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Chapter-01 「それは去年の夏に終わったよ」

 聞こえたのは金属音でした。

 どこか涼しげなそれを追いかけたのは、垣間見える未来に対する歓喜の斉唱。

 熱気を震わせるそれらの声が見届けたのは、白球がバックスクリーンを叩く、待ち望んだ未来が訪れたことを告げる、低く簡素な原始的な音色の生誕。

 ――歓声。

 幾万もの声は大地を揺らし、空気を震わせます。震源地は一塁側アルプス付近でしたが、その人工的な揺れは、静まり返っている三塁側アルプスにも届いていました。

 三塁側アルプスにも届いているのですから、その揺れが、マウンドの上に立っている、細身の身体に、白い半袖のユニフォームを身に着けている、ひとりの少年にも届いていないはずがありません。彼は、しかし気丈に振る舞うことも、膝に手をついて、落胆をあらわにすることもありませんでした。

 彼は、ただ自らの右手を見下ろしていました。それ以外のことになどまったく関心がないかのように、自らの利き手を見つめて、それを、何度か閉じたり開いたりさせていました。その動作におかしなところは見受けられません。けれども、彼はそのことに納得がいかないのか、今度は、指を不規則に動かしてみたり、プラプラと、上下に振ってみたりし始めました。

「――なんだ? 右手の反抗期でも始まったのか?」

 そんなマウンドの上の少年に声をかけたのは、少年と同じ白い半袖のユニフォームの上に、藍色のプロテクターを着けているひとりの少年でした。

 本塁からやってきたその少年は、先の少年よりも、いくぶん大人びた顔を持っています。左手にはキャッチャーミットを着けていて、右手には、ファールチップなどから装着者の顔を守る、プロテクターと同色のマスクを提げていました。

「それは去年の夏に終わったよ」

 右手を観察している少年が、右手を観察したまま答えました。

「じゃあ、何をそんなに気にしてるんだ?」

 右手を観察中の人間から視線を外した少年は、外野の向こうにそびえる巨大なスコアボードに、そのこげ茶色の双眸を向けました。

「今度は倦怠期でもやってきたのか?」

「いや、なんかこう」

 プラプラと右手を左右に振った少年は、顔を上げると、本塁からやってきた少年と同じものに、巨大なスコアボードに、その黒色の瞳を向けました。

「今ならこう、なんかものすごい感じの魔球を投げられそうな感じがこう、ふつふつとね」

「俺は魔球よりもふつうの変化球を投げてほしかったんだがな」

「しゃーないじゃん、曲がったことが大嫌いなボールだったんだから」

「なるほど、だからバックスクリーン一直線だったわけか」

 本塁からやってきた少年は、右手に提げていたマスクを左のわきに挟みました。そうして空いた右の手で、今度は、キャッチャーミットからボールを取りだしました。

「次の五番の狙いは外のまっすぐだ。さっき見逃して三振くらったから、〝まっすぐにはめっぽう強い〟って評判の名誉挽回を企んでるはずだ。だから、」

「緩い変化球でカウントを稼いで、外に逃げる速いボールを引っかけさせる、――と」

 左手のグローブでボールを受けとった少年が言葉を引き継ぐと、

「いや、まっすぐ三つで三振を取る。次の六番も」

 その顔をマスクで覆った少年は、先ほどまでと変わらぬ口調で言いきりました。

「ここはインパクトのある連続三振がほしい。球場全体が、さっきの一発を忘れるくらいのな。ついでに五番と六番の自信を粉砕しておけると、あとが楽になる」

「ずいぶん簡単に言ってくれるじゃないか」

「簡単だと思うから簡単に言ったんだよ。――違うのか?」

 訊ねられた少年は、肩をすくめて、足元のロジンバッグを拾いました。

「まあ、まだ同点だ」

 その顔にマスクを着けた少年は、先ほどよりも、いくらか軽快な口調の声で続けます。

「うちの四番の先制タイムリーがあったからな、おまえが点をやらなきゃ負けることはない」

「まだ勝ってるはずだったんですがね」

 拾ったロジンバッグを右手で遊ばせながら、マウンドの上の少年は、ふたたび、その目を巨大なスコアボードに向けました。

「あっちの四番みたいに、こっちの四番も柵越え打ってれば」

「しょうがないだろう、柵越え狙える球なんて一球も来なかったんだから」

 そんな応答を返すと、本塁からやってきた少年は、踵を返してから、キャッチャーミットで隣の少年の背中を叩きました。そして本塁へと足を向けながら言いました。

「トオタ」

「なんだよ、相棒」

「とっとと勝って終わらせるぞ、この試合」

「合点承知の助」

 そう応えたマウンドの上の少年は、――梛原トオタは、巨大なスコアボードに目を留めたまま、「さて、どうしますかね」と、誰にも届かない声で、ひとりそうつぶやきました。


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