第001話 召喚と交渉
異世界召喚されちゃった一般人の日常ライフ はじめます。
3話まで導入。7話くらいまで半裸のままというのんびり作風ですが、気長にお付き合いください。
家族連れもまばらになり、空席が目立ち始めた午後九時のファミリーレストラン。
夕方シフトの店員がそそくさとフロアを辞し、バックヤードに消えようとするなか……
??「……てるんじゃないわよ!」
その叫びと同時に、鞭打つかのようなパンっという音が店内に鳴り響いた。
平手打ちだった。
修羅場だった。
日も落ちて少し経った食事時に来店した二人の男女は、ときに笑い、ときにからかい合いながらおよそ二時間。おそらくは些細な掛け違いから会話は徐々に深刻さを増してゆき、いま破局を迎えようとしていた。
男は呆然とし、女は勢いのままに席を立つ。
テーブルから持ち去った伝票とともに紙幣をレジカウンターに叩きつけ、女は店を出て行った。
取り残された男は来栖正臣。29歳。フリーター。
いましがた学生以来の恋人にフラれ、みっともなく店内に取り残されることになった来栖の目は死んでいた。
来栖「恵美……。」
かろうじてそれだけ、言葉を絞り出す。
ダメージは深刻だ。叩かれた左の頬はビリビリと痺れ、耳の奥は何やら詰まったような感触を伝えてくる。それになにより、心が痛かった。
血の味がしないということは口の中は切っていないみたいだ、などと無意味なことを考えつつ、来栖は恵美が去っていったレストランの入り口をぼんやりと眺める。
そのとき、世界から色が失われた。
まるで漫画のような風景。線と余白だけで著わされた現実が目に映り込み、来栖は自嘲する。
来栖(ショック過ぎて現実感ねえよ……。メンタル弱過ぎだな俺……。)
しかし次の瞬間、来栖はそれに気付いた。
来栖(いや違う!?)
手の色は残ったままだ。しかしシャツは違う。風景と同様に線と余白に変わり、あまつさえその端々から溶けて消えようとしている。
来栖「なんだ!? これ?」
慌てて周囲を見回すと、人も無く、音もなく、ただ溶けていく景色だけがあった。
来栖「ヤバい!……ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいッ!?」
慌てふためき体を手で擦ろうとするも、着ていたはずの服は既に無く全裸になっていた。
来栖(良かった、体は消えてない。)
自分以外は全て消えるという異常事態にも関わらず、体が無事であったことに安堵する来栖。
周囲を見回してみると、既に何もかもが消え去り一面の白が広がっていた。
来栖は辺りを見回した。
まるで自分以外が存在しないかのような空間。
一瞬の空白と静寂が場を支配する。
不意に、来栖の足元から青紫色の光が湧き出した。それはみるみる広がり、複雑な文様を描き出す。
来栖を中心に両腕を広げた程度にまで広がったその紋様は透明な障壁を展開し、円柱状の力場で来栖を包み込んだ。
来栖(何だ…?魔法陣!?)
まるでアニメか特撮だ、などと思う間もなく、魔法陣の外縁から何本もの細く黒い線が伸びる。
それらは数秒で世界を書き出し、そして色を与えていった。
来栖(ここは? …地下?)
見えてきたのは、継ぎ目のない石造りの壁と床。正面に設えられた観音開きのドアとその両脇に灯されたランタン。そしてその前に立つ異様な風体の男女。
来栖(こいつら何者だ?コスプレ?)
パリッとした燕尾服を着こなし、山羊の頭をした男。
そして杖を持ち、魔法使いのようなローブをまとった女。
女は来栖を見ると眉をしかめ、なぜか目を逸らしつつ山羊頭の男を詰問する。
ローブ女「サダさん、どうして外れが来るのよ?」
来栖(日本語……?恵美……?)
来栖を斜めに見ながら山羊頭の男に話しかける女は、なぜか恵美、つい数分前にきついビンタをかまし去っていった恋人と瓜二つだった。
来栖「おい恵美……これ、何だよ……?」
その言葉に男女はハッと来栖を見る。女はすぐ目を逸らしたが、山羊頭の男は平坦な口調でこう告げた。
山羊の男「ああ青年。まずは股間を隠すのであるな。」
来栖「え゛……。」
来栖は、全裸だった。
まごうことなき全裸だった。
反射的に両手で股間を押さえ何か着るものは無いかと周囲を見渡すが、見える場所には服どころか家具調度品すら置かれてはいなかった。ただ単に広いだけの円型をしたホールだ。
ローブ女「で、あんた名前は?」
恵美に似た女が顎をしゃくり、ぞんざいに言い放つ。今はこちらを正視できているということは股間が問題だったらしい。いまさら裸で恥ずかしがる関係ではなかったし、口調も全く違う。そっくりさんでしかないのだろうと来栖は落胆した。
来栖「来栖正臣だ。で、お前の名前は? あとなんか服くれよ。」
ローブ女「質問も要望も許可しない。クルス。あんたは私の使い魔になる。」
来栖「使い魔ぁ!?」
クルスとなにやら西洋的な名前で呼ばれてしまった来栖は思わず眉をしかめる。
そういう方面には詳しくないが、昔やったゲームでは魔法使いのペット的な何かだったはずだ。
どうやらろくでもない事に巻き込まれたらしい。そう思い至った来栖は溜息とともに言葉を発した。
来栖「人間をペットにするとか、何を拗らせたらそうなるんだよ……。」
ローブ女「な……うるさい!!」
冷静さを取り戻し、無表情になった来栖からの口激にあわてふためく恵美似の女。
ランタンだけの明かりでただでさえ薄暗いうえ逆光になっているため良く分からないが、赤面しているような気配すらある。
ローブ女「と、とにかく!クルス、あんたに拒否権はない! その障壁は生物を通さないし、危険なものを持ち込めないよう生身だけ召喚した。私が認めない限りあんたはそこから出られないし、少しは痛い目にあわせることもできる!」
激高し、そうまくしたてると女は指先で中空に文字のようなものを描きだす。指先の岐線を追って白色が置かれ、完成するとバチバチと放電を引き起こした。それを見た来栖の頬が引きつる。
来栖(うわぁ……スタンガンかよ)
来栖「痛そうだな、それ。」
ローブ女「痛いぞ?さあ激痛を経ての服従か、痛みのない服従かを……。」
来栖「喰らっても避けても股間から手は離れるな。」
その言葉に放電が霧散する。そして女は全力で顔を逸らした。
数秒固まったあと、無言で扉を開け、出ていく。
その場に残るのは来栖と、山羊頭の男だけだった。
おもむろに山羊頭の男が口を開く。
言葉にあわせ口がむぐむぐと動くことから作り物ではない事を来栖は察した。
山羊頭の男「…では、クルス殿であったか? 間が持たぬ事であるし、ワガハイ自己紹介させて頂いても宜しいかな?」
来栖「いやその前にこの場所とかなんで呼ばれたとか教えてくれよ。」
山羊頭の男「ワガハイの名はプート・サダナキア。45の悪魔を従え3の精霊を使役する大将軍!の名を語るしがない悪魔である。大いなる名の重圧に耐えかねるので気軽にサダさんと呼んで欲しいのである。」
来栖(無視かよ!そんでもって詐称かよ!さんまで含めて名前かよ!)
サダナキア「我が主、召喚術師エマ・グライアルにこの名を与えられ、等価交換の契約により仕えし者。故に情報には対価が必要なのであるよ。」
そう伝え、山羊頭の男改め悪魔サダナキアは口の端を器用に歪ませた。
目は細められ、特徴的な菱形の瞳孔が広がったのをみるに、どうやら楽しんでいるらしい。
来栖「……。なるほどね。ここの事を知りたければ俺がいた場所のことを話せ、ってことか。」
サダナキア「そういうことである。……おや、誰か来たようであるな。」
気配でも感じているのかと思いきやまさかの足音だった。中途半端に開いた扉からペタペタという音がし、茶色い布を携えた召喚術師エマが部屋に入ってくる。
エマ「ほら、これで隠しなさい。」
そう言いつつ、来栖の足元に布を投げつけてくる。ごわごわした感触がする厚手の布だ。
来栖はエマから視線を外さずにそれを拾い、風呂上がりのバスタオルのように腰へと巻き付けた。
エマ「さて、交渉を再開するわ。さっきも言ったけどその障壁は通れないし、武器もない。使い魔の契約さえ終えれば出してあげるし服も用意するから大人しくそこに跪きなさい。」
布を持ってきたことで落ち着いたのか、やや口調が変わるエマ。そして来栖はこのやりとりに違和感を持ち始めていた。
来栖(“交渉”ね…簡単には使い魔ってのにはできないわけか……。となると言う通りにするのはまずいな……。)
来栖「なあサダさん。生身だけで呼び出されたのは分かったけど、食べた物とかどうなってるんだ? 俺はさっきメシ食ったところで、腹は減ってないんだ。持ち込んでるってことでいいのかな?」
サダナキア「それは対価が必要であるな。」
来栖「ちなみに食ったのはカルボナーラ。パスタに卵と生クリームと焼いたベーコンをぶち込んで、塩コショウで味付けした料理だ。あとサラダもだな。」
サダナキア「クルス殿は理解が早いな。答えは是である。体内にあるものはそれが何であれ生身扱いであるよ。」
サダナキアは深くうなずき、愉悦の表情でそう答える。かたやエマは眉をしかめ、来栖の意図を図りかねるかのように杖を構え直した。
エマ(持久戦、ってこと? さっき食事をしたばかりだから粘れるとでも言うつもり?)
そんなエマの心根を知ってか知らずか、来栖はニヤリと笑みを浮かべた。
来栖「なるほどね。なら俺には武器がある。生物がどうこう言ってたし、この布はこっちに投げられた。つまり生物じゃなければ外にも投げられるってことだ。」
エマ「何ですって!?まさか体内に何か仕込んで……。」
動揺し、僅かに半歩ほど後ずさりするエマ、そして魔法陣の端まで詰め寄る来栖。
来栖「いや違う。俺な、食ったらわりとすぐ出るんだ。」
エマ「……?……!! い、嫌あああああああああ!!」
それが何を意味するかを察したエマは、全速力で逃げ出していた。
後に残されたのは呆然とした来栖と、笑い転げるサダナキアだけだ。
サダナキア「フハハハハ! いやはやこれは愉快である! あのエマ嬢がここまでやり込められるとはな!」
体を折り、腹を抱え、くくくと痙攣する山羊頭の悪魔。
よほど面白かったのか、エマの出て行った扉と来栖の居る魔法陣をかわるがわる見ながら荒い息をつく。傍で見ていた来栖が心配しだすほどに長くそれは続いた。
サダナキア「ハァ、ハァ……。と、ときにクルス殿。ワガハイと契約するつもりはないかな?」
ひとしきり笑ったのち、サダナキアはそう切り出した。
サダナキア「なあに簡単なことであるよ。ワガハイとクルス殿が知恵比べをし、勝った方が優位を得る。そういう契約を結ぼうというだけなのである。エマ嬢が等価であるからして、それをやり込めたクルス殿であれば期待が持てるのではないかな?」
そう嘯き、サダナキアはじっと来栖を見つめる。その瞳には期待と愉悦が混じり合い、得も言われぬ表情を形作っていた。
サダナキアは狡猾な悪魔だった。エマとの契約が等価交換であることを伝えはしたが、知恵比べが彼の完勝だったことはおくびにも出さない。そして知恵比べで完勝しながらも契約が等価であるのはひとえに召喚主に対する不利益行為が禁じられており、サダナキアにとって最良の、そしてエマにとっては最悪の契約であっただけだということも言うことは無い。
サダナキア「勝負の方法は簡単である。一問一答。クルス殿がワガハイに問いを出し、ワガハイが答えられなければクルス殿の勝利。答えられればその度合いに応じ交換比率が変動するのである。ただし答えられぬことが確実である異界の情報を基にした問いは無効であるな。」
つまりほとんどの場合、完勝も完敗もない勝負というわけだ。質問側は答えのうち少しでも不手際を証明すれば完敗はしないし、回答側は少しでも掠れば同様に完敗しないのだから。そして多様な解釈のできる言葉を重ね、完全に否定されないような答えを返すのは悪魔たちの得意とするところではあった。
サダナキア(それに…異界の知識は貴重である。クルス殿がこの世で暮らすすべを得るのと引き換えにそれらを得られれば、レートが悪くとも大いに力となるのである。要は完敗さえしなければいいのである。)
そう目論み、サダナキアは来栖の答えを待った。クルスは指先で鼻をこすり、少し考えるそぶりをみせたものの鷹揚に頷いた。
来栖「俺の知識なんて大したもんじゃないけど…、情報交換できるのはいいよな。よし、やろうぜ。」
サダナキア「ではクルス殿、問を出すのである。ワガハイは誠心誠意それに答える故、ジャッジも頼むのである。」
満面の笑み、という表情が山羊の頭でできるはずもないが、サダナキアは上機嫌でそう告げた。勝敗を相手に委ねるかのような発言も計算づく。その答えを心の内で認められるか否かが問題であって言い逃れが意味を為さないことを彼はよく知っていた。
来栖「んーどうするかな…。」
中空に視線を彷徨わせ、まるで友人にクイズでも出すかのような気軽さで来栖は考えを巡らせる。それを余裕ととったのか、サダナキアは気を引き締めた。軽く息を吸い、細く吐く。菱形の瞳孔がスッと細まった。
来栖(俺の顔に平手打ちの跡がある理由とか聞いてみるか?いやでも誰かにひっぱたかれたからとか普通に答えられるし、誰が引っぱたいたか聞いても恵美って言ってるしな…。あ、そうだ)
唐突に、子供のころの疑問が思い出される。あまりにも下らないことで今まで誰にも聞いたことは無かったが、理由が分かれば多少スッキリする。
来栖「あのさ、鼻クソって鼻の中にあるとき匂わないけど、取り出すと臭いのなんで?」
サダナキア「なっ!? 知るかそんなもん!!!」
目を見張り、泡を吹き、全力で叫ぶ悪魔サダナキア。
それは完全敗北の瞬間であった。
愚者の問いはときに賢者を打ち伏せる
それは知らぬが故の智であり根源への問いである