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Chapter-02 「全国高等学校野球選手権大会準決勝第一試合」


 全国高等学校野球選手権大会準決勝第一試合は、戦前からの予想どおり、一点を争う投手戦になっていました。

 春夏を通じて初の決勝進出を狙う聖峰学園の先発は、ここまで、全試合をひとりで投げ抜いてきている〝無冠の最強右腕〟――三年生エースの梛原トオタ。

 対する二年連続の春夏連覇を狙う〝王者〟浦川第一の先発は、今大会、まだ完投こそないものの、一回戦、三回戦に先発して、どちらの試合でも七回をパーフェクトに抑えてみせた〝小さな狙撃手〟――二年生左腕の山科カケル。

 プロも注目するふたりはそろって見事な立ち上がりを見せると、続く二回、三回も、それぞれの持ち味を生かして、簡単に三人ずつで終わらせていきます。

 特に超満員の観衆を沸かせていたのは、聖峰学園のエース、梛原トオタ。

 去年の秋に彗星のごとく高校球界に現れた彼は、百五十キロを超える速球と、〝デスサイズ〟の異名を持つ切れ味抜群のスライダーを軸に、三回までに、見逃し三つに空振り四つの計七つの三振を獲得――。今大会、ここまで四割一分という驚異的なチーム打率を誇る〝王者〟浦川第一の超重量打線が、一巡目で七つの三振を奪われたのは、少なくとも、現在の三年生が主力になってからは、初めてのことでした。

 文句のつけようのないエースの快投に、三塁側のベンチとアルプススタンドは沸き上がります。――しかし、二年生ながら浦川第一のエースナンバーを与えられた〝小さな狙撃手〟が、聖峰が勢いに乗ることを許しません。

〝小さな狙撃手〟こと山科カケルの武器は、まったく同じフォームから繰り出される七色の変化球と、それを正確に、的確に、精密にストライクゾーンの四隅へ投げ分ける制球力。聖峰打線は弄ばれるように三つの三振と六つの凡打を献上し、浦川第一の外野手は、初回から三回までは、結局なんの仕事も与えられないままに、一塁側のベンチへと帰っていきました。


 そんな稀に見る投手戦が動いたのは、四回の表。

 聖峰は、粘りに粘った末に先頭の一番が四球で出塁。続く二番のバントで走者は二塁に到達し、この試合、両チームを通じて、初めて一死二塁という得点のチャンスを作ります。

 そして進塁打すら許されなかった三番打者ののちに左の打席に入ったのは、――四番、キャッチャー高梨ユウキ。

 三塁側アルプスの声援はいっそう大きくなり、マウンド上の山科カケルの顔には、これまでにない険しい表情が生まれていました。

 梛原トオタとともに突如高校球界に現れた高梨ユウキは、春の選抜が終わるころには、〝高校球界最高の巧打者〟と呼ばれるようになっていました。

 春の選抜四試合で残したその打率は、八割三分三厘。今大会もここまで七割を超える打率を残している聖峰の四番打者は、しかし、逃げずに勝負を挑んできた浦川第一のバッテリーに、ツーボールツーストライクと追い込まれてしまいます。

 ファールが続いたあとの八球目。

 浦川第一のバッテリーが選んだのは、ストライクからアウトローに外れるスライダー。並みの打者なら空振りを献上し、好打者でもファールにするのが精一杯というような絶妙なところにコントロールされたそのボールは、――高梨ユウキにとってみれば、懸命に追いかける遊撃手を嘲笑うかのように、その後方へ、ポトリと打球を落としてみせるには、特に難しくもないボールであったようでした。

 二死であったためにスタートの早かった二塁走者は、左翼手が打球を拾うころには、すでに、三塁を蹴って本塁へ向かっていました。走者の位置を認めた左翼手は、本塁をあきらめて、一塁に達していたユウキの進塁を防ぐために、二塁へ送球。走者は悠々と生還を果たして、――「0」が続いていたスコアボードに、初めて「1」という数字が刻まれます。

 聖峰の先制。

 塁上で右の拳を掲げてみせたユウキには、三塁側ベンチとアルプスから、惜しみない喝采が送られました。

 この聖峰の先制劇は、しかし一塁側アルプスを埋め尽くす浦川第一の応援団にとっては、それほど悲観するような出来事ではありませんでした。

 なぜなら、ここ二年間の公式戦で、浦川第一打線が五点以上を奪えなかったのは、一試合だけ――今年の選抜の準々決勝で、〝西の奪三振王〟のふたつ名で知られる前川ヒロアキから、九回で四点しか奪えなかった、たったの一試合だけだったからです。

 そんな経験からもたらされる楽観は、されど、四回、五回と、三つのアウトが積み上げられていくごとに、冷ややかな不安の色に蝕まれていきました。

 その不穏の要因になっていたのは、ほかの誰であろうはずもありません、聖峰学園のエース、梛原トオタという名の十八歳の少年でした。

 去年の秋まで高校球界では無名に等しかったこの右腕は、春の選抜では、一度のノーヒットノーランを含む三試合連続完封を達成。その圧倒的なパフォーマンスから、直後に急性虫垂炎を患わなければ、そして決勝まで勝ち進んでいれば、無類の強さで選抜を制した〝王者〟浦川第一も、その餌食になってしまっていたのではないかと、高校野球ファンの間では、まことしやかにささやかれるようになっていました。

 この噂は、もちろん浦川第一の関係者にも届いていました。彼らは、けれどもこの噂に対して、目くじらを立てるようなことはありませんでした。それどころか、監督自身が、「対戦できなかったことは残念だが、同時に幸運でもあった」と、質問してきた記者に対して、笑顔で公言したことさえありました。

 それは、積み重ねられた勝利ゆえの余裕でした。数多の投手の自尊心をただの砂塵に変えてきた、経験と実績に裏打ちされた傲慢でした。

 それは自然なことでした。〝王者〟にとって、相手を見下すのは当たり前のことです。見上げることはおろか、対等に見ることすらもよしとはされない行いです。

〝王者〟が相手を対等に見るのは、その地位を揺るがされている瞬間です。

〝王者〟が相手を見上げるときは、その王座を奪い取られたときのみです。

 ――六回まで、四球とエラーによるふたつの出塁。

 ――二十人が打席に立って、無安打、十二の三振。

 それは、浦川第一の関係者にとって、信じがたい光景でした。

 何かの間違いとしか思えない現実でした。

 不安は未来予想を強要します。

〝完封負け〟――それは、現世代の浦川第一が、一度も経験したことのない屈辱。

〝ノーヒットノーラン〟――それは、〝王者〟にあってはならない完全なる敗北。

 アルプスだけでなく、一塁側ベンチをも襲い始めたそんな不安を拭い去ったのは、高梨ユウキが、〝高校球界最高の巧打者〟とは呼ばれても、〝高校球界最高の打者〟とは呼ばれない所以になった、ひとりの少年の、――ひとりの〝天才〟のひと振りでした。

 彼の名前は都築ハジメと言いました。

 彼は、〝王者〟浦川第一で、史上初めて一年生で四番を任せられた少年でした。

 それは七回の裏で、一死走者なしの場面でした。

 カウントは、ワンボールワンストライク。

 ――三球目でした。

 バットを置いて走りだした彼は、間もなく、その右手を掲げました。

 それは、彼にしては珍しい行動でした。彼は、高校の公式戦で初めて本塁打を放ったときも、高校通算本塁打記録を塗り替えたときも、ベンチへ帰ってくるまでは、その喜びを、表に出すことはありませんでした。

 そんな彼が、打球がバックスクリーンを叩いたのを見届けると、走りながら、右手でガッツポーズを作りました。三塁ベースコーチの少年とは、非常に強そうなハイタッチを交わしました。そしてベンチに帰ってきた彼は、チームメイトから、いつも以上に手荒な祝福を与えられました。

 それは、〝王者〟が追いつめられていた証拠でした。

 それは、〝王者〟が息を吹き返した瞬間でした。

〝天才〟のひと振りは、不遜な、自信に満ちあふれた〝王者〟を復活させました。彼らは、自分たちは奈落を覗く断崖の絶壁にいるのではなく、すべてを見下ろす、何人の侵入も許さない天空の城の玉座にあるのだと、そう信じて疑わない独尊さを取り戻しました。

彼に続く五番打者にも、失われつつあった威厳が戻っていました。彼の顔には、はっきりとした自負が表れていました。他校であれば間違いなく打線の中心に据えられる彼は、何者も恐れない精神で打席に入りました。そしてバットをかまえました。

 ――そしてバットをかまえたまま、彼はアウトになりました。

 彼に続いた六番打者も、バットに空を切らせるのが精一杯でした。彼らは、しかしその顔から、戦意を失うことはありませんでした。相手は神に愛されてはいても、決して神の子ではないと――決して手に負えぬ相手ではないということを理解した、狩人の眼差しを失いませんでした。


 試合がふりだしに戻ったあとの八回の表――先制したあとはまったく見どころの作れない聖峰打線は、この回も、五回以降は四球による出塁をひとつ許しただけで、その走者も、併殺でベンチへ強制送還させた山科カケルの手によって、簡単に片づけられてしまいます。

 それならば、こちらもしっかり八回の裏を抑えて、九回の攻撃につなげよう――という聖峰学園の目論みは、されど、彼らのエースによって崩れ去ってしまいました。


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