第八話 ガンベルツの街へ
朝の澄んだ空気は、その日一日の活力を生む。
ロルフは少しでもその恩恵を得ようと、思い切り深呼吸をした。もう少し時間がたてば、街道にも人が行き交い、砂ぼこりや動物などの匂いで深呼吸をするのを躊躇われてしまうようになる。
その雑踏が嫌いなわけではないが、やはり朝の空気は気持ちがいい。
ロルフの横には、寝ぼけ眼で歩いているシスがいた。
昨夜、もう少しアルマに話を聞いてみようと思ったが、その日は宿を取っているわけではないようだった。
宿の主人によると、たまにガンベルツの街からひょっこりと現れ、他の行商人と情報を交換しているらしい。
宿も取らずに冷やかしにきていると、最初は良く思わなかった宿の主人だが、葡萄酒を差し入れてくれるということで今は黙認しているそうだ。
その夜は、あまり寝付けなかった。
粗末なベッドだったから、と言うわけではなくアルマの言葉が体を支配し、眠気を吹き飛ばしていた。
次第に空は白み始め、いても経ってもいられなくなり、ぐずるシスをたたき起し早めの出発をした。
「ほれ、最後の干し肉」
シスは寝ぼけ眼のまま、差し出した干し肉をパクリと咥え頬張っている。
こりゃ餌付けだな。
アルマから譲ってもらうはずだった保存食ももらい忘れたので、言葉の真偽がどうであれ街に行かざるを得なくなった。
路銀もそれなりにある。街に入れば食料も確保できるだろう。
朝の空気を楽しみながら歩いていると、街道には馬を連れた行商人や旅人を目にするようになってきた。
いよいよガンベルツの街が近いのかもしれない。ロルフたちが歩いている道はなだらかな坂になっており、その頂上には旅人が何人か休んでいるのが見える。
「あれがガンベルツの街だぞ」
頂上へ登ると、ガンベルツの街が一望できる。
ロルフの後ろを歩いていたシスは、ガンベルツの街を見ると、不安そうな顔を見せた。
「私街に入っていいのか? 魔術師だってばれない?」
「大丈夫だ。ただ、しっかりと外套をかぶって皮膚は出さないように気をつけろよ」
シスは小さくうなずいた。
ガンベルツの街はスワニー帝国から流れてくる川のほとりにある市壁に囲まれた街だ。
大陸の北にある海から続く、海水と淡水が混じり合った川は、狼や狐などの毛皮を服にして数万人分も運ぶ船が行き来することができる。
その川は街の南を通り、内陸まで続いている。
内陸に塩などを運ぶ街道や、水路もあり街の敷地はそれほどではないが、このあたり一帯の貿易の要だ。
物が集まれば、人も集まる。
元奴隷の身としては危険も多いが、避けて通るには魅力的すぎる街だ。シスにも美味い物を食わせてやれるかもしれない。
不安そうな顔をしていたシスも、街が近づくにつれ表情は明るくなっていく。
「なあ、ロルフ。すごいな。おいしい物たくさんあるか?」
「ああ、あれだけ街だ。美味い酒に、珍しい食べ物。なんだか俺も楽しみになってきたぞ」
感動を共有する相手がいる。それがたまらなく嬉しい。
アルマが何を考えているのか分からない不安はあるが、今はこの時間を楽しみたい。
「ロルフ! 何してるんだ。早く行くぞ!」
ロルフは坂を転がり落ちるように、走っていくシスの後を追いかけた。
街の入り口まで辿り着くと、さすがに人も多くなってきた。
煉瓦や石を積み上げた市壁は、街をグルリと囲んでいる。元々、戦争で拠点として使われていたこともあり、強固な作りとなっている。
入口の上には、鉄柵があり戦争中にはこれが下ろされていたのだろう。もう二度と下ろされることが無いよう願いたい。
その鉄柵がある入り口からは、街から出る人間と入る人間でごった返している。特別、入場審査が厳しいというわけでは無さそうだったが、これがガンベルツの街の情勢を物語っている。
ここまでのにぎわいがある街に入るのは、初めての経験だ。奴隷になる前、住んでいた国に旅芸人の一座が来た時に感じた興奮と同じだった。
「通行証だ。落とすなよ」
通行証を渡すときに、軽く触れたシスの手は汗ばんでいた。シスも同じ気持ちなのだろう。
少しずつ入場待ちの列は進んでいき、ロルフたちの番になった。皮の胸当てを付けた門兵は、通行証を見ると、「何用で?」と短く訪ねてきた。
ロルフが「巡礼です」と答えると、門兵はシスをちらりと見やり、「どうぞ」と答え、通してくれた。
あまりの簡素な対応に拍子抜けする。これが戦争中なら、外套の中まで入念に調べられることだろう。
とにかく安心した。
市壁の中を歩き、ついに街の中へ入る。
陽の光が目一杯に広場の人たちを照らしている。
石畳の舗装された地面。広場の中央には、不老不死の象徴である人魚を模した石像が設置されている。その周りで、さまざまな国の人間が忙しく歩き回っている。
髪の色も、肌の色も千差万別だ。でっぷりと肥えた中年の男が上等な服を着て歩いているかと思えば、街商人が忙しそうに荷馬車を引いている。
まだ、十歳にも満たない少年が、中年の街商人に頭を小突かれている風景の後ろでは、女性たちが談笑している。
まだ昼には早い時間ながらも、食べ物の屋台も軒を連ねている。肉を焼くにおい。塩や香辛料のにおいも風に乗ってくる。ライ麦、大麦、燕麦、はたまた高級品である小麦のパンを置いてある店まである。果物や野菜なども豊富にあり、如何にガンベルツが発展した街であるかを物語っているようだ。
戦争など無かったかのように、すさまじい活気に満ちている。
ロルフの隣にいるシスは突っ立ったままこの雑沓を眺めていた。
ロルフも一人ならこの雰囲気に飲まれていたかもしれない。ロルフは一つ深呼吸をした。シスを不安がらせてはいけない。
「シス、もう少し中央の方に行ってみよう。ここにいたら馬車に引かれかねないからな」
そう言い、シスの手を引っ張っていこうとする。
「それ私の手じゃない」
「え?」
つないでいる手を見ると、シスと同じくらいの背丈の女の子の手を握っていた。
すぐに母親らしき女性が走ってきて、女の子をロルフの手からひったくる。訝しげな眼をこちらへ向けさっさと向こう側へ歩いていった。
「ばーか。初めての街に来て、緊張してるのは分かるけど、もう少し落ち着け」
まさか、シスに諭されるとは……。ロルフは一度深呼吸をして、
「よ、よし。取りあえず腹ごしらえだ。屋台でルイーゼ商会の場所も聞いてみよう……あれっ? シス?」
シスはすでに海産物の焼き物がある屋台へ直行していた。
「ロルフ! これが食べたい!」
シスが遠くの屋台から大声で呼んできた。ぴょこぴょことうさぎのように跳ね、乳白色の髪が日の光で輝いている。
ロルフの腹もぐうぅ、と鳴った。