第二話 聖域の中の少女
翌日。
陽が完全に昇り切る前に出発したので、昼前には森へ辿り着いた。遠くからでも巨大な森は目につき、幸いにも迷うことなく辿り着くことができた。
酒場の主人が言う通り、眼前には視界を覆い尽くさんばかりの森が、その存在感を醸し出している。
木の幹はあまりに太く、並みのきこりには到底切り倒せるものではないだろう。
枝葉も大きく、葉も青々としており、まるで宝石のような艶を出している。
自分が小人にでもなってしまったようだ。こんな異様な森は初めてだ。
ロルフはこの異様な森に、不安感と大きな昂揚感を持って立ち入った。
入った瞬間に空気が変わった気がした。大気の不純物が取り除かれたように、吸い込んだ空気が引っ掛かりなく肺に流れ込んでいく。
地面はしっとりとぬかるんでおり、土がブーツのそこにへばりつき、少し足取りを重くする。
森の中は少し薄暗い。
見上げると、大きな枝葉が空を覆い尽くし、その隙間から光の筋が辺りを照らし幻想的な雰囲気を演出している。
元々、目的のない旅だ。南へ行こうと思ったのも、そろそろ雪の季節になり、北よりは暖かいだろうと思ってのことだ。食料も豊富にあるし、たまには寄り道もよい。
木々のあふれんばかりの生命力。『生命の森』。酒場の主人が言った言葉が思い起こされる。
流れる小川の水音を聞きながら先へと進む。
ロルフの背丈ほどもある茂みを分け入っていくと巨大な泉が姿を見せた。そこらかしこに存在感を放っている大木を横にしても、すっぽりと収まってしまうのではないかと思えるくらいだ。
そこだけ、空を覆い尽くさんばかりの枝葉が無く、太陽の光が一筋の光となり、泉を照らしていた。
水の表面は日の光が反射し、泉全体が宝石のような輝きを放っている。泉の周りには実をはち切れんばかりに膨らませた果物の木が生えていた。桃、りんご。他にも黄色や濃い緑色の見たことが無い果物の木も生えている。
実る季節が異なる果物が群生しているのは、まるで夢を見ているようだ。
呆けながらも泉のふちまで行き、手ですくって水を飲む。驚くほどに冷たく、体の中に残っている毒を洗い流していくみたいだ。
こんなところがあったのか……。
ロルフはブーツを脱ぎ、足を水の中に入れてそのまま体を横たえた。
水の冷たさが、足の疲労を溶かしていくみたいだ。体全体も森からの生命力を受け取っている気がして力が沸いてくる。
少し、ウトウトし始めた時――何かが茂みの中を移動した。
飛び起き、急いでブーツを履いた。
ロルフは完全に呆けていた自分を戒めると、鋭い視線で周りを見渡した。
森の中では、人の脅威となる動物が群れをなしていることが多い。とくに狼ともなると気がついたときには群れで周りを囲まれ、一巻の終わりということもある。
よく考えてみれば、この森に入ってからというもの動物はおろか、小さな虫さえも見ていない。足跡やフンを見かけないことから、この森には動物はいないのかもしれない。このような実り多い場所では考えられないことだが……。
念のため、音がした方向の茂みの中を探ってみることにした。
……やはり、心配するような猛獣はいないように思える。リスなどの小型の動物だったのだろう。見かけてはいないがそのくらいはいるのかもしれない。
しばらく身構えていたが、襲ってくる気配はないようだ。ロルフはため息をつき、ナイフを腰の鞘に滑り込ませた。
ふと、茂みの方に目を向けて見ると、いくつかの果物が群生していた。改めてこの森の恵みには恐れ入る。その中にひときわ大きな桃があるのが目についた。
大ぶりな実と鮮やかな桃色だ。さぞや甘いに違いない。
ロルフが桃に手を伸ばそうとすると――茂みの奥で小さな点のような光が見えた。疑問がロルフの頭によぎる前に、その光はナイフの切っ先のようにその姿を変えた。五、六本があるだろうか。そのすべてがロルフを目がけ襲いかかってきた。
「うわっ!」
光のナイフから明らかな悪意を感じ取ったロルフは、反射的に身をかがめていた。空を切る音がロルフの耳に届き、外套の端を切り裂いていった。
「……くそッ……! これは……」
茂みの奥に何かがいる。
得体のしれない力を使う何かが、目の前にいる。むやみに距離を取ればまた光のナイフを向けられてしまうかもしれない。そう判断し、逆に茂みの奥まで腕を入れ込むと――。
「……ひゃっ!」
短い甲高い声が聞こえてきた。声がした方に腕を滑らすと、柔らかい何かを掴んだ。果物? いや。暖かい。これは人の肌だ。逃げられないようにしっかりと掴むと、ロルフは自ら茂みの中へと入っていった。
「え……?」
ロルフは息を飲んだ。目の前には何も体に身につけていない少女がいた。
乳白色の長い髪。そこらへんに群生している熟れたりんごよりも赤い顔。体は水晶のように透き通っている。透き通った体には流水を思わせる水のようなものがうねうねと流動していた。
「お前……まさか」
掴んでいた手をわずかに緩め、疑問を口にしようとすると、少女が突然すさまじい叫び声を上げた。
次の瞬間、ロルフの目に映る景色が反転した。
吊るされている? 何故……と考える前に、ロルフの体は高く宙に浮かびあがった。そのまま地面に叩きつけられる。
「……が、っは……」
湿った土と枯れ葉により致命傷は避けられたが、激しく背中を打ちつけてしまったため、 数秒の間、息が止まってしまう。
何だ? 一体何が起こった?
呼吸を整える。腹に力を入れ立ち上がろうとするも――動けない。まるで、肉体が地面に縫い付けられているようだ。
「くそっ……何だ……」
体をよじってみるも手足の先や頭は動かせるものの、起き上がることはできない。
……これは。
「お前は動くことはできない」
ぞっとするくらい低い声色で、殺意のこもった声が頭の上で聞こえてきた。ロルフは少しだけ動かせる頭を声の方へと向けてみた。
少女はいつの間にかぼろきれのようなローブを身に着け、仁王立ちでロルフを見降ろしていた。乳白色の髪を鬱陶しそうに払っている。
歳のころ十歳そこらだろうか? 素晴らしく整った顔をしており、王宮御用達の職人が精巧に作り上げた石像を思い起こされる。
その少女は、こちらに近づいてきたかと思うと、すっと座りロルフの腰のベルトからナイフを抜き出した。すぐにロルフの顔の上にかまえる。
「お、おい。ちょっと待てって!」
ロルフの手首と足首には、地面から生えた木の根のようなものがからみついている。腰の辺りにも太い木の根がからみつき、動きを拘束していた。
少女はロルフの顔の上でナイフを握り締めている。小さな手に収まったナイフは怒りのためか小刻みに震えていた。
「お、おいっ。落ちつけよ。俺がなにかしたか?」
その言葉に、少女の目がきりり、と釣り上がる。
「お、お、お前。私の体をいやらしくまさぐった。このけだもの! すんごい気持ち悪かったぞ!」
ナイフを持つ手は、さらに激しく震えだす。今にもロルフの顔に振り下ろされかねない。
「べ、別にまさぐってなんかいないだろ? 掴んだだけじゃないか! それに俺だってあんな所に裸の女の子がいるなんて思わなかったんだよ」
必死に懇願する。
「み、水浴びしてたんだ……裸になるのは当然だ!」
「すまない。本当に知らなかったんだ。裸を見てしまったことは謝るよ」
素直に謝ったことにより、少女の表情が少しだけ和らいだ。
「でも、お前、胸を掴んだ。思いっきり……」
少女は唇を硬く結ぶと、恥ずかしそうにロルフから視線を逸らした。
「胸? 掴んだの肩じゃなかったか? 何も無かったぞ?」
少女の瞳が大きく見開かれた。一瞬の静寂の後、少女は持っていたナイフを遠くへ放り投げた。
「あるもん!」
大声で叫んだあと、細い腕でロルフの顔をぶん殴ってきた。
「ぐぇ」
メキ、という骨がきしむ音が聞こえる。
そして立ち上がり、ロルフの横っ腹に蹴りを連打。
「うげっ! や、やめろ。そんな蹴るなって!」
「このけだものけだものけだものけだものぉ!」
やがて、荒い息使いで片手を振り上げたかと思うと、横になぎ払った。
「どっかいっちゃえ!」
そして激しい衝撃。
「……っ!」
ロルフは声も出せずに後ろに吹っ飛んでいった。茂みや小さな木をなぎ倒し、土をえぐりようやく止まった。
「もうどっかいけー! 出てけ! ばーか!」
少女の怒声を聞きながら、ロルフの視界は閉じていった。