Chapter-09 「俺の知ってる神様なら間違いない」
「先頭の一番はライトフライ」
捕手用のヘルメットをかぶりながらユウキが言いました。三塁側ベンチの後列にいる彼は、その身体には藍色のプロテクターを着けていて、かたわらには、キャッチャーミットと、プロテクターと同色のマスクが置いてあるのが見えます。
「次の二番は空振り三振。――思いだしてみると簡単な話だな」
「なんの話だよ?」
その隣に立って、紙コップに口を付けていたトオタが、ユウキを一瞥してから言いました。二塁から直接三塁側ベンチに帰ってきた彼は、紙コップをベンチに置くと、タオルでその顔を拭いました。
「なんでスクイズしなかったんだ?」
「おいおい、心理的視野狭窄は恋する乙女の特権だよ? あの陣形相手にスクイズなんて、ただの自殺願望持ちの馬鹿のすることですよ」
「変わる可能性はあったはずだ」
「そして点が入らない可能性もあったわけだ」
ユウキの言葉にシームレスで応じたトオタは、帽子をかぶり、ベンチの上のグローブを手に取ると、ベンチとグラウンドをつなぐ、短い階段へと向かっていきました。
「可能性か。――ほんとにあるのかね、そんなもん」
階段を上ったトオタがベンチを出ると、三塁側アルプスからは、そしてほかの観客席からも、耳を塞ぎたくなるような大歓声が聞こえてきました。それは彼の功績に対する称賛の表れでしたが、同時に、彼がもたらしてくれると彼らが信じている、輝かしい未来に対する無邪気な期待でもありました。
「プロってすげえよな、毎試合これを背負って戦ってんだから」
マウンドに辿り着いたトオタは、プレートに置かれていたボールを拾いました。それから足場を丁寧にならすと、顔を上げて、本塁にその黒色の双眸を向けました。
そこには、ちょうど本塁に到着していた、ユウキの姿がありました。藍色のマスクを着けている彼は、ホームプレートの向こうに腰を下ろすと、トオタに向かって、左手のキャッチャーミットをかまえました。
それから軽い投球練習が行われました。
ストレート。スライダー。ツーシーム。スプリット。
それらの球種を試し終えると、最後に二塁への送球を行ったユウキが、マウンドにその足を運んできました。それからトオタに訊きました。
「どこまでコントロールできるんだ?」
それは唐突な印象を受ける問いかけでしたが、トオタは、よどみなくその質問に答えました。
「投げる直前まで。あとは自動操縦にお任せってところだな」
「その自動操縦はいつまで続くんだ?」
「それはまちまちだな。八回は送球までやってくれたけど」
「フルカウントで、六球目だったよな?」
「真ん中高目のストレート。球速は百四十四キロ。――スクイズでもルート分岐はしなかったよ、俺の知ってる神様なら間違いない」
「きっかけは〝天才〟の一発か?」
「その前から予感はありましたがね」
肩をすくめて、ひどく淡々とした口調でトオタが言いました。
「本格的に野球に戻ってようやく一年ってところのバッテリーが、あの泣く子も黙る絶対的な〝王者〟を相手に、九回を、一被安打一失点。〝こりゃ何か裏があるな〟って疑わないほうが狂ってますよ」
「ずいぶん卑屈だな。俺は、おまえならこれくらいはできると思っていたんだが」
「俺だってそう思ってたんだけどな、あの×××××な神様の気配を感じるまでは」
トオタの声はとても軽いものになっていました。それは、そのままふわふわと、どこかに飛んでいってしまっても少しもおかしくないくらいに空虚なものでした。
「自分の手足に糸が付いていて、それが天に向かって伸びてるのを見つけたような気分だな。踊ってると思ってたら踊らされていたんだ。しかも終盤のBGMは使い回し。新作が無理でも、リメイクくらいは頑張れよって話だよな、まったく」
「――なんのリメイクが不満だって?」
不意にやってきた声にトオタが振り向くと、そこには、ちょうどその場で足を止めた、遊撃手の少年の姿がありました。左手にはグローブを着けていて、その中には、ボールがひとつ収まっていました。
声の調子を変えたトオタが言います。
「おっと、盗み聞きとは感心しないな、遊撃手」
「盗まれると困るような話をしているほうが悪い。――何か問題でもあったのか?」
遊撃手の少年が軽くボールを放ると、それを右手で受けとったトオタが口を開きかけましたが、先に答えたのは、ユウキの声でした。
「いや、ちょっと配球をどうするかで意見が合わなくてな。俺はキャッチャーフライで終わらせるべきだと思うんだが、こいつは三振じゃないといやだと言って聞かないんだ」
「試合の締めは三振に決まってんだろ。おまえはおとなしく俺の引き立て役をやってりゃそれでいいんだよ」
「馬鹿なことを言うな。おまえが愚かにも仕留めそこねたバッターを俺がアウトにしてやるという様式美がわからんとは、おまえはいったい何を見て十八年も生きてきたんだ?」
「まあ落ち着け、ふたりとも。まずはしっかり試合に勝つことが重要だ。その終わらせ方なんて、ショートフライでもショートライナーでもいいじゃないか、別に」
「よし、左翼方向には絶対に打たせないってことでいいな? トオタ」
「オケ、了解した」
「…………。ちょっと話し合おうか、そこの馬鹿バッテリー」
そうして行われた短い話し合いの結果、〝とりあえず三塁手にいいところを持っていかれない〟という妥協点を見つけた三人は、そののち、ふたりはマウンドに残り、ひとりは自らの守備位置へと帰っていきました。
「サヤカを泣かせる予定はないんじゃなかったのか?」
マウンドに残ったふたりのうちのひとりが言いました。守備位置へと帰っていったひとりを見送っていたもうひとりは、少し間を置いてから応答を返しました。
「〝一回くらいなら許してくれる〟って約束があったはずなんですがね」
「あんなカンニングは無効だ」
「球種とコースは純然たる勘の産物だっての」
「そんなことは関係ない」
情けも容赦もない言葉に、マウンドに残ったもうひとりが、――梛原トオタが目を向けると、その先にいた高梨ユウキは、三塁側アルプスに、その顔と目を向けていました。
「もしサヤカを泣かせたら、俺はおまえを許さない。何があろうと、どんなことになろうと、俺はおまえを許さない。あいつの心に傷でも残してみろ、もしそんなことをしたら」
「そんなことをしたら?」
「俺がお前を殺してやる」
「…………」
ユウキの声は、冗談を言っているようには聞こえませんでした。それはひどく純粋なものでした。それには確かな意志があって、そして、無垢な願いで満ちていました。
ユウキはトオタの胸に右の拳を当てると、踵を返して、マウンドから去っていきました。その背を目で追っていたトオタは、はあっ、とひとつ息を吐くと、グローブを右のわきに挟んで、両手を使って、ボールを手になじませました。
「殺してやる、か」
トオタは巨大なスコアボードに顔を向けました。それに並んでいるのは、いくつもの「0」と、いくつかの「1」と、ふたつの「2」――空白になっているのは、「十」の下に表示されている「1」の下の、一ヶ所のみ。
「これだから困るんだよな、シスコンは」
帽子をかぶりなおして、グローブもはめなおしたトオタは、振り返って本塁を向きました。その視界に収まるのは、左の打席に入っている打者と、試合の再開を告げる球審と、トオタに殺害予告を出したユウキと、そして、バックネット裏の大勢の観衆。
「これだから困るんだよ、相棒ってのは」
ユウキのサインに頷いて、トオタは投球動作を開始します。
投じられたボールは、空気を切り裂いて、キャッチャーミットに吸い込まれていきました。




