第十一話 ただ、今この時だけは
これ以上の話は聞けないと思い、ロルフとシスはアルマのいる部屋を出ていった。
今後の事などをもう少し聞きたかったが、おそらく何を言っても煙に巻かれてしまうだろう。
アルマとは出会って間もないが、ロルフやシスでは本音を引き出すことができる相手ではないと思う。
扉を出ると、先ほど部屋を案内してくれたルイーゼ商会の商人がロルフたちを待っていた。目が合うと「こちらへ」と言い、商館の二階へと案内をしてくれた。
この商人がロルフたちの事をどこまで知っているのか分からなかったが、こうして部屋まで案内してくれるということは、ある程度の事情は分かっているのだろう。
つまり、このルイーゼ商会の人間はロルフたちのことを分かっている。分かった上でこうして接しているのだ。
ロルフたちを案内する商人の表情は少しの嫌悪も恐れも無く、ただ粛々と自分の役目をこなしているように見える。
獲物の体内に誘い込まれているような感覚を味わいながら、男の促されるまま部屋に案内された。
「部屋はお一つでよろしいでしょうか? 本日は他にお客様もおりませんので、もうひとつご用意することもできますが」
ちらりとシスを見ると、不安な顔をロルフに向けた。さすがに、油断できないこの状況でシスを一人にしておくのは不安だ。
「いや、一つでいい」
「了解しました」
見たところ、老齢ともいえるほどの年齢だろう。その商人は恭しく頭を垂れ、階段を下りていった。
厚い木の扉を開け部屋に入る。
部屋の壁は隙間なく木が打ちつけられ、床は磨きあげられている。もちろん先日泊った木賃宿のように隙間風が入ることは無く、風の音で夜中に目を覚ます事もなさそうだ。
古いが丈夫な暖炉も設置されており、雪の季節でも凍えることもないだろう。
二つあるベッドも綿を敷き詰めたもので、少なくとも野宿よりは寝心地がいいはずだ。
シスもこの部屋には驚いた様子で、ベッドの感触を猫のように手で押しながら確かめていた。
シスはベッドに体を横たえると、感触を楽しむようにころころと転がっている。本当に猫のようだ。
今回の事は完全にロルフとアルマの間で話が進んでいる。もちろんシスにこの手の判断がつかないということもあるが、シスはどう思っているのだろうか?
シスも長い間、魔術師として迫害を受け命の危険も幾度となくあったのだと思う。魔術師としての力を捨て、普通の娘として生きるのはシスも望んでいるはずだ。
目の前で気持ち良さそうに転がっている少女は、とても数千人を殺す魔術師には見えない。
生まれ持った魔術の力ゆえ日々怯え定住する場所も無く、いつ命を失うかわからない旅を続けなければならない。
それは俺もシスも望んでいることではない。
人間以下の畜生にならざるを得ない呪縛。それを解いたときに初めてロルフたちは人としての安息を得られるはずだ。
シスはうつ伏せになり、ベッドの感触を楽しんでいる。美しい川のせせらぎのような髪が放射状に広がり、目の前の少女が人であることを忘れてしまう。
ロルフはシスの横に腰を下ろし頭を撫でた。
「シスも人間に戻りたいだろう?」
シスはベッドから体を起こし、眉間にしわを寄せロルフを見た。
「私は人間だぞ?」
「ああ……違うんだ。アルマが言ってた魔術師の力をなくす方法があるって話だ」
「うん……」
そう言うとシスは、再びベッドに顔をうずめた。
「魔術の力がなくなれば、体に文様も出なくなるはずだ。追われる事も無くなる。一つの街に留まって暮らす事もできる。お前だってそれが望みだろ?」
シスはうつ伏せのまま、顔を上げようとしない。どうした? と声をかけようとしたところで、シスはロルフのいる反対側に顔を向けた。
「ロルフは?」
「え……?」
小さくか細い声だったので、寝返りで息が漏れただけだと思った。しかし、その漏れただけだと思われた声からは不安と、そして怯えにも似た感情が読み取れた。
「ロルフは……ロルフは首の傷は消えないの? 私だけだったらイヤだ」
シスはロルフからそっぽを向いたままだ。しかし、指には力が込められていてベッドにはしわが刻まれている。
シスの頭に手を置くと、絹の糸のような髪の毛が手に当たる。手を滑らせば体温がほんのりと伝わり、心地よい感触にいつまで触っていたいという欲求に駆られる。
「大丈夫だよ。あの時アルマは俺の奴隷の烙印については何も言わなかったが、きっと何か方法がある。夜になったらそのことをアルマに聞きにいくよ」
シスはロルフの手を振り払う。その表情には少し非難の色が感じ取れる。
「あいつのところに行くのか?」
「なんだ? 嫉妬してるのか?」
ロルフはそう言うと、もう一度シスの頭に手を置き、すこし乱暴に頭を撫でてやった。
「……やっ、痛いっ。やめ……て……うがああぁぁぁ!」
シスは獣のような叫び声を上げながら、頭を撫でるロルフの指に噛みついてきた。それをひらり、とかわすと、シスはロルフに向けて小さな体で体当たりをしてきた。
「う……おっと」
さすがに不意を突かれてしまったので、ベッドに仰向けになり、その上にシスが乗っかる形になった。
「ロルフはいつもそうだ! いつも私を子供扱いする! 私だっていろいろ考えてるし、嫉妬なんかしてない! そりゃいつもいっぱい食べるけど……お腹空くんだからしょうがないだろ!」
シスはロルフの肩を押さえつけ、頬をはち切れんばかりに膨らませながら怒っている。
「はは。悪かったって。あんまり怒るなよ。かわいい顔が台無しだぞ」
ロルフはそう言いながら、シスのぷくぷくした頬をつまみ引っ張った。
体は小さく、大人という割にはあまり女性らしくない体つきではあるが、顔は丸く栄養状態は良好そうだ。
「ううううう!」
シスは顔を思い切り振り、虫を払いのけるように手足をばたつかせ暴れている。まったくこれで子供扱いするな、と言うのだから面白い。
暴れるシスのわきに手を入れ、ひょいっと持ち上げる。思いのほか軽く持ち上がってしまった。まるで親が子をなだめるような形になってしまった。
「よし! とりあえず街をぶらつくか。まだ見てないところもたくさんあるし、食べ物の屋台もあるぞ」
シスは食べ物という言葉を聞くとぴたり、と暴れるのを止め唾を飲んだ。目尻が下がり情けない表情を作る。
ロルフは少しあきれながら、シスを床に下ろした。
「早く! 早く行くぞ。ロルフ!」
そう言いながら、扉を勢いよく出ていく。
ロルフはそんなシスを見て、無意識に笑顔になるのが分かった。
一人で旅をしていた時には、絶対に味わえなかった感覚だ。
紅い羊をバール商会から盗み出すと言う仕事。自分の奴隷の烙印の事……不安はいくらでもある。しかし、それを綺麗さっぱり消してくれる存在が目の前にいる。とりあえず今は……今だけはシスと一緒にこの普通の生活を味わっていたかった。