第2章『謎の男』
どれくらい歩いただろうか。
かれこれ3、40分は歩き続けたはずなのだが未だに有栖は森の中を歩いていた。森はどこまでも広くまるで抜け出せる気がしない。
「暗いし広いし暑いし……」
木々で日差しは遮られているものの少し蒸し暑かった。飲み物があるわけでもなければどこかに湧き水等があったりしたわけでもなく少しづつ喉が渇き始めた有栖にとって今のこの状況は少しまずいと感じていた。
「このぐらいの気温だし大丈夫とは思うけど流石に熱中症で倒れたらやばいかも……」
飲むわけにはいかないが幸い木々の葉についている水滴が冷たく助かっている。しかし、有栖はこの矛盾に疑問を持っていた。
蒸し暑いのには色々要素が考えられるものの一番シンプルなのは雨上がり後の晴れた天気の日である。つまりは蒸発した水蒸気によって蒸し暑くなるはずなのだが『ここ』は蒸し暑いものの木々についている水滴はまるで川の水のように冷たい。
いくら木々が生い茂って日差しが差し込まなく薄暗い森と言ってもこれはおかしいと思う人間も少なくはないはずである。
(異常気象とかそういう問題じゃないし、そもそも暑いのに冷たいというかこれだけ水が冷たくて暗所なのに暑いのも謎だし、うーん)
些細な事だろうと現状、考えることは大事なのだが他に考えることが多すぎて深く考えている暇がない。
「そもそも『ここ』どこ?っていう疑問が一番なんだよね……」
見慣れないものしかない森で生き物一匹も見かけることもなく鳴き声も聞こえず静かな中、歩き続けて不気味でしかなかった。
まるで世界に自分一人だけしかいないような……
「このまま誰もいなくてこの森から抜け出せないとか……いやいや、そんなことはない……はず」
自分に言い聞かせるように言葉を発する。
そうでもしないと身体が不安に飲み込まれる気がした。
さらに10分程歩いた所に軽く日差しが差し込む少し開けた広場みたいな空間があった。切り株が何個かありまるで休憩スペースのような場所だった。
流石に歩き続けて疲れもあったので有栖は切り株に腰を下ろした。蒸し暑かったはずなのに日差しに当たるとまるで春の日差しのような暖かさに包まれてうつらうつらと睡魔が襲いかかってきそうになる。流石に寝るわけにはいかないと眠気を我慢していると後方から何かが走ってきて有栖の膝の上に飛び乗る。
「うわぁ!」
びくん!と身体をビクつかせて有栖が膝の上を見ると一匹のリスが乗っていた。最初こそ驚いたものの『ここ』に来てから始めて他の生き物、しかも自分がよく知る生き物を見れたことに安堵した。『ここ』には自分だけではなく、しっかりと他の生き物も存在する。その現実に。自分が知っているものがいるという現状に。
有栖はリスの頭を撫でてあげる。リスは怖がることもなく有栖の膝の上に座っている。
「全然逃げないしもしかして飼われてる動物なのかな。でも首輪とかしてないし……そもそもリスに首輪ってするのかな?」
ふと疑問を持ちながら撫でていると突然声がする。
「この森で『人』を警戒する者はいない。人というものを『知らない者』しかいないからな。『知らない』ものを警戒することは大事だが、『知らない』ものを警戒したところで疲れるだけだ」
声は背後からだった。
あまりのことに有栖は再度全身をびくっとさせて振り向く。そこには少し長身のフードをかぶった男性がいた。
「あ、あなたは……?」
困惑顔で有栖は尋ねる。男性は有栖を気にせず話しを続ける。
「『人』というものを知っているとすれば単純に長生きする者達か力を持っている者、あるいは『役割』を担う者だ。なぜなら『人』が来るとすればそれは『アリス』しかありえない」
有栖は目の前にいる男性に少し身構えた。突然、話しだし人の話しは無視する。何より全身からまるで冷気のような冷たい態度が滲み出ているかのように思ったからである。
「別に何もするつもりはないからそんなに身構えるな。お前が警戒すればするほどそのリスも怯える」
そういうと男性は一瞬で有栖に近づいてリスの顎を撫でる。
「あからさまに怪しい人を警戒するなっていう方が無理があると思うんですけど」
「やれやれ、今代『アリス』がこんな少女とは何を考えているんだか……」
ため息をつきながら男性は言葉を続ける。
「俺は『ネコ』のトキ。『導き』の『役割』を担っている」
有栖の頭の上で?マークがたくさん飛んでいた。結局謎なことだらけなところに更なる謎が飛び込んでくれば誰だってそうなるのは当たり前ではある。しかし、とりあえず言葉通り何かされる心配だけはなさそうなので有栖は少しだけ安心した。
「はあ、トキさんですか。私は紡希有栖って言うんですけどもしかしてこの辺りとか詳しいですか?さっきからずっと歩き続けて迷子になってるんですけど」
トキはさらにため息つきながらやれやれと肩を傾げる。
「心配しなくてもいい、知りたいことはこの『先』に進めば自然と知っていく。今はまだ知らなくていいことだ」
男性は淡々と答える。有栖はなんとも言えない不気味さを感じる。
「知らなくてもいいじゃなくてまずこの森から出れなくて困ってるから教えてほしいんですけど…」
「悪いが俺からはこれ以上説明できない。『役目』が違うからな。あくまで俺は『導く』だけ。それ以外は俺には関係ないことだ。さあ『アリス』、これを」
そういうとトキは胸ポケットから銀色の物を渡してきた。受け取ると兎の模様が入った綺麗で高価そうな懐中時計である。
「これは?」
「持っていればすぐにわかる、それが『アリス』だ。心配はいらない、お前の『道』を行け。そうすれば自ずと道は前にできる」
そういうと男性は有栖の肩をポンと叩いて通り過ぎる。
「『アリス』。お前の『物語』はここからだ。お前はどんな『物語』を描く?俺は常に見ている、お前がどんな物語を描くかを。また近いうちには会うことになるだろう。なにせ俺は『猫』……だからな」
有栖が振り向くとそこには誰もいなかった。いつの間にかリスもどこかに行ってしまっていた。
「なんだったの今の…」
不気味に思いつつも何故かトキと名乗るあの男性が強く印象に残る。知らない人のはずなのに赤の他人という程遠い関係にも思えない何かが。もしかしたら『ここ』に来て初めて人に会えた人だからかもしれないが。
そう思いながら振り向いた先をよく見るとうっすらと明かりが見えた。日差しが差し込む広間かはたまたこの森の出口か。どちらにせよ有栖は歩き出した。いい加減この静寂な森にも飽き飽きしてきたところだ。
有栖はトキに言われた言葉を思い出す。
(私の物語、か)
言葉の意味はよくわからなかったが、有栖にとって何かが始まる。それは多分『ここ』に来た時点で決まったことなのだ。
そしてこの物語をどうしていくのかもまた有栖自身なのだろう。有栖は立ち上がり明かりの方へ進み始めた……