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第一話 凄惨な過去、希望の未来、変わらぬ現在

 記憶の片隅には青く美しい空。それを覆うように血と死の記憶。


 八歳で奴隷になった。


 熱せられた真っ赤な鉄の塊を、背中と首に押しあてられたショックで妹が死んだ。母は男たちの慰み物になり、二週間で発狂して死んだ。毎日夕日が沈むまで一緒に遊んでいたカールも死んだ。体と腹が大きくて、いつも俺をからかっていたアルベルトも一カ月で蛇の抜け殻みたいになって死んだ。瞳が大きくて、笑うと花が咲いたような笑顔を見せるアンナも死んだ。その一年後に、父が鉱山の落盤事故で死んだ。さらにその一年後には、知っている人は誰もいなくなった。


 元々、木登りは上手かったし、走るのも友達の中で一番だった。ほとんど病気もしなかったし、珍しい虫を見つけるのも得意だった。だから死ねなかったのだと思った。

 同じように生き残っていたほかの奴隷も、戦争に駆り出されみんな死んだ。それでも死ねなかった。

新しく補充された奴隷もすぐに死んでいった。


 さらに数年後、戦争が終わると奴隷は忌むべきものとして次々に虐殺されていった。


 ひたすら逃げた。どう逃げたのかはもう覚えていない。

 仲間の屍を踏みしめ、足を取られ血だまりに突っ伏しても、後ろを振り返らずに逃げた。

 追手が来ないことが分かると、その場に倒れ込んだ。

 土のひんやりとした感触が火照った体を冷ましてくれた。眼前に映るのは今まで見たことが無いような満天の星。


 この星空の下には自分を知っている人間など一人もいないだろう。でも、世界は果てしなく広い。こんな血にまみれた世界だけど、きっとどこかに一緒にいてくれる人がいるのかもしれない。

 そのまま目を閉じると、地面に体が溶けていくようだった。





「生命の森?」


 ロルフがそう聞き返すと、酒場の主人はおかわりの葡萄酒を注ぎながら口端を上げた。


「そうだ。ここから三日ほど南にいった所に、城がいくつも入っちまうほどの大きさの森がある。ここら辺の奴らはその森を『生命の森』って呼んでいるんだ」


 おかわりの葡萄酒をちびちびと口に運びつつ、ロルフは疑惑の目を酒場の主人に向けた。

 ロルフの視線を気にせず、酒場の主人は滅多に訪れることがない客に語り始めた。


「二年前、戦争が終わった際に、荒れ果てたその地は神の恵みを受け、豊かな大地へと変貌を遂げた。青々とした木々は林を作り、やがて実り多き森へとその姿を変えていった」


 酒場の主人は胸に手を当て、舞台役者のように身振り手振りをつけ語り始めた。おそらく五十を過ぎているであろう男が、道化を演じている姿は滑稽だ。


「さまざまな生き物が、その地で多くの恵みを受け幸せに暮らして――」


 酒場の主人は語り続けている。気持ち良さそうな表情を見る限りは、酒場の主人には今いるこの酒場に大勢の観客が見えていることだろう。

 ロルフはカウンターに肘をつけたままゆっくりと拍手をした。


 この酒場にはロルフ以外の客はいない。周りを見回すと、かなり立派なたたずまいの酒場だった。酒と煙草の匂いが染みついた年代物の木材で作られた内装は、在りし日の喧騒が蘇ってくるようだ。上へと続く階段もあり、過去には二階までびっしりと酒と食事を楽しむ客であふれかえっていたのだと思う。

 語り終わった酒場の主人は、少し照れながらロルフに手を振った。


「ま……と言うわけだ。少し大げさに語っちまったがな。小さな森がある日、突然空をも覆い尽くすほどの巨大な森に変わっちまったっていうのは事実だ」


 元々、このあたりは金の鉱山で栄えていたようだった。金を掘るために人が集まり、街のようなものが形成された。炭鉱夫のための酒場や宿が造られ、どんどん街は大きくなっていった。

 やがて金は掘れなくなり、人は他に移っていった。夢を捨てきれない老人がまだこの地に留まっているのだろう。


「面白そうなところだな。近くを通ったら寄ってみることにするよ」


「まあ、森に行くには街道を大きく外れないといけないからな。どこぞの貴族のボンボンが興味本位で行くには少しばかり骨が折れるんじゃねえか?」


「俺は貴族じゃないよ」


 ロルフは外套のフードを被り直し、もう一度葡萄酒に口をつけた。


「巡礼の旅でもねえ、行商の旅でもねえなんてそんな道楽、貴族にしかできねぇよ」


 酒場の主人は鼻で笑うと、吐き捨てるようにそう言った。

目の前の陽気な酒場の主人は、ロルフのことを貴族の道楽息子だと思っているらしい。ただ、からかわれているだけかもしれないが。


 その後も、全盛期はこのあたりがどんなに栄えていたのか、どれだけ収入があったのかをまるで英雄譚のように語りだした。

 途中、自分も酒を飲み始め、感傷的になりながら今の状況を憂いつつ、グチも語りだしてしまった。

 困ったな、と思いつつロルフは木のジョッキに入った葡萄酒を全て喉に流し込んだ。


 外を見ると、陽がてっぺんより少し西の方に傾いている。


「名残惜しいけど、そろそろ行くよ。注文した干し肉とチーズは?」


「お、おお? もう行くのかい。ちょっと待ってな」


 主人は、顔を真っ赤にしながら、千鳥足でカウンターの裏側へ入っていった。思ったより酒には弱いのかもしれない。

 待っていると、主人が大きめの革袋を小脇に抱え、いまだ酔いの醒めきらない赤ら顔でこちらへ歩いてきた。


「思ったより多めだな。『生命の森』へ寄り道するにしてもこの量だと、二十日分くらいはあるぜ? まあ、俺としてはこれだけ買ってくれるのはありがてぇが……」


 森からさらに一日ほど南下すればガンベルツという比較的大きな街がある。このあたりを旅する者にとって、一度は補給のためにガンベルツの街へ立ち寄るのが普通だ。こんな場末の酒場で、二十日分の食料を調達する旅人などいないのだろう。


 ロルフはカウンターに置かれた革袋を受け取り、主人に銀貨一枚を渡す。もう一度外套のフードを目深にかぶり直した。


「面白い話を聞けたよ。ありがとう」


 主人にお礼を言い立ち去ろうとすると、


「こんなこと聞くのは、大きなお世話かもしれねえが……アンタ街へは行かないつもりかい?」


 先ほどの陽気な声とは打って変わって、低く疑念を含む言葉をロルフに投げつけてきた。


「街へは入れないんだ。通行証を持ってないから」


 あまり妙なことでこの場を濁そうとすれば、さらに変な疑惑を持たれてしまうかもしれない。正直に入れない理由をできるだけ明るい声で話した。


「いまどき通行証なんて形だけだぜ。無けりゃ無いでめんどくさい身体検査は受けるかもしれねぇが、問題はないだろう?」


 ロルフからの返答が無いことを妙に思ったのか、主人は身構えるように酒の陳列された棚に体を預けた。腕を組み訝しげにロルフを見据えている。


「アンタ。罪人かい? それとも……」


 主人はその言葉の先を言い淀んでいる。罪人よりも忌むべきもの。それを口にして確証が取れれば、主人は大声で喚き立てるだろう。

 主人は大きくため息をついた。


「まあ、いいさ。しっかりと金を落としてくれれば、素性はどうであれお客様だ。妙な詮索はしないことにするよ」


 ロルフは何も言わずに立ち去ろうとする。


「まあ、こういうのもあれだが、この辺りからさっさと出ていってくれよ。ここらへんもこんなみすぼらしくなっちまったが、俺の故郷なんだ。面倒事にはしたくないんでね」


 空気が凍ったように張りつめる。


 先ほどまでの陽気な雰囲気とは違い、何もない草原のど真ん中に立っている気分だった。

「憶病なんだよ。みんな。もう戦争なんかごめんだからな」

 そんな主人の言葉を最後まで聞くことはなく、ロルフは酒場を後にした。




 ロルフが『元奴隷』として旅を続け八年になる。


 奴隷の時は外の世界の情勢など知る由もなかったが、当時は北と南に分かれ大陸中を二分し争っていたのだと言う。

 二十年間にも及ぶ戦争では、北の国が勝利し大陸を統一した。それまでは小国が乱立していたこの大陸もその北の国によって、一つにまとめられたらしい。

 ロルフとしてはどの国が統一していようが関係ない。結局のところ、呪いのようにしみ込んだ『元奴隷』という烙印が消えない限りは……。

 逃げ出した後は空腹だったり、立ち寄った小さな農村で疫病をもらったりと、何度も命の危険はあった。

 しかし、その都度ロルフは生き残り旅を続けていた。


 ロルフは空を仰いだ。快晴だ。街道を歩く行商人や、巡礼者も心なしか表情が明るい。ほとんどの人が南に向けて歩を進めている。ガンベルツに向かっているのだろう。


 食料もある。旅の疲れもほとんどない。


 ロルフはガンベルツへと伸びる街道から外れて歩み始めた。しばらくすると旅人もほとんど見なくなった。

 あての無い旅だ。酒場の主人が話していた『生命の森』とやらを拝んでも誰も文句は言わないだろう。言われる知り合いもいないが。


 人に踏まれていない芝はサクサクと小気味よい音を立てる。陽もだいぶ西へ傾き、黄色い日差しが芝を黄金に照らす。まるで金でできた絨毯を歩いていると錯覚し微笑が漏れる。

 やがて、陽は完全に地平線に隠れ、辺りは暗くなっていく。薪を設置し火をつける。夜の闇を削り取るように、辺りに明かりが満ちる。ロルフは酒場で購入したチーズと干し肉をかじりながら寝転がった。


 夜空はいつも通り、視界を埋めつくすように星空が広がっている。

 中々、街へ入ることができないため、夜はこうやって星空を見上げることが多い。

 大きな街では治安のため夜の間、明かりを絶やさないところもあるのだという。その分、空の星は見えにくくなるらしい。


 少しさみしいが、それはそこに人がいるということだ。

 一人でこうして寝ていると、ふとした拍子にとてつもない孤独感に襲われることがある。奴隷として生きていた頃は、周りには同じ境遇の仲間たちがいた。

 死への恐怖はあったが、こんな強烈な孤独感に襲われたことはなかった。

 いっそのことあの時死んでしまった方が良かったのではないか? なぜ生きているのか?

 考えたくなくても、考えてしまう。


 これは病だ。孤独という病。


 話がしたい。どうでもいいような事を笑い合いながら語りたい。しかし、奴隷の烙印がある以上、受け入れてもらえない。この奴隷の烙印が消えれば……。

 ゆっくりと目を瞑る。柔らかい芝の絨毯がロルフの体を優しく包み込んでいった。

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