。自分は拉致された被害者であるはずなのになぜだか大きな借りを負っているような気さえしてくる。これが金の力か。いや気にする必要は無いしエマもそれを強制するとは言っていない。ここは強気に出るべきだ。そう思ってエマを見ると、やはり目は笑っていない。
クルス「ぜ、善処シマス…」
無理だった。
◇◇◇
北に飛竜山脈、南に魔の森を望み、林業と木工で栄えるコルの街。
堅牢な城壁の内には市街が立ち並び、郊外には農地が広がる。街の西側を流れる川は多くの恵みをもたらし、辺境ではあるがそれなりに豊かな暮らしを営んでいる。
クルス「よ、ようやく着いた…」
そんな地方都市の北門を望み、クルス脚は震えていた。
感動ではなく、疲労だ。日が昇って小一時間ほどの早朝に家を出たにも関わらず、たどり着く頃には正午を大幅に過ぎていた。トラブルがあったわけではない。ひとえにクルスの足が遅かったせいだ。
エマ「まったく、予想以上の脆弱さね」
傍らに立つエマがそう声をかける。
クルスと同じように歩いてきたにも関わらず疲れは全く見えない。傍らにたつサダナキアも同様だ。
クルス「お、お前らなんで疲れてないんだよ…」
膝に両手をつき、そう悪態をつくクルス。だがエマもサダナキアも不思議そうに目配せをし合うばかりだった。
エマ「なんでって言われても、普通あれくらいじゃ疲れないわよ?」
サダナキア「ワガハイ、依り代故に疲労という概念が無いのである。」
おかしいのはクルスだ、と言わんばかりのエマだったが、事実、こちらの世界でクルスほどに歩けない人間は子供か病人くらいだ。
クルス「金貨銀貨の時点で予想はしてたが…車とか無いんだな…。」
目前にそびえ立つ城壁を眺め、今まで歩いてきた道を振り返ってクルスは呟く。
道中で車両や機械を目にすることは無く、広大な農地ではまばらに人が作業しているだけだった。クルスの見慣れた現代文明だけではなく近代の空気すら感じない。人力と牛馬に頼った牧歌的な作業風景があるばかりだ。
エマ「はいはい、いつまでも疲れてないで行くわよ。今日中にお師様のところに行って、あと魔石も用意しておきたいんだから。」
そんなことを言いつつ、エマは城門へと向かう。クルスは慌てて後を追った。
城門は人の倍ほどの高さと2人が両手を広げたほどの幅があり、槍をもち革鎧を着こんだ衛兵が立っていた。
クルス「なあ、城門て何か手続きがあったりするのか?」
エマ「北門はほとんど出入りが無いから、見慣れない通行人は止められるわね。私は大丈夫だけど」
クルス「顔パスってやつか?」
エマ「そうね。あとは服装。この門を使う魔術師は私くらいだから。あ、こんにちは」
軽く手をあげ挨拶をしてくる中年の衛兵に、エマは会釈で応えた。クルスも真似をして会釈をするものの、その中年衛兵はしげしげとクルスを見つめてくる。居心地の悪さにクルスは愛想笑いを浮かべた
クルス「ど、どうも…」
途端に慌てる中年の衛兵。目を瞬き、信じられないものを見た顔で話しかけてくる
中年衛兵「あ、アンタしゃべれたのか!?」
クルス「え、ええまあ一応? クルスと言います」
中年衛兵「お、おう。俺はモロゾフ。見ての通りの衛兵だ。よろしくな」
そう言いながらも挙動不審な衛兵のモロゾフ。魔法使いと悪魔と一般人が並んでいるなかで自分だけが注目されている事実に居心地の悪さを感じていると、エマが衝撃の事実をぶっちゃけた。
エマ「大丈夫よモロゾフさん。異世界人って割と貧弱だし大人しいから。」
クルス「うぇあ!?」
当然のように異世界人だと暴露されたクルスがおかしな声を出す。
普通はそのあたり秘密にするもんじゃないのかと心の中で突っ込むが、目で訴えるばかりで言葉にならない。ギギギと首を動かしモロゾフを見れば、彼は苦笑しながら首を掻いていた
モロゾフ「いやそういう意味じゃあ、ねえんだけどな。魔女様、ちょっと驚いただけですよ。もっとバケモノみてえな奴かと思ったら、どこぞの商家の若旦那みてえな風体だったもんで。」
何故かエマには中途半端な丁寧語になるモロゾフ。魔法使いは偉いのだろうか。
異世界人だということが既にバラされていたうえちょっとした問答で簡単に受け入れられてしまったクルスはぼんやりとそう考える。
モロゾフ「まあ、北の魔女様の同行人でしたら問題ねえでしょう。さ、どうぞ。」
そういって掌を返し、街中を示すモロゾフ。エマは軽く頷いて街へと歩き出し、クルスもその後を追った。サダナキアはと言えばモロゾフと挙手で挨拶をし合い、普通についてくる。
クルス「サダさん、止められないんだな…。」
サダナキア「モロゾフ殿はじめ北門の衛兵様方とは顔なじみであるからな。とはいえ滅多に街へは来ることが無い故、エマ殿とセットで覚えられているのかもしれぬが。」
そんなことを話し合うクルスとサダナキアだったが、エマが唐突に立ち止まり、くるりと振り向いた。
エマ「そういえばクルス、おなかすかない?」
クルス「ああ、確かに腹は減ってるなぁ。」
エマ「それじゃあ食事にしましょう。クルスも休めるし、食べながら予定を立てるわよ」
そういってエマは傍らの店へと入る。
蓋の開いたカエル型の鍋と湯気をモチーフにした看板が、そこが飲食店だと雄弁に語っていた。木造の店内には所狭しとテーブルが置かれ、まばらに客が飲み食いしている。肉を煮込んだスープとパンの香りが満ちるなかをウェイトレスが歩き一行へと近付いてくる。10代半ばくらいの栗色の髪をした女性だ。美人ではないものの愛嬌のある顔立ちで、淡いカーキ色のワンピースにエプロンと言ういで立ちがよく似あっていた。
ウェイトレス「いらっしゃい。あれ?魔女様?久しぶり?そっちの男は彼氏?」
クルス「違えよ」
ウェイトレスはぞんざいだった。
しかも他人のプライベートに土足で入り込むタイプだ。
クルスは即座に反論し、そしてギロリと睨まれた。
ウェイトレス「へえ…、貧弱で性格も悪そう。ヒモ?」
クルス「ヒモじゃねえ」
ウェイトレス「ならなんで財布ないのさ?」
クルス「ぐっ!!」
思わず腰を押さえるクルスと勝ち誇ったようにニタニタと笑うウェイトレス。財布が無いなら食事代は誰が出すのだとその目が雄弁に物語っていた。そんな二人をみてエマはあきれたように声をかける。
エマ「あのね、私達は食事に来たんだけど」
ウェイトレス「あ、ごめん魔女様。ランチ3人前でいいよね?水ついて銅貨6枚だよ?前払い。3人で、ええと…」
クルス「銅貨18枚だな」
ウェイトレス「え?なにごまかそうとしてんのさヒモ男。20枚だよ?」
嘲りを込めた口調と目線でそう言い放つウェイトレス。クルスは絶句した。
クルス「お前…計算できないのか?」
ウェイトレス「できるよ?」
クルス「じゃあ20を3で割ってみろよ。」
ウェイトレス「チップ込みの値段だよ?」
クルスの目をじっと見ながらノータイムで言い訳を続けるウェイトレス。幾度となく繰り返してきた熟練の技だ。そんな二人をみてサダナキアは天を仰ぎ、エマは財布を開いた。
エマ「…銅貨の持ち合わせがないから割り銀貨でお願い。お釣りも頂戴ね。」
ウェイトレス「はーい。さすが魔女様だね?ヒモ男とは大違い!」
割り銀貨を受け取るとフンッと鼻を上げ、厨房に消えるウェイトレス。その後ろ姿を見送った後、クルスはぼそりと呟く。
クルス「悪いな、エマ。助かった。」
エマ「気にしないで。私もああいう子、嫌いだから。」
そしてテーブルに就く3人。
クルスは何事かを考え、サダナキアはそれを眺め、エマはただじっと座っていた。
サダナキア「無言で居てもつまらぬな。クルス殿、なにか聞きたいことがあるのでは?」
沈黙に耐えかねたのか、サダナキアが努めて軽い口調でクルスに話を振る。クルスもそれに気付くと、どこかほっとした様子で頷いた。
クルス「ああ、なんかカルチャーショック受けたわ。こっちの世界だと計算できないのが普通なんだな。それで…」
エマ「違うわクルス。あの子は学ぼうとしていないだけ。足し算引き算くらいならここの店主もできるもの。学ぶ気があれば、彼から学べばいいの。」
クルス「…そうなのか?」
エマ「ええ。釣銭の額を見れば、たぶん分かる」
そう言ったきり、エマは口をつぐむ。
クルスとサダナキアは二人して首をかしげ、再びの沈黙が場を支配する。
ほどなく、トレイに料理を乗せたウェイトレスが戻ってきた。
ウェイトレス「お待たせ?はいこれランチと、お釣りね?」
そういって小鍋に入った煮込みと切り分けられたパン、3枚の木皿を配膳し、銅貨を6枚テーブルに置く。それを見たエマが深くため息をついた。
エマ「待って、計算が合わないわ」
その言葉に、厨房へと戻ろうとしたウェイトレスがびくりと足を止める。エマは構わず言葉を続けた。
エマ「割り銀貨は銅貨25枚相当。お釣りは銅貨6枚。クルスの言っていた銅貨18枚でも、あなたが言っていた銅貨20枚でも計算が合わなくなる。どういうことかしら。」
ただ淡々と、そう指摘する。そしてそのままパンを取り分け、煮込みにつけて口へと運んだ。
どうやら自分はこの魔女の機嫌を損ねたらしい。そう思ったウェイトレスは青ざめ、カタカタと震えだす。魔女に逆らったなら行く末は廃人か生贄だと聞いている。ニヤニヤと笑いながらこっちを見てるあの山羊頭はきっと悪魔だろう。つまらなそうな顔でパンを引っ掻いてるヒモ男はきっと彼氏以上の何かだったんだ。煽るんじゃなかった。助けて神様。
唐突に、野太い声が響く
??「これはこれは北の魔女様。ご機嫌麗しゅう。この不出来な娘がなにか不躾を致しましたでしょうか?」
いつの間やら体格のよい料理人らしき男がテーブルまで近付き、揉み手をしながらエマに話しかけていた。ウェイトレスはそれに気付き、ぼろぼろと泣き出しながら半歩下がる。対してエマはつまらなそうに、パンを千切りながら答えた。
エマ「パンも柔らかいし煮込みも美味しいわ。お肉がたくさん入ってるのね」
料理人「え、ええ。ありがとうございま、す?」
ぺこぺこと頭を下げ、冷汗をかく料理人。エマはそれをちらりと見て、ぼそりと言葉を発した。
エマ「ただ私の連れをヒモと呼んで、釣銭を1枚ポケットに入れただけよ。」
ざあっと、血の気が引く音が聞こえた気がした。
料理人は信じられないといった顔でウェイトレスを眺め、次いで睨み、怒りの形相でその手を振り上げる。
クルス「ちょ!」
その瞬間、クルスが咄嗟に席を立った。
ちょうどそこは料理人とウェイトレスの中間。さほど距離もないためウェイトレスを押しのけ、料理人の前に立ちはだかる格好になる。料理人の腕を押さえようとしたクルスの手は空振り、料理人の拳骨がクルスの頬を直撃する。その勢いにクルスの体は反転し、顔面を下にしてべしゃりと床に打ち付けられた。意識を飛ばされた者特有の、ある意味芸術的な倒れ方だ。
「…………………………………………。」
誰も彼もが呆気にとられ、沈黙が場を支配する。
料理人は腕を振りぬいたまま硬直し、ウェイトレスは泣くのを忘れ去り、エマは中腰になって目を見開き、サダナキアは「オゥ…」と小声で呟いた。そんななかクルスはのろのろと起き上がり、無言で席へと座りなおす。そのままパンを手に取り、うつむきながら齧り始めた
エマ「ブフッ!」
沈黙に耐えかねたのか、唐突にエマが噴き出した。
何故かそのまま手で口を押さえ、身をよじるように笑いだす。つられて料理人が、そしてウェイトレスが乾いた笑いをたてだした。サダナキアはといえばずっとニヤニヤしている。そのおかしな空間のなか、クルスが宣言する。
クルス「何も問題は起きてない。いいね?」
その言葉を受け、カクカクと頷く料理人とウェイトレス。エマはまだ笑っている。サダナキアは相変わらずニヤニヤしている。クルスは追い打ちをかけるように要求を出した。
クルス「水…来てないんで…」
その言葉にハッとする料理人とウェイトレス。二人は慌てて厨房へと引っ込む。
エマはクスクスと笑いながらルーンを書き、クルスの頬へと張り付ける。殴られた跡がすっきりと消え、首や肩の違和感もなくなった。
エマ「ごめんね? クルス、ありがとう。」
クルス「…人付き合いが苦手なんだな。俺もエマも。」
サダナキア「人の心の動きとは、愉しいものであるな。」
三者三様にそう言い合いながら、冷めかけた食事をつつく。
ウェイトレスが水差しとコップを運びしきりと謝るが、エマは愛想笑いを浮かべながらそれを許した。
エマ「さあて、店じゃ相談できなかったけど、次の場所は決めたわ。中央区に行って市役所の森林管理局で魔石を買って、そのあと南区のお師様のところに行きましょう。」
食事が終わってこっそり店を離れたあと、往来でエマがそう宣言する。
クルスとサダナキアも頷き、3人は改めて歩き出すのだった。
だいたいの貨幣価値
金貨:10万円くらい
銀貨:1万円くらい
半銀貨:5千円くらい
割り銀貨:2千5百円くらい
銅貨:100円くらい
食べ物は現代と同額くらいですが、砂糖などの超高級品(100gで1万円くらい)や卵などの高級品(1個で100円くらい)があります。肉も結構高めです。日持ちのしない野菜や牛乳などはかなり割安で、パンも行政が管理していて庶民でも毎日買える値段です。
つまりイモと大麦食ってるエマは庶民以下の節約生活。