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Chapter-03 「だからうちは花屋じゃないと言っているだろう?」


「〝一番のバントは上手くない。だからヒッティングかもしれない。でもそう思わせておいてのスクイズも充分にありうる。用心するように〟――だそうです」

 そう述べたのは、三塁側ベンチから、聖峰の内野陣が集まっているマウンドへやってきた伝令役の少年でした。

 彼の言葉を聞き終えると、内野陣のうちのひとりが、遊撃手の守備位置からやってきたひとりの少年が、三塁側のベンチへと、その切れ長の双眼を走らせてから言いました。

「肝心の〝判断〟は相変わらず丸投げか」

 彼がその冷ややかな視線を送っているのは、少年たちと同じ白い半袖のユニフォームに袖を通している、六十がらみの男。腕を組んで、しわの目立つその顔に、まじめな表情を浮かべているのが窺えます。その様子は、すなおな心持ちで見ると、この先の展開に思いを巡らせているようにも受け取れますが、

「TV映りより相手の出方を気にしてくれ、というのは無駄な話か、あの男には」

 続けてそんなことを口走った遊撃手の少年に対する反論はなく、

「選手育成以外は空っぽな監督ですからね、変な指示を出されないだけマシなんじゃないですか、まじめな話」

 二塁手の守備位置からやってきた小柄な少年の辛辣な批評にも、マウンドに集まった内野陣からは、無言の同意が寄せられてしまうといったありさまでした。

「――で、どうするんだ、ユウキ」

 遊撃手の少年が、本塁からやってきた少年、――高梨ユウキにその目を向けました。

「三連続フォアボールでノーアウト満塁。ついでにうちのエースは手のまめがつぶれて現在治療中。――このピンチ、どう切り抜ける?」

 その場の面々から顔を向けられたユウキは、その視線を、一塁側ベンチに向けました。トオタが治療中のため、一塁側ベンチの前には数人の選手が出てきていて、素振りをしたり、キャッチボールを行ったりしているのが見えます。

 ユウキの目が捉えたのは、その中のひとり――帽子を脱いだ選手に何かを話している、四十代半ばくらいの男。寛容さの窺える顔に、歳相応にふっくらとした体型。周囲の少年たちと同じユニフォームを着ていなければ、春夏を合わせて、すでに七度の栄冠を経験している名将には見えません。

「どうもこうも」

 軽く肩をすくめて、ユウキは自らを見る内野陣に向き直りました。

「いつだってエース次第だよ、うちのチームは。控えじゃ〝王者〟は抑えられない。この絶体絶命の場面も、俺らはあいつの力に頼るしかない」

「そのエースの調子はどうなんですか?」

 二塁手の少年は、ちらりと三塁側ベンチを一瞥しました。

「〝天才〟の一発を除けば、七回まで、被安打ゼロ、四球とエラーの出塁ふたつで十四奪三振。ところが、この回はいきなりの大乱調で三者連続のフォアボール。梛原先輩の体力的にガス欠はないと思いますが、実際のところはどうなんですか?」

 訊ねられたユウキは、息をつきながら三塁側ベンチにその目を向けました。

「調子よりも気持ちの問題だろうな、あれは」

「気持ち?」

 二塁手の少年がオウム返すと、ユウキは視線をそのままに言葉を続けます。

「確かにこの回はコントロールがばらついてるが、球威は落ちてない。甘いコースの球でも、ファールになってるのがその証拠だな。ただ、なんか集中してないんだよ、あいつ。下位打線だからかとも考えたが、どうもそんな感じでもない。遊んでる、というのも違う。何かを試してる、ような気がしないでもない」

「つまりどういうことなんだ?」

 三塁手の守備位置からやってきた大柄な少年が、腕を組んだまま、ユウキを見下ろしたままその口を開きます。

「もっと簡単に言ってくれ。あいつはまだやれんのか?」

「イエスかノーで答えるなら〝イエス〟――つぶれたまめも、投球にはそこまで影響しない位置だからな。問題はあいつの集中力だ。下位打線なら遊んでいられるが、上位だとさすがにきびしい」

「あの打線を相手に遊べるところがある、というのもおかしな話なんですがね」

 二塁手の少年の口調は、どこか呆れた調子を含んでいるものでした。

「下位と言っても、他校なら間違いなく主力になりうる面子が並んでいるわけですから」

「うちにもひとりかふたりほしいところだな。守備の上手い三塁手あたりがいれば、うちの内野陣は鉄壁に近くなる」

「ケンカ売ってんなら買ってやるぞ? そっちに金払わせるレベルで」

「悪いな、うちは花屋じゃないんだ。――集中を欠いていると言ったが、何か心当たりはないのか?」

 三塁手の少年の頭上に疑問符を浮かばせた遊撃手の少年が、ユウキに疑問と視線を向けました。

「あいつの様子に異変を感じたのは、いつからなんだ?」

 訊ねられたユウキは目を伏せて考える仕草を見せましたが、さほど間を置かずに、「やっぱり〝天才〟の一発くらいしか思い浮かばないな」と言いました。

「もともと考えの読みにくいやつだが、あのあとから、その印象に拍車がかかったような印象がある。単純にショックを受けたって可能性もあるが、あいつの反応はねじくれてるからな、本当のところは俺にもわからん」

「そういえば」

 内野陣の視線が言葉の発信者を向くと、そこにいたのは、一塁手の守備位置からやってきた、ファーストミットを右手に着けている長身の少年でした。

「スコアブックを見てましたよ、梛原先輩。さっきの攻撃中に」

「スコアブック?」

 今度は遊撃手の少年がオウム返しました。一塁手の少年が応じます。

「はい、なんか真剣な顔で。それで、自分が見ているのに気付いたら、〝次は外中心で攻めてくるぞ、気を付けろ〟って言われました」

「相変わらずわけのわからんやつだな、うちのエースは」

「おまえも充分わけのわからんやつだけどな」

「おまえの頭と比べれば、世の中のたいていのものは〝わけのわからんもの〟にカテゴライズされると思うが?」

「やっぱおまえケンカ売ってるよな?」

「だからうちは花屋じゃないと言っているだろう?」

 遊撃手と三塁手の少年ふたりがそんな言い合いをしていると、視線を下げて考えごとをしていたと見えるユウキは、ひとつ息をつくと、顔を上げて、内野陣に、そのこげ茶色の目をさらしました。

「わけのわからんやつのことを考え続けても仕方がない、今は目の前のことに集中しよう」

 ユウキは、左手のキャッチャーミットで口元を隠してから言います。

「状況はノーアウト満塁。次の打者は左のプルヒッター。ここまでの打率は五割、出塁率は六割オーバー。データを見るかぎり、最後にバントをしたのは四月の練習試合。公式戦では、去年の夏の予選が最後だ」

「十中八九ヒッティングだろうな」

 遊撃手の少年が、左手のグローブで口元を覆ってから言いました。

「この状況で最悪なのは点が取れずに併殺だ。どちらでも併殺の可能性はあるが、不得手なバントのほうがより可能性は高い。強攻策なら、前進守備のこちらのエラーも誘える」

「しかし、だからこそのスクイズ、というのも充分に可能性があります」

 二塁手の少年も、その口元はグローブによって覆われています。

「フォアボールのあとはストライクがほしくなる。塁も埋まっているので押し出しも考えなければならない。コントロールを乱している現状、きわどいコースを攻め続けることも難しい。となると必然、甘いコースに来る可能性が高くなる」

「甘いコースに来ると予想しているなら打たせるだろう、それで結果を残してきた打者なのだから」

「でも一番はここまで梛原先輩にタイミングが合っていません。手を打ってくることは充分に考えられます」

「まあ、ここは受け身になっていてもいいことはない。こっちから仕掛けよう」

 二遊間のやり取りに口を挟んだユウキが、一拍置いてから言います。

「シフトは前進。投球開始と同時に、サードはホームに向かってダッシュ。スクイズじゃなくても気にせず突っ込め。ファーストは動かずそのまま。セカンドとショートは右寄りの守備位置。三遊間に打球が飛ばないことを祈ってくれ」

「なるほど」

 遊撃手の少年が納得したような声音で言いました。

「たとえスクイズでも、相手は左打者だ、身体のでかいサードが突進してくれば、その視界には間違いなく入ってくる。プレッシャーには充分だな」

「ちょっと待てよ、打球飛んできたら危なくないか? 俺が」

「大丈夫だ、安心しろ」

 危険を感じて異議を申し出た三塁手の少年の肩を、遊撃手の少年がポンと叩きます。

「骨は拾ってやる。だから死んでも打球は止めろ」

「じゃあおまえがやれよ、骨拾ってやらねえから」

「悪いな、俺は三塁手をやるとじんましんが出る体質なんだ」

「じゃあぜひ代わってくれ、そしてじんましんとやらが出るところをぜひ見せてくれ」

「あとはエースがどんな球を投げられるか、ですね」

「おまえも何まとめに入ってんだコラ」

 二塁手の少年を三塁手の少年が睨むのと、三塁側のアルプススタンドが沸いたのは、ほぼ同じタイミングでした。内野陣がそろって顔を向けると、そこには、ベンチから出てきた彼らのエースが、マウンドに向かって駆け寄ろうとしている姿がありました。

 伝令役の少年と入れ替わるようにして、トオタが内野陣に合流します。

 最初に訊ねたのは遊撃手の少年でした。

「大丈夫なのか?」

「じゃなかったらベンチで優雅に休んでるぜよ」

 おどけた口調で答えたトオタに、今度はユウキが、キャッチャーミットに入っているボールを差しだしながら問いかけます。

「全部投げられるのか?」

「スプリットがちょい微妙。ほかはいけると思う」

「そうか。――状況はわかってるな?」

「同点で八回の裏でノーアウト満塁。バッターは引っぱり専門の左の一番打者」

「前の打席でセカンドゴロに仕留めた球は?」

「インローのまっすぐ」

「アウトローのツーシームだ。なんで自信満々に間違えられる? ――まあいい、みんな守備位置に戻ってくれ、手筈どおりに頼む」

「なんだ? 手筈って」

「おまえはまず投げることに集中しろ。それでスクイズだったら前進、ヒッティングだったら臨機応変に対応しろ」

「そんな作戦で大丈夫か?」

「大丈夫だ、おまえが三者連続三振でも取ってくれればなんの問題ない」

 マスクを着けたユウキの言葉にトオタが顔をしかめると、遊撃手の少年が、軽くトオタの肩を叩きました。それを合図にして、聖峰の内野陣は、それぞれの守備位置へと散っていきます。

「おい、相棒」

 そんな中、トオタが本塁へ向かうユウキを呼び止めました。それから訊きます。

「次の打者の内野安打の数って知ってるか?」

「そんなに多くなかったと思うが、それがどうしたんだ?」

「いや別に。――初球は?」

「インハイにまっすぐ。〝引っぱれるもんなら引っぱってみろ〟って感じで、外れてもいいからぎりぎりを狙え」

「うい、了解」

 そう応じると、トオタは二塁方向へ少し歩いて、右手で、足元のロジンバッグに触れました。ユウキはその様子をマスクの下から眺めていましたが、視線を切ると、すぐに、自らの守備位置である、マウンドからは十八・四四メートル離れている本塁へと、戻っていきました。

「――ノーアウト満塁から、併殺でツーアウト二、三塁」

 戻っていったために、つぶやくようなトオタの声は、ユウキには届きませんでした。

 トオタはスコアボードを見ていました。その顔には、期待を背負わされたエースの重責も、〝王者〟に追い詰められた危機感もなければ、すべてをなげうつことを決意した諦念も、逆境に心を震わせる、多くの観客が求めるような、主人公然とした熱意も瞳の輝きもありませんでした。

「四球でツーアウト満塁。三振でスリーアウトチェンジ。そして九回表の攻撃へ――」

 ひとつ息をついたトオタは、その眉を軽くひそめてから言いました。

「ホンマかいな」

 その顔にあったのは、ひどく薄すぎるがゆえに安寧にすら見える、どこまでも純粋無垢な絶望という名の色彩だけでした。


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