Chapter-12 「百マイルのスライダー」
トオタの大暴投後の十回の裏。
聖峰の内野陣がそれぞれの守備位置に戻ると、一塁側のネクストバッターズサークルから、ひとりの少年が、その背に期待と祈りを背負って、右の打席へと歩いてきました。
彼の名前は、都築ハジメ。
〝王者〟浦川第一の四番打者で、将来の日本の四番とも言われている〝天才〟――。
この試合の彼の成績は、二打数一安打一打点。一本塁打で、ふたつの四球。
浦川第一の先発陣で唯一トオタから三振を奪われていない彼は、素振りを行って打席に入ると、右の肩にバットを乗せて、マウンドの上のトオタに、その精悍な顔を向けました。
「脚本の書き直しは急がなくていいんだぜ、神様」
マウンドのプレートに右足を付けたトオタは、左半身の姿勢で、ユウキのサインに目を留めます。
〝アウトローにまっすぐ。力入れてぎりぎり狙え〟
〝了解〟
一塁走者に目をやってから、トオタはセットポジションへ。一拍置いてから左脚を上げて、その左脚を大きく本塁方向へ踏み出して、トオタは、都築ハジメへの初球を投じます。
振り下ろされた右腕を離れたボールは、まっすぐに、ユウキのミットの――上を通過。ユウキと球審の頭上も越えたボールは、直接バックネットに当たると、ファウルゾーンを転がって、マスクを外したユウキに回収されます。
ユウキが振り向いたときには、すでに、一塁走者は二塁に到達。
「まんすー、まんすー」
ユウキに睨まれたトオタは、苦笑いを浮かべながら、ペロッとその舌を見せました。
〝どこ投げてんだノーコン〟
〝ごめんよシスコン〟
〝またオートパイロットのスイッチでも入ってるのか?〟
〝ようわからん。あと二、三球くらいは試さないと〟
自らの暴投で得点圏に走者を抱えたトオタは、ロジンバッグに右手で触れてから、マウンドのプレートに右足を置きました。
「つっても、試させてくれるバッターでもないんですがね、こいつは」
セットポジションに入りながら、トオタは、その黒色の双眸を二塁走者に。その顔を本塁に戻して、左脚を上げてからの、二球目。
アウトコースへの、緩いカーブ。
ストライクゾーンの端よりも、さらにボールひとつ分ほど外へ向かうそのボールは、――不意に現れたバットに襲われて、右翼方向へと弾き飛ばされます。
歓声に追いかけられた打球は、ライトポールの、右を通ってスタンドへ――。二種類のため息が、それぞれのアルプスから聞こえてきました。
「これは本当に狙いどおりなのか? 相棒」
新たなボールを受けとったトオタは、そのボールを手になじませてから、ユウキのサインを確認します。
〝チェンジアップをインローに。ボールにはするなよ〟
〝俺に死ねってか?〟
〝思いっきり腕を振れば大丈夫だ、死線をくぐる気で投げろ〟
「どうなっても知らないぞ?」
セットポジションに入ったトオタは、二塁を向いて、本塁に向き直って、それから投球動作を開始。
その右腕から放たれたボールは、ユウキの要求どおりの、インローへのチェンジアップ。
ストレートと同じ腕の振りから投じられたそのボールは、――トオタの危惧していたとおりにバットに強襲されて、金属音を残して左翼方向へ。
歓声を誘う打球は中空を駆け抜けて、レフトポールの――わずかに左側を通過してから、観衆の中へと消えていきます。
〝計画どおり〟
「嘘つくなシスコン、絶対ヒヤッとしたくせに」
ユウキから新しいボールを受けとって、それを手になじませたトオタは、ひとつ息をついてから、マウンドのプレートに右足を置きます。
〝インハイにまっすぐ。打てるところには投げるな。コントロール重視で行け〟
〝あいよ〟
セットポジションを取って、トオタは投球動作を開始。これまでと変わらないモーションから投じられたボールは、バットの妨害に出くわすこともなく、腰を上げて待っていたユウキのミットに捕らえられます。
ストライクゾーンを外れているので、球審はもちろんボールの判定。
スコアボードの球速表示は、「146km/h」。
これでカウントは、ツーボールツーストライク。
打席を外れた都築ハジメは素振りを行って、ユウキからの返球を受けとったトオタは、足元のロジンバッグに右手で触れました。
〝アウトコース一杯に緩いカーブ〟
〝無理。さっきのより内側とか心臓的にアウト過ぎる〟
〝大丈夫だって、こいつの狙いはストレートだから〟
〝ストレート狙いでも平然と変化球を柵越えさせるバッターなんだよ、そいつは〟
都築ハジメがタイムを要求して、彼は、その左足だけを、打席の外に出しました。ユウキは腰を下ろしたまま都築ハジメを窺っていて、彼の左足が打席に戻ると、そのマスクの下の双眸を、トオタに戻しました。
〝アウトローに最大出力のまっすぐ。暴投はやめろ〟
〝スライダーでなくて?〟
〝それがこいつの頭にあることを祈ろう〟
「神頼みはいやなんだがね」
セットポジションに入ったトオタは、ひとつ息を吐いてから二塁を向いて、本塁を向いてから、その左脚を上げました。
その右腕から放たれたボールは、進行方向に対して、逆回転を与えられたストレート。
それは、今回はユウキと球審の頭上ではなく、ユウキがミットをかまえているところを、一直線に目指します。
都築ハジメは――手を出さず、ボールはミットに悲鳴を上げさせます。
外野のスコアボードに「155km/h」を表示させたそのボールは、――しかし誘ったのは大歓声ではなく、とても大きな、安堵と落胆による、ため息の合唱でした。
球審の判定は、ストライクではなくボール。わずかに外と判定されたボールに、都築ハジメは息を吐いて、聖峰のバッテリーは、
〝ここを取ってくれるのは前の試合の球審だ〟
〝それより内側とかもう罰ゲームなんですが〟
彼ら以外には理解不能なサインで、そんなやりとりをしていました。
「フルカウントか。――ヤな雰囲気だ」
ひと呼吸置いて、マウンドのプレートに右足を付けたトオタは、望む未来の到来を希求する声援の中で、ユウキの出すサインに瞳を向けます。
〝百マイルのスライダー。低めならどこでもいい〟
〝無茶言うな。しかも歩かせる気か〟
〝集中し切ってるこいつと真っ向勝負は無理だ〟
〝それでも立ち向かうのがエースなんじゃないのか?〟
〝チームを勝たせるのもエースの仕事だ〟
タイムがかけられて、トオタはプレートから右足を外し、ユウキは右手でマスクの位置を調整します。
〝おまえの最速のスライダーを低めに。歩かせたくなきゃぎりぎり狙え〟
〝百マイルは無理だが?〟
〝百五十キロくらいは頑張れ、じゃなきゃ死ぬと思え〟
「了解、まだ死にたくないんで頑張りますよ」
トオタは胸の前で両手を静止させて、その姿勢のまま、まずは二塁走者に、それから、本塁でミットをかまえるユウキに、その黒色の双眼を向けます。そのかたわらには都築ハジメがいて、彼は、何ものにも侵しがたい空気をまとって、トオタの始動を待っていました。
「おとなしく座ってろよ、神様」
左脚を上げたトオタが、その投球動作を開始します。
ボールを持つ右手は後方へ、グローブをはめた左手は、左脚とともに前方へ向かいます。
一度下ろされた右手は上昇を始めて、大きく踏み出された左脚には、身体の重心が移動を開始。グローブを着けた左手は、右手の動きと連動するように胸に引きつけられて――、
そうして生み出された運動エネルギーは、右手の末端へと集中します。
トオタの右手を離れたボールの回転は、反時計回りのそれ。ボールは本塁に近づくにつれて、空気抵抗の偏差と、地球の重力に導かれて、トオタから見て左下へ、ユウキと都築ハジメから見て右下へと、その軌道を変えていくはずでした。
そのボールは、しかし直進しました。
その進路は、ストライクゾーンの、真ん中高目。
球速は、百四十キロ台の半ば――正確には、百四十四キロでした。
聞こえたのは金属音でした。
どこか冷涼なそれから生じた打球が向かうのは、ほぼ真正面。
その進路には、打球が生まれた場所から、およそ十八メートル離れたところにあるその通過点には、――ちょうど、ひとりの少年の頭部がありました。




