第七話 誘惑の言葉
後、ふた月も経てば雪の季節になり、このあたりの芝は一面銀に染まる。
しかし、まだ収穫の季節が終わったばかりだ。雪の精も、もう少しは収穫を祝っていたいのだと思う。
たき火が辺りの闇を明るく照らし、目の前の羊肉のスープがロルフたちの心と体を温めてくれる。
ロルフたちは木賃宿の外で、火をおこしアルマの作った羊肉のスープに舌鼓を打っていた。
鍋に入れた水に羊の骨とショウガと塩を入れた簡単なものだったが、羊肉を入れて煮込むと、魅惑の香りが立ち昇った。
外で調理したのは、木賃宿の中ではその魅惑の匂いで客がわらわらと集まってきてしまうからだ。それほどまでに美味そうな匂いをシスが我慢できるわけもなく、顔をくしゃくしゃにほころばせロルフだけに聞こえる声で「早く、早く」とせかしていた。
保存食をアルマから分けてもらえるということで、ロルフもスープの食材として干し肉と、かたいライ麦のパンをスープに入れた。
アルマが提供する食材は羊肉だけということだったが、いつの間にか葡萄酒もふるまってくれることになり、ちょっとした宴会のようになった。
腹もある程度満たされ、葡萄酒をちびちびと口に含む。酒が入れば心のタガが外れる。心のタガが外れれば初対面の相手でも心を許す。
ロルフは酒の力でいい気分になりながらも、取り返しのつかないことを口走らないよう気はしっかりと持つ。
「国を追われて……ね。まあ、戦争が終わっても不幸な人間は減らないな」
「別に俺は自分を不幸とは思ってないよ。まあ、この八年旅をしてきて、それなりに珍しいところも見られたしな」
「良い女も見つけられたなら、よかったじゃねぇか」
と、いいながらアルマはちらりとシスを見やる。
「だから違うって言ってるじゃないか。保護してるだけだよ」
アルマはロルフの言うことなど、耳に入っていないかのように話を続けた。かなり酔っているようだ。
シスはというと鍋に残ったスープを木の器に取り、葡萄酒の代わりにちびちびと飲んでいた。話に加わることはないが、アルマにもほんの少しは気を許したのかロルフのそばを離れている。
アルマは喉の奥を、クックッと鳴らしながらロルフを妖艶な目で見た。
「そんな奇特な奴がいるとはね。本当かどうか怪しいもんだな。なあ、おい、シスっていたか? お前も気をつけろよ。いつ襲われるか分かんないからな」
シスはアルマをちらりと見て、ロルフを指さした。
「ロルフに裸見られた」
アルマは「おっ!」と妙に楽しそうな声を出し、いたずらっ子の目になりロルフを見た。
「もう手ぇ出してんじゃねーか。やっぱりお前そういう趣味だったのか!」
アルマはロルフの肩を何度も叩いてくる。その衝撃で外套のフードがずれてしまったので、あわててかぶり直した。
「違うって! おい、シス。なんとか言ってくれ。こいつ酔っ払って収拾つかない!」
シスはすぐにロルフから目をそらし、食材の旨味が出たスープをすすっている。
アルマを放っておくと、あることないこと言われてしまいルフは話題を変えることにした。
「そ、そういやアルマは行商人だって言ってたよな? 街に留まっているのは美味い商売でも見つけたのか?」
質問を投げかけると、豪快に笑っていたアルマは、葡萄酒の入っているジョッキに目を落とし一口、喉に流し込んだ。その顔に笑顔はない。
「元々私は行商をしていたわけじゃないんだ。十歳の頃、戦争で国を失って、親兄弟も死んで、行くとこも無く各地を八年ほど旅をしてたんだよ。まぁ、お前と同じだな。内地の国に行ったときにたまたま持っていた塩が高値で売れてな。それからだよ。行商を始めたのは」
アルマは視線を葡萄酒に落としたまま、木のジョッキを揺らしている。
「ガンベルツの街に行商に行ったときに、ちょっとしたヘマをしちまってな」
「男でもできたのか?」
「お前なぁ……。この話の流れで、どうしたらそういう話になるんだ? 茶化すんじゃねぇよ」
アルマは青い瞳で鋭くロルフを睨みつけてきた。ロルフは先ほどの仕返しのつもりだった。
シスはいつの間にか、鍋の中身を全て平らげ、うつらうつらとしている。食べたら眠くなる。本当に子供のようだ。
「まあいい。そのヘマのおかげで身動きが取れなくなってな。現在に至るってわけだ」
アルマはそう言い、肩をすくめた。
その時、コトンと音がした。隣で眠そうにしていたシスがついに睡魔に負け、体を横たえていた。完全に熟睡しており、かわいらしい寝息を立てている。
「おい、シス。こんなところで寝るなよ。いくらなんでも風邪ひくぞ」
シスの体を揺さぶってみるが、全く反応が無い。酒で酔い潰れたと思ったが、シスは一口も葡萄酒に口をつけてはいなかった。
「悪い。アルマ。今日はもうお開きだ。シスを部屋に連れていかないと」
アルマは「ああ」と言いつつも、ロルフの顔から視線を逸らそうとしない。
「ロルフ。お前なんでフード取らないんだ?」
アルマは感情が読み取れない表情をしている。
「ああ……実は首筋に酷いやけどの跡があってな。人前ではあまりフードは取らないんだ」
嘘は言っていない。確かにロルフの首筋にはやけどの跡がある。ただ、それはやけどなどという生易しい物ではない。
「今日は本当にありがとう。羊肉なんてあまり食えるもんじゃないし、いろいろ話せて楽しかったよ」
そうロルフが言うと、アルマはジョッキに残った葡萄酒を飲みほした。
「最後にもう一つ。旅を続けていると言ったが、どこか一つの街に腰を落ち着けるつもりはないのか?」
やはりアルマはなにか不穏なものを感じているのだろうか。ロルフが元奴隷だとばれているのだろうか? 不安は拭いきれない。
「戦争が終わって、どこも復興や何やらで人出が足りていない。ガンベルツの街ならいくらでも仕事はあるぜ? なんならが紹介してやろうか?」
できるならばロルフだって一つの街に定住したい。朝起きて、仕事に行って家があって……元奴隷のロルフにはそれが許されない。
アルマの瞳がロルフを射抜く。沈黙。口火を切ったのはアルマだった。
「……何か理由があるみたいだな。まぁ、深くは聞かねぇよ」
ホッと胸をなでおろす。これ以上追及されたら、元奴隷だと言うことがばれてしまったかもしれない。
「まあ、気が向いたらガンベルツの街に寄ってくれ。今はルイーゼ商会ってところで世話になってる。私の名前を出せば通してくれるはずだ」
「いろいろ世話を焼いてもらって悪いな」
ロルフとアルマは今一度握手をした。
熟睡しているシスを起こすのは忍びないと思い、肩と足に手をまわし抱きかかえる。
宿に戻ろうと、歩き始めたその時、アルマがゆっくりとロルフに近づいてきた。先ほどまでの人懐っこい表情とは違う、相手を値踏みするような蛇のような表情。そして囁く。
「……お前らを人間に戻す方法がある」
よく聞いていなければ聞き逃してしまうほどの小さな声。しかしその言葉は一言一句聞き間違えることなく、ロルフの耳を通り脳に浸透していった。
――人間に戻す――
どういう意味だ……とロルフが聞き返す前に、アルマは二枚の紙を手渡してきた。
「待ってるぜ」
アルマはそれだけを言い残すと、さっさと宿に戻っていった。
渡された紙にはルイーゼ商会が身分を証明する、と記載されている。ガンベルツに入るための通行証だ。
理解が追いつかない。なぜ、アルマが通行証をロルフたちに渡したのか。
それに人間に戻すとは一体……。元奴隷ということがばれているのだろうか。
首筋の産毛がちりちりと逆立つのが分かる。全身が熱を持ち吐く息が生温かい。決して酒のせいではない。
「……どうした? ロルフ?」
ロルフの気配を察したのか。シスが腕の中で薄く眼を開け、ロルフを見ていた。
「あ、ああ……」
シスの声を聞き、体の熱が引いて行くのが分かった。もう一度よく考えてみよう。
行商人は利益の出ないことはしない。アルマも行商人だ。
通行証を二枚分。アルマはガンベルツの街へ来いと言った。それにアルマが言う、人間に戻す方法。ロルフを元奴隷だと見抜いていたことに対する発言だと思う。
「ねえ、ロルフ」
「起こしてしまってすまない。宿へ行こう」
確信は持てないが。宿に戻っても問題はないだろう。シスを地面に下ろし宿へ向かった。
多少、頭は冷えたが、なぜ元奴隷とばれてしまったのだろうか? 外套のフードはしっかりとかぶっていたはずなのに……。
そこまで考えたところで、頭を固い木の棒で殴られたような衝撃が走った。
アルマはこう言っていた。
――お前らを人間に戻す方法がある。
お前ら、と確かにアルマは言った。
忌み嫌われ、迫害される者同士。ロルフとシスを人間に戻す方法などがあるのか?
普通に考えれば罠だと思う。しかし、元奴隷や魔術師を捕えたところで利益があるわけでもない。
解決しない考えが頭の中を巡りまわっている。しかし、次第に悪い考えはロルフの頭を離れていく。
人間に戻す方法。
アルマのこの曖昧な言葉がロルフの頭を支配してく。この八年、そんな方法があることは聞いたことはない。
そんなもの有るわけが無い。しかし、有るかもしれない。
まだ眠気が取れていないのだろう。シスは大きな欠伸をしながら、トボトボとロルフの前を歩いている。
「なあ、シス。人間に戻りたいか?」
半開きの目でロルフを見て、シスは疑問の表情を浮かべた。
「私は人間だぞ?」
「ああ、そうだな……」
空を見ると相変わらず、満天の星が見える。風が吹き、酒とアルマの言葉でほてった頭を冷ましてくれた。
目の前にぶら下げられた餌に飛びつけば、釣りあげられてしまうかもしれない。しかし、ロルフはその魅力的な餌を避けられるほど冷静ではなかった。