報酬としての断罪
当作品は夕凪もぐら様主催 2017年 忘新年会企画【帰り道を探して】参加作品です。
2015.1.9 17:27
その空間にはいつも、悲喜交交の喧噪が満ちていた。
オフィス街の中心部にあって、一際目を引く高層ビル。その上層階を占有する中堅投資銀行のディーリングルーム。
フロア一面に所狭しとデスクが並び、夥しい数の液晶ディスプレイ、電話機と取引専用の端末が配された空間を、様々な肌の色のディーラー達が慌ただしく動き回る。
窓外に目を向ければ、宵闇に輝き始めた街並み。だが、そんな眺めに価値を見出す人間など、ここには存在しない。
オレの正面、そして左右に一枚ずつ設置された液晶ディスプレイ。
それがさらに縦にもう一段並んで、合計六枚の画面には日経平均株価、世界の株式市場の各種指数に加えて、主要通貨レートのチャートを表示させている。
直近の二十時間、こいつらだけがオレの世界の全てだった。
不規則に明滅を繰り返す数値、一定間隔で描かれていくロウソク足。それらから探し求める数値を拾って、手元のメモに殴り書きしていく。
「……ちっ、インク切れか。肝心な時に役に立たないな、ドイツは」
ここ数ヶ月、愛用してきたボールペン。
漆黒の太軸に銀の縁取りがアクセントを与え、その天冠には星型のシンボル。アルプス最高峰モンブランの頂を飾る白雪を意匠化したそれは、世界屈指の高級筆記具メーカーのアイコニックなシンボル。
「ドイツ起源に違いはありませんが、そのメーカーはいまやスイスのリシュモングループ傘下ですよ」
後方に視線をチラリと走らせると、今年、アナリストに昇格したばかりの黒木が資料の束を手に立っていた。
その相貌には疲労の色が濃い。だが、与えられたタスクを期限内に仕上げる、それだけがアナリストの価値だ。
「またお得意の蘊蓄か。一円の金も生まない知識なんてクソ程の価値もないんだよ、黒木。お前もMBAホルダーならカネになる情報を持って来い」
そう毒づきながら、左手を振り下ろす。
足下のゴミ箱に叩き込んだボールペンが堅い音を奏で、周囲の連中が反射的に視線を向ける。だが、それも僅かな時間のこと。彼らにも他人に注意を割く余裕なんてない。
睡眠不足で腫れぼったい瞼の隙間からゴミ箱を一瞥した黒木が、平坦なトーンで呟く。
「……あと、私からの誕生日プレゼントでしたね、それ。市場のお相手に忙殺されて、すっかりお忘れみたいですけど」
「筆記具をプレゼントするって行為にはな、『これを使ってせいぜい勉強しろ』って意味があるんだよ。目上の人間に贈る物じゃない。覚えとけ」
立ち尽くす黒木の手から資料を引ったくって、ざっと目を通す。
ここ数年、オレが注目してきた通貨、スイスフラン。
欧州各地の戦場に傭兵を派遣して荒稼ぎした外貨で、金融立国を果たした永世中立国スイスの通貨。
世界での流通量は米ドル、ユーロ、日本円、英国ポンド、オーストラリアドルに次いで六位。ややマイナーな通貨ではあるが、日本円と並んで安全資産という位置付けで好景気時には売られる一方、有事の際には資金の逃避先として買われる傾向がある。
このスイスフランの米ドル、ユーロ、日本円クロスでの換算レート、直近数日から数年間の値動きをロウソク足で記録したそれらに黒木自身の手による几帳面な補助線が無数に引かれ、随所にコメントが付されていた。
「時間が惜しい。結論だけ聞かせろ」
「スイス中央銀行が2011年9月に設定したユーロ/スイスフランの1.2000という下限ライン、彼らはこれを無制限介入によって維持してきました。金融立国スイスの中央銀行として、今後もこのラインを防衛するという方針は覆らないと考えます」
「その根拠は?」
黒木がオレのデスクに身を乗り出して、熱の籠もった説明を始める。
乱れた髪が鼻先をくすぐり、汗から若さが匂う。シャツの裾がはみ出して真っ白な背中が覗いているが、それに気付く気配すらない。
この業界に関わる人間は、必ずどこかに歪みを抱えずにはいられない。それはディーラーとして強みであると同時に、通常の社会生活を営むにあたっては足枷となるケースが多い。
まぁ、オレも他人のことを言えた義理ではないけれどな。
自嘲の念から鼻を鳴らすと、黒木が振り返った。その眼差しを過ぎった不安の色を、あえて黙殺する。
「お前の言うことにも、一理ある」
「じゃあ……」
「だがな。ノー・リスク、ノー・ライフだよ、黒木。リスクという名のスパイスなしにこのクソ退屈な人生を歩いていくなんて、オレには耐えられない」
「しかし、数日前にもスイス中央銀行のダンディーヌ副総裁が『ユーロ/スイスフランの1.2000というラインは、今後も主要な金融政策の基礎的手段である』との認識を示したばかりです。これにあえて逆行するポジションメイクは、命取りになりかねません」
「そのライン、割り込むのは時間の問題だとオレは見ている。買いオーダーが入ったら潰せ。徹底的に売り浴びせろ」
まだ何か言いたげな黒木にそう告げて、その身体をデスクから押しのける。
液晶ディスプレイに視線を戻した瞬間、携帯電話が震えた。表示された発信者を一瞥して無視するが、コールはいつまでも途切れない。
強く舌打ちしながら、通話ボタンを押した。
「どうした」
沈黙からは苛立ちよりも諦めが強く伝わってきて、オレの神経を逆撫でする。さらに無為な数秒を経てようやく、微かな声が耳に届いた。
「……あの子の誕生日よ、今日は」
デスク上のカレンダーに視線を向けるが、その日のスケジュールは仕事関係のみ。備忘を残すことすら失念していた。
カレンダーの横には、今年の初詣に撮ったばかりの家族写真。夫婦としては微妙な距離を置いて並ぶオレと妻、そしてその間で両親の手を握って無邪気に笑う、三歳の娘。
この写真も、家族思いだから飾っている訳じゃない。ただ、所属する外資系組織の文化に倣っただけ。
「ねぇ、聞いてるの?」
オレの沈黙を勘違いした妻の声に焦燥が滲む。
「……駅前のホテルにいま滞在してる。最上階のレストランフロアにマシなフレンチがあるから、あの子を連れて行ってやってくれ。部屋も取ると良い。出来るだけ良い部屋を。明朝になるだろうが、オレも向かう」
「料理なら、あの子の好物を私が作ったから要らないわ」
「それなら、オモチャ屋にでも連れて行ってやれ。好きな物を買って……」
「そういうことじゃないのよ!」
携帯電話のスピーカーが「ドン」というくぐもった音を伝える。壁か何かを叩いたのだろう。さらに幾度かの殴打音に、啜り泣きが続く。
深く溜息を洩らすオレの肩に、誰かが触れた。視線を向けると、隣席のインド人ディーラーがオレの後方を顎で示している。そこには追い払ったはずの黒木が戻ってきていた。
「お電話中、失礼します。ロンドン本社から、テレビ会議の緊急召集が掛かりました。市場で奇妙な動きがあるそうです」
視線で了解の意を伝えながら、携帯電話に言葉を送り込む。
「とにかく、今日はそれどころじゃないんだ」
「去年のクリスマスもそう言って帰ってこなかったじゃないの……!」
通話を終えた携帯電話をデスクに叩きつけて、会議室へ向かう。欧州通貨に関わっているディーラー達が、オレと同じ様に席を立つのが見えた。
翌週15日の夕刻、『スイス中央銀行はユーロ/スイスフラン1.2000の防衛ラインを撤廃する』という驚愕のヘッドラインが飛び込んだ。
渦中のスイスフランは僅か数十分の間に40%強という主要通貨として過去に例を見ない上昇幅を示し、日経平均株価、ニューヨークダウを始め各国の株価指数も大幅な下落を示す。
金融市場を怨嗟の阿鼻叫喚で満たしたこの暴挙は「スイスフランショック」として為替市場の歴史に刻まれる一方、リアルタイムで相場に立ち会っていたディーラー達の間で「永世中立国による金融テロ」と揶揄されることになる……
――――――
2015.1.16 5:43
地下駐車場でオーナーを待つ高級外車の群れ。
愛車のシートに身を委ねた瞬間、激しい頭痛に見舞われて、頭蓋から意識が零れ落ちそうになる。
革巻きのステアリングに額を押し付けて地下空間の無音を貪っていると、沸々と笑いが込み上げてきた。横隔膜が引き攣れて、気道からむせび泣きの様な情けない音が漏れる。
堪らずにネクタイを緩めて喉元を寛げると、逃げ道を得た感情の奔流は時を置かず哄笑となった。
3年強に渡る無制限介入という、中央銀行にだけ許された禁じ手で死守してきた防衛ライン。これをスイスが呆気なく放棄したのが昨日の夕刻。
その瞬間、オレが去年から積み上げてきたユーロ/スイスフランの空売りポジションは、吐き気を催す程の含み益を孕むことになった。
あれから半日、オレは執拗に取引を繰り返した。
まず、根幹となるポジションを除いて、全ての空売り分を反対売買で決済。これだけでも、周囲の席から称賛と妬み交じりの拍手が上がった。
やがて、急激過ぎる変動に自律反発を示す相場。レートの小刻みな上下動を捉えて、ダメ押しの取引を繰り返す。
ディーラーには数年に一度、何をどうやっても勝ってしまう日があると言うが、この日のオレがまさにそうだった。それしか芸のない猿回しの猿みたいに、血走った目で瞬きをする間も惜しみながら。
端末のキーボードを壊れんばかりに叩くたびに、百万円単位の利鞘が上積みされていく。
ふと周囲を見渡すと、荒い値動きを嫌って大半のディーラーが相場を離れ、フロアは閑散としていた。
そろそろ、潮時ということか。そう言えば年始以来、自宅には帰っていない。
滞在先はディーリングルームから僅か数百メートルのホテル。ベッドメイクされたシーツの硬く冷えた感触が思い出されて、いてもたってもいられなくなった。
赤いイグニションボタンを押し込んでエンジンに火を入れた瞬間、助手席のドアが開いて見覚えのあるストライプスーツの痩身が滑り込んできた。
「……何のつもりだ、黒木」
「貴方の為に、ほぼ三日徹夜しました。もう限界です」
レザーシートで拗ねた肉食動物みたいに前方を睨む横顔。目下の黒い滲みがチークにまで届きそうだ。
「オレも最後にいつ寝たのか、覚えていない。お前を自宅まで送る気力も残ってないし、正気を保てる自信もない」
「わかってます。でも、さっきみたいな相場を経験したら、私も正気ではいられません」
「……勝手にしろ」
残された気力を振り絞ってクラッチを繋ぐと、荒い手捌きでステアリングを切る。地下駐車場の景色が真横に流れて、虚ろな空間にスポーツタイヤが甲高く鳴いた。
――――――
2017.12.22 17:24
「ねぇ、パパ。『イクメン』ってなに?」
「ん? 急にどうした?」
「保育園の先生が言ってたんだよ、パパはイクメンだねって」
「そうか。イクメンっていうのはな……」
言葉を探して説明しながら、娘の小さな手を二回、軽く握る。娘も嬉しそうに、きゅっきゅっと握り返してくる。
「手が温かいな。眠いのか?」
「ん、お昼寝の時間にね、寝てないの!」
「それは自慢することじゃないよ。ご飯とお風呂をサッと済ませて、今夜は早く寝よう」
「でも、トランプしたい!」
「わかった。じゃ、寝る用意が早く出来たら、トランプで少し遊ぼうか」
妻の遺体と最初に対面したのはオレではなく、義父だった。
愛娘の冷たくなった手を握る事態を想像しただけで、いまのオレは吐き気がする程に胸が痛むというのに。
あの数日のことは記憶が錯乱していて、いまでも上手く思い出せない。
不意に、スーツのポケットで携帯電話が鳴動する。ディスプレイに表示されているのは、見覚えのない番号。
メロディに合わせて歌い始めようとする娘を制しながら、通話ボタンを押した。
「ご無沙汰しております。黒木です」
反射的に呑み込んだ冷気が、喉に苦味をもたらす。
言葉に詰まったオレの沈黙を勘違いしたのか、かつての後輩が遠慮気味に補足する。
「あの、黒木 恭子です、投資銀行時代にお世話になった」
「あぁ、わかってる。久し振りだな」
「はい、本当に……」
沈黙の背景に、ピアノの音色。バッハのゴールドベルク変奏曲。彼女はいま何処にいるのだろう、と考え始めた自分に気付いて、狼狽する。
「今日お電話したのは、少し相談したい件があって」
「……相談?」
「いま、とある老舗旅館の事業再生案件に関わっています。親族経営で損益計算書は赤字続き、御曹司社長の道楽で固定資産には本業に関係のないゴルフ場や競走馬が並んでいます」
「話が見えないんだが」
「この旅館に一口二千万円、数十人の出資者を募ります。現経営陣を刷新して、固定資産をキャッシュ化。負債を圧縮しつつ、コンサル部門が策定した中期計画に従い黒字化の軌道に乗せて売り抜けるストーリーです」
思わず、破顔した。オレが退職に至った経緯を、彼女は知らない。自分でもよくわからない感情が笑いとなって漏れる。
こちらを不思議そうに見上げる娘と目が合って、片手を挙げて大丈夫だと伝える。
「先輩のクライアントでこういったケースに興味を持ちそうな方がいたら、何人かピックアップしてもらえませんか。あ、もちろん先輩ご自身でも結構ですし、場合によっては現場で指揮に当たってもらっても」
「……驚いたな、黒木」
もちろん、彼女は本気なんだろう。だが、オレの後を引き継いだ彼女にとって、こんな小さな案件が本業な訳がない。クライアントとの折衝中に零れ落ちた些事、といったところか。
いや、違う。そもそも、そんなことより……
繋いだ手が、不意にグッと引かれる。
気が付くと、いつもの古寺に差し掛かっていた。ここの境内で綺麗な落ち葉を探すのが、娘との日課になっている。
手をそっと離して、こちらを期待して見上げる双眸に首肯を返す。黄色いジャンパー姿が、嬌声と共に駆け出した。
足元に投げ出された保育園の通園バッグと帽子。苦笑しながらそれらに手を伸ばして、携帯電話に意識を戻す。
「先輩?」
「あぁ、失礼。だがな、オレの今のクライアントは中小企業の経営者ばかりだよ。目先の資金繰りに頭を悩ませている人達から、そんな金額がポンと出てくる訳がない」
「本当だったんですね。先輩が小さなコンサルティングファームに転職したって話」
「不満そうだな」
「ノー・リスク、ノー・ライフ、じゃなかったんですか」
「黒木、オレはもう、死人だよ」
その後、自分でも何を話して通話を終えたのか、よく覚えていない。あれ以来、あらゆる記憶が曖昧なまま、過去へと呑み込まれていく気がする。
夕闇が満たす境内に足を踏み入れた。
参道を逸れた先にある広場。その真ん中で娘が立ち尽くしている。
微かに鼓動が跳ねた。長く伸びたその影の先に、成長した彼女の姿を見た気がして。あの日、娘を引き取ることに固執した自分の心理すら、もはや定かではないと言うのに。
ただ、義理の両親は、忘れ形見であるこの子をオレに託す代償に、二つの条件を提示した。
まず、投資銀行業務から身を引いて、シングルファーザーとして娘を育てられる態勢を整えること。
そして、娘が大きくなったら。育児ノイローゼに苦しんでいた妻が自ら命を絶ったこと、当時のオレの行いについて包み隠さず伝えること。
「どうした?」
「パパ、葉っぱがないよ……」
箒の跡が残る広場の真ん中、掃き集められた落葉が黒い堆積となっている。歩み寄るにつれて、焦げた匂いが鼻孔に香ばしい。
「住職さんが、お掃除して燃やしたんだね」
「なんで、そんなことするの?」
「ここに来る人が気持ち良く過ごせる様に、かな」
「えー 葉っぱー」
「週末、綺麗な落ち葉を探しに公園行こうか」
「うん、行く!」
小さな顔を喜色で輝かせる娘の手を取り、裏参道から帰路を辿る。
この小さな手は、オレが求める物をいつか与えてくれるのだろうか。万が一、それが与えられなかった時、オレはどうすれば良いのか。
見上げた冬空に伸びる、飛行機雲の群れ。
幾重にも錯綜するその行方は、夕焼けの諧調に滲んで何処までも虚ろだった。
(了)