プロローグ
目の前に広がるのは、崩れ落ちた瓦礫とうめき声を上げる人々の群れ。どこを見渡しても、日常と呼べる一幕は存在しない。崩れ落ちた家屋、隆起した道路。あちこちに転がる車と倒れた電柱。テレビの中でしかみたことのない景色が、自身の視界全てに広がっていたのだ。
俺は、そんな現実感のない景色からは目を背け、埃っぽい空気を吸い込みながらここの責任者の言葉に耳を傾けた。
「君達は、あっちの救護室を担当してくれ」
その言葉に従って走った。肩にかかるひどく重い医療器材が、ここに来てとても心細く感じた。そんな心細さを払拭しようと歯を食いしばるが、救護室までの道のりがやけに遠い。実際にはたいした距離でもないのだが。
「ここか」
一人つぶやき、俺は指示を受けた場所に入って息を飲んだ。
人、人、人、人。
それも、ただの人ではない。全員が何らかの傷を負っているようだ。土にまみれ血のりで衣服を汚した人達が、みな同じ場所に押し込まれていたのだ。
こんな状況になっている原因は、数日前に発生した大地震だろう。その被災者達が、瓦礫の真っ只中に用意された救護室に運び込まれていたのだから。
救護室といっても、建物の中なのではなかった。申し訳ない程度にしか仕切られていない空間に、無造作に詰め込まれた場所に過ぎなかった。俺は、そんな頼りない空間に立ちすくみながら、大勢いる要救助者に目をむけた。
「トリアージしてもこれだけいんのかよ」
そんな呟きは誰にも届かない。強く拳を握って、目の前の患者達の元へと走った。助ける人を選別するトリアージを行った後でも、その数は息をのむほどだ。足取りが重い。まるで鉛が巻きついてるのかと思うほど重かったが、俺は、その重さを無理やりに振り払った。
◆
「斎藤先生! ちょっと来て! 早く!」
機械的に、そして衝動的に治療を行っていた俺の耳に、どこか切羽詰った声が聞こえてきた。声のするほうを見ると、看護師が鬼気迫る表情で声を張り上げている。
目の前にいるのはトリアージされて命に別状がないと判断された人たちだ。もちろん、すぐに治療は必要なのだが、緊急度は低い部類に入る。それゆえに、看護師の表情が気になった。
「ごめんなさい。ちょっと待っててくださいね」
目の前にいる患者にそう告げると、俺は急いで看護師の元に向かう。
「どうしたの?」
「崩れた瓦礫に押しつぶされた人がいて。出血が止まらないし、呼吸も浅いんです」
「すぐ行く」
そう言いながら、俺は外に飛び出した。数時間前に外にいたはずなのに、ひどく久しぶりに感じる。
看護師に促されるまま、俺は、言われた場所に駆けつけた。すると、確かに看護師の言うとおりだ。血溜まりの中に、ぐったりした男性が倒れている。瓦礫は既に取り除かれた後のようだが、出血はまだ続いていた。血溜まりが、拍動のせいか波打っている。生臭い臭いが鼻についた。
見る限り、動脈性出血の可能性が高い。
「すいません! わかりますか? ねぇ! ちょっと!」
俺は、あわてて倒れている人に駆け寄り、体を起こす。強く肩を叩いても反応はない。手首の脈に触れてみるが、橈骨動脈はもう触れなかった。血圧が下がってる。呼吸も……しているが微弱だ。トリアージ赤。緊急性が高い。猶予はない。
「荒木さん! 急いで処置セット持ってきて!」
そのまま俺は男性の胸に手を当てて心臓マッサージを開始する。出血点を探したいが、看護師が戻ってくるまでは体の循環を維持しなくては。
「ふっ、はっ、はっ、はぁっ」
すぐに息が切れる。手に肋骨の折れる感触が伝わってくる。男性の口からは血が漏れ出るが、今はとにかく循環維持だろ。肺も損傷してるのか? このままじゃ呼吸もだめだ。人手が足りない。くそっ、くそ!
頭の中でぐるぐると思考が回る。やらなければならないことが増えていく中、やれることは一つだけ。歯がゆい思いだけが募っていった。
「斎藤先生!」
やっと来た。振り向くと看護師と医師が一人ずつ走ってきていた。時間にして一分も経っていないが、それでもひどく長く感じた。
「荒木さん! 服を切って出血点を把握して! 用手圧迫で止血を! 先生は気道確――」
ぐしゃ――。
視界が一瞬で赤く染まる。俺の名前を呼ぶ声がとても遠くに感じた。どこかぼんやりとする意識の中わかったのは、落ちてきた瓦礫が俺の頭に当たった、ということだ。
はっ、俺も要救助者かよ。最悪だ。
そんなことを思いながら、俺は意識を手放した。