魔物と契約 2
意識が再び肉体へと還った。
ワールンの舞台にて、囁く者の体を見上げながら立たずむ僕の肉体へと。
精神と体の同機が復活していく。
幾度となく瞬きを繰り返し、心と体が神経によって再接続されるのを感じる。
「ルカ? どうしたの?」
そんな僕を心配する少女の声が、遠くから聞こえる。
僕はゆっくりと振り返ると、柔らかく微笑んでみせる。
「大丈夫ですよ、ロナ」
――そう、全部大丈夫だ。
僕は彼女に見えない様に、そっと胸にかけていたペンダントを手に取る。
そしてその中で踊る、朱い液体をジッと観察する。
【血線術師の血(純粋) 重量:1 中毒性:255】
僕はその可憐な彫金細工の施されたペンダントトップを握りしめる。
そして一気に握力を振り絞った。
バキバキと不愉快な金属音を立て、その構造が歪んでいく。
思っていたよりも頑丈で中々壊れない。
だから両手を使って強引にその白金の鳥かごを押し広げる。
ガクっという小さな音を立て、そのペンダントは歪んで壊れた。
そしてその中に埋め込まれていた、ガラスの小瓶を取り出す。
「……ルカ? 何をしてるの?」
今度は返事をしなかった。
僕は天井を見上げる。
黒い肉の塊、「囁く者、ティトラカワン」へと視線を向ける。
僕に力をくれる、僕に居場所を与えてくれる、僕の願いを叶えてくれる、その魔物を見つめた。
「受け取れ! これで契約は履行だろ!」
叫び越えと共に、その小瓶を投げつける。
はるか上空の繭目がけて一直線に飛んでいく血線術師の血。
そしてそれは、繭から伸びた一本の触手によって、確かに受け取られた。
「ルカッ!」
ロナの悲鳴のような声が響く。
僕はゆっくりと振り返り、彼女と向き合う。
少女は驚愕していた、今しがた僕のしたことが、自分の眼で見た物が信じられない、そんな表情を浮かべている。
「ルカ、何をしたの?」
「……怖がらなくてもいい、これは僕の支配下に置かれるから」
「お願い、質問に答えてルカ……何をしたか分かってるの?」
「大丈夫だよ、アイツはもう人を襲ったりしない。ただの可哀そうな魔物だから、ちゃんと僕が管理して――」
「何してんの! ルカッ!!」
ピキッと何かが千切れる音がした。
囁く者を封じていた、血のワイヤーが切断されていく音だ。
そしてボタボタと、何か黒い液体が天井の本体の直下に、僕の周囲に降り注ぎ始める。
「契約したんだ、魔物と。それで僕は力を手に入れる。不死になるんだ。大丈夫だよ、僕は悪いようにこの力を使わない」
ロナが弓を右手に持って観客席を飛び降り、僕の元へと駆け寄ってきた。
その身には不完全な殺気を纏って、泣きそうな怒りそうな悲しい表情を浮かべいる。
「なんて顔をするんだロナ。大丈夫だよ、僕は利己的な人間じゃない、ちゃんとこの力を使ってこの世界を正しくして見せる」
「ティトラカワンに憑りつかれたの? お願いルカ、正気に戻ってよッ!」
「僕は正気だよ。聞いてくれロナ、実は僕はこの世界の人間じゃないんだ。僕はもっと、素晴らしい世界から来た、そこはこんなに貧富の差とかなくて、あ、奴隷制とかもなくて、戦争も少なくて……」
彼女は僕の言葉には耳を傾けず、呆れたように頭を両手で抱える。
「ロナ、頼む聞いてくれ、バカみたいな話だけどこれは真実なんだ。僕はもっと先に進んだ世界から――」
「それが本当だとして、ルカは本当にそんな事をするべきだと思うの?」
少女は溢れる感情に声を震わせながら、責めるような口調で僕に問う。
「だって、僕はこの世界をもっと……」
「この世界はゲームの盤面じゃないの、本当に人が住んでるのよ! その世界を、貴方の勝手で傲慢な正義感でぐちゃぐちゃにして良いと思ってるの?」
ロナは凄い剣幕で正論を並べ、僕を圧倒しようとした。
でも僕は引かない、引くわけにはいかない。
もうモブになんてならない、僕は主人公になるんだ。
「ぐちゃぐちゃにしようとなんて思ってない、僕はただこの世界を、もっと良い物にして、それで……」
「だったら自分の力でやりなさいよ! 人が苦労して封印した魔物を使ってんじゃないわよ! 他人のふんどしで相撲とってるんじゃないわよッ!」
ロナはそう言って弓に矢を番え、僕に向けた。
微かに涙をこぼしながら、真っ赤に腫れた瞳で僕を狙う。
「待ってくれ、なんでだロナ、僕は別に悪い事をしようと思ってなくて、ただ、ただ」
――ただ、君の横に居たいんだ。
ロナの横に居られるぐらい、強くなりたいだけなんだ。
そこに、僕の居場所があって欲しいんだ。
なのに僕は今、矢を向けられている。
心の支えにしていた大切な女性に、遠ざかって欲しくない愛しい人に。
「ルカ、貴方は昔の私と同じよ――」
彼女口調が柔らかく諭すような、それでいて熱の籠った力のある物へと変化した。
「――昔の私は、自分の強さから逃げていた。今の貴方は、自分の弱さから逃げてる」
彼女の言葉が、薄っぺらな僕の心を切り裂く。
少女の心の内から絞り出すその説得が、闇によって濁った僕の意志を洗い流そうとする。
「僕は、違う、違うんだよ、ロナ……」
「自分を受け入れなさい。そうじゃないと、憎まれてしまうのよ」
あぁ。
自分の心が崩れていくの感じる。
「違う、違ッ……」
彼女の言葉に、嘘と虚偽で糊塗された汚染された心が。
ボロボロと落涙の様に崩れていく。
「ルカ、お願い。こっちに――」
ロナが手を差し出す。
僕は思わず、その手に縋ろうと……
「まったく、口やかましい小娘だねぇ」
どちゃりと、一際大きな音と共に、「それ」は降ってきた。
丁度僕とロナの間に。
黒い粘液の塊が、まるで二人の仲を遮るように。
「お前さんもお前さんだよ、ふらふらふらふらみっともない」
黒い不定形な肉塊はそんな毒を吐きながら変形していく。
ぽこぽこと、ぐぎゃぐぎゃと気味の悪い音をたて、やがて一つの形へと成形される。
「儂はちゃんと言ったじゃろ? この女は危険じゃと」
それは、その形は「美しい女性」だった。
まるで女性的な要素だけをかき集めたかのような、完全な女。
全身に漆黒のタトゥーが刻み込まれた、不気味な程に妖艶な女へと、その肉塊は変化した。
「ティトラカワン……このッ、ドグサレ外道がぁああああッ!!」
ロナが突然吠え猛る。
それまでの優しい少女が一瞬にして消え、憎悪に身を焦がす獣が現れる。
ロナは、「僕の知らないロナ」は、番えていた弓を妖女へと向け、解き放った。
「野卑じゃのう、これだから人間は」
放たれた三本の白い閃光は、ティトラカワンへと命中する。
しかし、その矢は妖女の体を貫かず、ずぶずぶと沼に沈むように彼女の体内へとゆっくりと飲みこまれて行き――
「返すぞ」
――突き出された魔物の腕から、黒い粘液に包まれた閃光となって、ロナの元へと放たれた。
「ぎャッ」
悲鳴とともに少女の体が吹き飛ばされ、舞台の床に叩きつけられる。
「ティ、ティトラカワン! よせっ!」
「安心せい、加減はしておる」
そう言って、その魔物は僕の方へと向き直る。
二十代程の女の裸体が、まるで美術の彫刻の様な女性のすべてが、僕の前にさらけ出される。
「それで、お前さんは如何するのじゃ?」
「ど、どうって」
「あの小娘の言う通り、『じぶんのよわさをうけいれるー』なんて馬鹿げた修行を始めるのかと、聞いておいるのじゃ」
ずいと寄られ、僕は思わず言葉に詰まる。
「別に儂とて無理強いはせんぞ、お前さんの好きなようにせい。あの女を回収して帰っても良い、邪魔はせんぞ」
ロナを回収して、帰る?
ここで、このまま。
それで、良いのかもしれない。
ロナの言った通り、僕はただ自分の弱さから逃げてただけだ。
だったら――
「ふぅん、立派な志じゃな。お前さんはそんな啓蒙に殉ずる気か? あの者の様に」
ティトラカワンはそういうと、遠くを指差す。
そこにはダズが、ボロボロなってに打ち捨てられたリザードマンが転がっていた。
「あの者も正しい存在であろうとしたのじゃ、自分自身を受け入れ、己を律し、真の英雄になろうとしたのじゃぞ。そしてその結果があれじゃ」
――望む物は何も手に入らなかった。
――地位も、名声も、自分の居場所も、そしてなによりも愛する者に愛される事さえ。
――それだけじゃ世の中どうにもならない。もっといろんな物が必要なんだ
魔物の言葉に呼応するように、記憶の深層からダズの言葉の数々が次々と発掘され、それが僕の心を再び揺さぶる。
「それで、お前さんは本当にこんな運命を受け入れるのかい?」
妖女は吸い込まれるような黒い瞳で見つめながら、僕に最後の質問をした。
こんな運命……
ただしいかも知れない。
でも、それだけだ。
正しいだけで、何も手にすることは無い。
決して英雄には為れない。
そしてロナからの愛も――
「――い、嫌だ」
魔物が邪悪な微笑みを浮かべる。
「契約成立じゃな」
妖女は傍に立つと、僕の顎を掴みんでクィっ上げた。
そして次の瞬間、僕は唇を奪われた。
驚き、慌てて押し返し離れようとするが、彼女の腕力がそれを許さない。
無理矢理抱き寄せられ、さらに唇をむさぼられる。
ふっくらとした冷たい唇から細く生暖かい舌が押し込まれ、僕の舌が絡め取られた。
深く強引な口付け。自分が犯されているようで、必死に抵抗する。
でももがけばもがく程に妖女は僕の体を強く抱きしめ、その柔らかな肉で包み込む。
「うっ……ぐも……ん!」
妖女の舌はより激しく僕の口内を犯し、溢れ出た唾液を呼吸を奪い取る。
いや、それでだけじゃない。
自分の内側から、急速に「何か」を奪われていくのを感じる。
上手く言葉で表現できない、とても大切な、僕の核となる何か。
それがずるずると溶かされ、熱い液体となって彼女のキスによって吸収されて行く。
そして、同時に「何か」が与えられた。
奪われた物と同量の何かが、僕の中に注がれていく。
僕と彼女が混ざり合っていくのを感じる。
激しく流れ込み、時に逆流し、熱く溶け合い、一つの液体へと混ざっていく。
【ステータスが変化しました
アビリティの成長
「囁かれし混乱」
が
「黑き玉座の語り手」
へと成長しました】
永遠の様な、刹那のような口づけから解放される。
「これで契約成立じゃな」
妖女はそう言って、得意気に微笑む。
僕はよろよろとした歩みで彼女の元から離れ、燃える様な熱を持った口元を手で押える。
口元だけじゃない、その熱は体の芯からも起こり始める。
焦がすような、何かが溢れ出るような、抑えがたい感情の様な炎。
「ぐっあ、あぁ、だ、駄目だ。これは、駄目だ」
その熱は洪水のように、僕の意志とは関係なく、怒涛の勢いで押し寄せる。
眼がくらむ、意識が歪む、自分抑えられなくなる、何かが僕を内側から溶かす。
僕が、僕で無くなる!
【ステータスが変化しました
新たなスキルを獲得
魔法
呪術
幻惑
闇魔術
古代魔術
新たなアビリティを獲得
精神刻み
意志を侵す者
闇潜み
絶影
エンバウントメント
ガラマカブル】
わからない、理解できない。
ただ冒涜的な何かが僕を包み込む。
とても許容できないような、忌むべき物に、僕の存在が浸食される。
「嫌だ、こんなの、これは、嫌だ! 助けてくれ!」
「安心しろ、それは直ぐに収まる物じゃ」
助けてロナ!
頼む助けてくれ、僕が間違ってた。
コイツは、コイツはやっぱり。
コイツは!
「落ち着くのじゃ、お前さんの体が人間をやめようとしてるだけじゃ。それぐらい覚悟しとらんかったのか?」
僕はその場に崩れる。
体の制御が聞かない。
意味不明な想像が僕の思念を支配する。
蛹の孵化だ、僕という繭から何かが羽化する。
僕を突き破り、僕の脊髄から何かが飛び出る。
それが出た後は、僕はただの抜け殻だ。
産まれた物が僕となって、今の僕は消滅する。
嫌だ!
そんなのは!
「まぁ、確かにそれは事実じゃ。自我を保てなくなって、魔物に飲みこまれる」
体を掻き毟る。
自分を食い破るそれを、すこしでも抑えようとする。
騙された!
僕は、騙されたんだ。
コイツは、コイツは僕を。
「当然じゃろ? 普通の魔物と契約した愚か者が無事で済むと? 愚かじゃのう」
嫌だ!
嫌だ!
誰か助けて!
僕は!
【貴方のステータスが変化しました
新アビリティ
「不死」
を習得】
「冗談じゃよ。今のは普通の魔物の話、儂は別じゃ」
少々怖がらせすぎてしまったかのう――そんなティトラカワンの声が僕に降り注ぐ。
それと同時に、自分の内側での「起こり」が静まっていくのを感じる。
「言ったじゃろ、貴様を不死にしてやろうと。お前さんの内のそれは、お前さんを食い殺す事はできない」
やがて自分の内側の「起こり」が融解していくのを感じる。
僕を破るはずだったそれが、僕の中に取り込まれていく。
「おめでとう、これでお前さんは『物語の主人公』じゃ――」
魔物の力を備えた、不老不死の英雄。
「――それが今のお前さんじゃ」




