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屈強そうな男達二人の前で、カレンは凍り付く。
危険信号発令。ピンチ、ピンチ、ピンチ。遅刻なんて問題じゃないほどの。
春だと言うのに、体の内側からじっとりと汗が滲み出てくる。
——けど、いざとなったらあのケータイで……
恐る恐るポケットに手を入れたカレンは、絶望感に打ち拉がれた。
なかった。例の青い携帯電話は、テーブルの上。忘れ物。逃げる事は、出来ない。
「そうなんだな?」
ゆっくりとしたその声は、落ち着いていることを示していた。しかし、その目には溢れんばかりの憎しみが見て取れる。自らの感情を押さえ込んでいる。もしこの男達に理性というものが存在しなければ、カレンの人生はこの場で幕を閉じていただろう。
——怖い。大西さん。怖いよ。助けて、大西さん。
意味が無いと知っていながら、心の中で自分の最も尊敬する、頼りになる人物の名前を呼んでしまう。
「そうなんだな?」
繰り返されるゆっくりとしたその口調は、カレンの気持ちを絶望の淵へと落としていく。
自分が最も未だかつて感じた事のないほどの恐怖と絶望に、カレンは全く声を上げることが出来ず、コクリと頷いてしまった。
***
「遠いな……」
走りながら、彼、木原谷伸也は呟く。伸也は無表情で走っている。まるで遅刻のことなど気にしていないように。だが、走る速さは半端じゃなく、その速さで百メートル走をやっても何の差し支えもなさそうだった。
たしかこっちだったよな? ――伸也はどう考えても通学路ではない路地に足を進める。今までアパートからほとんど一歩も出ずの暮らしだったので、学校の視察など、行っているはずがない。
そんな路地を進んでいると、伸也の目に異様な光景が飛び込んできた。伸也はその歩みを止め、近くにあった電柱の陰に身を隠す。
「おい、早く乗れ!」
外車らしき漆黒の車と、どこからどう見てもそれに似合わない屈強そうな男二人と制服姿の金髪の少女。
二人の屈強そうな男のうち、一人は周りを見回し、一人は金髪の少女を車に無理矢理乗せようとしている。金髪の少女は無言なままで抵抗していた。
幸い、自分の姿は見られていないようだ。——伸也は男達の反応からそう感じ、選択を迫られる。
助けるか、逃げるか。
——よし、じゃあ、武器になるような棒的なものがあったら助けよう。
出来る限り自分の身を危険に晒したくない伸也は、自己弁護の意という後ろ向きな気持ちで周りを見回す。すると、————
「あったあーーくっそーー。あったーー」
小声で腹から絞り出す。鉄パイプ。喧嘩にはうってつけだ。
なんでだ。なんでこういう状況の時だけ、鉄パイプがあるんだ。鉄パイプなんて普段見た事もないのに。——そう思い伸也は空を仰ぐ。
「はあ」
今度は見つかることを気にせず、素の声で溜息をつく。
「誰だ!?」
周りを見回していた方の男の耳が、その音を素早く拾ったようだ。
「すいません。俺です」
バッ、と男達がこちらを向く。伸也は屈強そうな男二人の視界の中へと足を進めた。ドキドキ。心音がみるみるうちに高まっていく。伸也はお手上げのポーズをとり、背中の後ろに鉄パイプを隠しながら進んでいく。
「なんだよ、ガキか……」
屈強な男二人があからさまに安堵の空気を流した。
“助けて”
女の子が目で訴えているのが分かる。よーしわかった、今行くから待ってろ。——伸也は心の中でだけ格好の良いセリフを言いながら、進む。
「おい待て。何の用だ!」
無言で歩み続ける伸也に、男の一人は問いかけた。当然の問いだ。そしてその問いに、伸也は、普段はすることのない——満面の笑みで答えた。
「いや〜。その子、可愛いなあ〜って思って。おじさん達、仲間に入れてくんない? 色々、やるんでしょ?」
この言葉には、伸也以外の全員が呆然とした。次の瞬間には、女の子に憎しみと敵意のこもった眼差しで、キッ、と睨まれる。“おじさん”と呼ばれた男達は、まだ呆然としたままだ。
伸也は、少女の眼差しは完全に無視し、男達へと歩を進める。
――よし、射程距離。
できるだけ近づいた時、伸也は全く表情を変えずに、後ろの鉄パイプを思いっきり振り下ろした。
「がッ!?」
声にならない声を上げて男の一人が倒れる。鉄パイプは、男の脳天にクリティカルヒットしていた。剣道をしていたことと、冷静さを超えて、冷酷さもある伸也の性格から、躊躇いなく人を殴ることができたのだ。――問題はここからである。伸也はちらりともう一人を見た。今の男は不意打ちだったのでなんとかなったが、もう一人は既に完全な警戒態勢に入っている。
「おい! てめえ! どういうことだ!」
屈強そうな男は目に見えて狼狽する。そんな男に伸也は、内心ではびくびくしながらも、鉄パイプを振り上げる。
「なめんなこの野郎ッッ!!」
もう一人と同じ目に遭いたくなかったのか、男は言葉の最後の方を叫びにしながら、懐に入れた手を素早く出した。
パン。
乾いた音がゆっくりと鳴る。続いて、少女の悲鳴が。
伸也は、――木原谷伸也は、見た。弾丸が、自分の身に向かってくるのを。しかし、そんな驚異的な反射神経に、体がついていかない。
——もう、終わったんだ。俺の人生。
ただ、それだけを思い、静かに目を閉じた。