「毒を見落とした」と婚約破棄された毒見役令嬢ですが、あの杯に毒はございませんでした。嘘つきは三人、真犯人は一人、全部舌で暴きます
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episode_number: 1
title: "毒はございませんでした"
status: "draft"
synopsis: "婚約破棄された毒見役令嬢が、宴席の弁明で三人の偽証と真犯人を暴き、婚約者の真意に辿り着く。一話完結短編。"
characters_appearing:
- "ヴィオレッタ"
- "クロード"
- "リゼット"
- "マリアンヌ"
written_at: "2026-09-21"
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「お前の毒見は、もう必要ない」
広間が静まりました。
燭台の蝋が弾ける音だけが残ります。百を超える招待客が、息を止めています。壇上のクロード殿下が、わたくしを見下ろしています。
石と蝋と、人の汗の匂いがします。広間の空気を舌の裏で転がすと、緊張のにがみが混じっています。大勢の人が息を詰めると、空気はこういう味になります。
わたくしはラヴェール侯爵家の娘、ヴィオレッタと申します。毒見役の家に生まれました。
毒見役というのは、毒を見つける仕事ではございません。先に口にして、安全だと証明する仕事です。ラヴェール家は二百年、ヴァランティーヌ公爵家の食卓を守ってまいりました。わたくしで八代目になります。
十八年、舌を鍛えてまいりました。水に溶かした砒素の、百の一を当てます。林檎酒に混ぜた鈴蘭の根を一口で吐き出します。干した石蕗の葉を煎じたものと、ただの番茶を、目隠しで分けます。間違えたことは、ございません。
その舌が安全だと宣言した杯で、クロード殿下の妹君リゼット様が倒れた。
三日前の夜会のことでございます。
その夜、屋敷に戻って、わたくしはまず自分の舌を疑いました。
十八年間違えていない。けれど人はいつか間違えます。暗い寝室の天井を見つめながら、杯の味を何度も辿りました。酸。糖。タンニン。樽材のバニリン。微量の鉄。それだけです。何度辿っても、それだけでした。
舌が間違えていないなら、毒以外の原因がある。リゼット様は確かに倒れた。毒がないのに倒れた。答えは一つしかございません。
翌朝、裏口から公爵家の厨房に向かいました。罷免された毒見役が敷地に入ることは許されません。けれど厨房長のフィリップは鍵を開けてくれました。母がかつて毒見を務めていた頃からこの厨房にいる人です。
「配膳の記録を見せてください」
フィリップは黙って帳面を差し出しました。指でたどると、リゼット様のお席に葡萄酒が運ばれたのは四の刻。証人のエマは三の刻に毒見を見たと言いましたが、三の刻には杯はまだ厨房にございます。
帳面を戻すとき、もう一つ目に留まったものがありました。棚の端に使用人の採用名簿が見えたのです。フィリップに断って開かせてもらうと、エマとカトリーヌの名前が半年前のところに並んでいます。どちらもブラシュ男爵家の推薦状つきでした。
偶然にしては揃いすぎています。
厨房を出て、裏庭の石段に腰を下ろしました。考えを整理する必要がありました。
毒はなかった。リゼット様は確かに倒れた。証人は三人。うち二人はブラシュ家と繋がっている。
毒でないなら、何がリゼット様を倒したのか。カトリーヌの言った症状を思い返します。顔の赤み。呼吸の荒れ。嘔吐はない。痙攣もない。毒物の症状としては合いません。どの毒にも当てはまらないのです。
けれど、毒でなければ合う症状があります。
リゼット様が八歳のとき、庭師が間違えて月白花を食卓の花瓶に活けたことがありました。リゼット様は花粉を吸い込んで高熱を出されました。顔が赤くなり、まぶたが腫れ、じんましんが出て、呼吸が荒くなった。モンテーニュ先生がアレルギーと診断して以来、公爵家では月白花を禁じています。わたくしが七歳のとき、母から教わりました。毒見役が覚えるべき禁忌のひとつです。
あの晩の症状と、八歳の発作の症状は同じです。
もしリゼット様のそばに月白花が置かれていたなら、毒がなくても倒れます。そしてそれを知っている者が意図的に花を置いたなら、毒見の失敗に見せかけることができる。
侍医を遠ざけたのも辻褄が合います。モンテーニュ先生ならアレルギーだと即座に見抜く。だから毒物に詳しくない外科医に診させた。
あとは、夜会で月白花が実際に使われたことを証明すればよい。装花を手配した者が分かれば、犯人に辿り着けます。公爵家の宴席に装花を納入するのは、王都に三軒しかない指定の花屋のいずれかです。三日前の夜会を担当した店は、宴席の案内状に名前がありました。
二日目に、花屋リュカスの店を訪ねました。
帳場の奥の仕事場は花の匂いで満ちていました。百合と薔薇と、乾燥させた満天星の甘い粉の匂い。その奥にかすかに青い匂いが混じっています。月白花です。リゼット様のそばに置いてはならない花ですから、わたくしは誰よりも敏く気づきます。
「三日前の宴席用に、月白花を扱いましたか」
店主のリュカスがうなずきました。
「元の注文は牡丹と白百合だけでした。けれど前日の夕方に追加の指示が来まして。リゼット様のお席にだけ月白花を三本、と」
「どなたから」
「若い男が来ました。ブラシュ男爵家のお嬢様のご命令だと。名前は聞いておりませんが、右の頬に大きな黒子のある男でした」
わたくしはその言葉を紙に書きとめました。
「注文の控えはございますか」
「口頭の指示でしたので、書き付けは残っておりません。ですがわたくしの帳面には、追加注文として月白花三本と記録しております」
リュカスが帳面を見せてくれました。日付と花の名前と本数が、几帳面な字で記されています。発注者の欄にはブラシュ男爵家使者とだけありました。
証拠としては弱い。花屋の帳面と主人の記憶だけです。相手が否認すれば水掛け論になりかねません。もう一人、あの従者を見た者がいなければ。
店を出たとき、手が震えていることに気づきました。怒りではございません。恐ろしかったのです。花屋の主人の言葉だけでは証拠に足りない。二百年の名誉が、わたくしの代で途切れます。
空気を舌で転がしました。乾いた秋の風に、パン屋の煙と石畳を洗った水の匂いが混じっていました。毒の味はしません。けれど胸の奥がきゅっと酸っぱくなっています。不安の味です。
帰り道、もう一つだけ寄る場所がありました。ジャンヌの住む長屋です。リゼット様付きの侍女で、幼い頃からお仕えしている古い方です。ジャンヌだけは、エマやカトリーヌとは違います。ブラシュ家の推薦ではない。
長屋の戸口で、わたくしはジャンヌを待ちました。夕刻に戻ってきたジャンヌの顔は、泣き腫らした跡がありました。
「少しだけ、お時間をいただけますか」
ジャンヌは何も答えませんでした。けれど戸口を開けてくれました。
狭い部屋には、リゼット様から貰ったらしい刺繍の額が壁にかかっていました。針の目が細かく、淡い色の花の模様です。月白花ではありません。百合でした。長い間お仕えしてきた方なのだと分かります。リゼット様がお好きな花を、ジャンヌは知っている。禁じられた花も知っている。
「三日前の夜会で、リゼット様のお席に花を届けた者の顔を覚えていますか」
ジャンヌの顔が、ひどく歪みました。答えは出ませんでした。何かを飲み込むように喉が動いて、そのまま黙り込みました。
「無理にとは申しません。けれど、明日の弁明の場で、同じことをお尋ねするかもしれません」
わたくしは頭を下げて、長屋を出ました。ジャンヌが何を知っているか、顔を見れば分かりました。あの人は嘘が下手です。泣いたあとの目は、悲しみだけではなく、罪悪感の味がしました。
その夜、寝台の上で天井を見つめました。証拠の筋道は見えています。花屋の証言、配膳の記録、採用名簿、ジャンヌの表情。けれどそれらを繋ぐ線は細い。花屋の記憶が曖昧だと言われたら崩れます。ジャンヌが黙ったまま法廷に立てば、花屋の言葉を裏づける者がいなくなります。
二百年です。わたくしの曽祖母も、祖母も、母も、この舌を守ってきました。七代の重みが、胸の上に乗っています。
目を閉じて、唇の裏で空気を転がしました。自分の部屋の空気は、塵と書物の紙と、少しだけ蝋燭の煤の味がします。毒の味はしません。わたくしの舌は、間違えていません。
それだけを支えにして、目を閉じました。浅い眠りでした。
三日目の朝、支度をしていると母が部屋に来ました。
「お前の舌を信じなさい」
鏡越しに目が合いました。
「信じております」
「嘘をおっしゃい。一度は疑ったでしょう。顔を見れば分かります」
母もまた毒見役の家に生まれた人です。娘の顔に不安を読むくらいのことは朝飯前でございましょう。
「疑ったのではなく、確かめに行きました」
「それでよいのです」
母の手がわたくしの肩を叩きました。思ったより強い手でした。
「行ってらっしゃい」
懐に花屋の証言の控えと、配膳記録の写しがございます。あとは百人の前で言葉にするだけです。
馬車の中で、母の手の感触を思い出しました。強い手でした。七代目の手です。わたくしは八代目です。
馬車が公爵家の門をくぐりました。石段を上がると、広間の扉が両開きに開きます。蝋燭の灯りと、人の体温と、緊張を含んだ空気が押し寄せてきました。舌の裏で転がすと、にがみがあります。
わたくしは歩きました。百人の視線の中を、まっすぐに。懐の書類が胸に当たるたびに、紙の角が小さく刺さります。証拠の重さは紙の重さではありません。それを言葉にしたときに、聞く者の心をどれだけ動かせるかです。
「証人を」
クロード殿下の声に応じて、三人の侍女が壇の前に並びました。
一人目はエマと名乗りました。厨房付きの侍女です。背の低い丸顔の娘で、半年前にブラシュ男爵家の推薦で採用された者です。声が震えていましたが、暗記した文章を読むように話しました。
「わたくしは見ておりました。ヴィオレッタ様が杯を口にされ、うなずかれました。安全だと。その杯をリゼット様がお飲みになって、じきに倒れられたのでございます」
二人目はカトリーヌ。配膳係です。エマと同じくブラシュ家の推薦で半年前から公爵家に勤めています。こちらは声が大きく、堂々としていました。
「リゼット様は顔が真っ赤になり、呼吸が荒くなられました。毒の症状に間違いございません」
三人目はジャンヌ。リゼット様付きの侍女です。この方だけはリゼット様が幼い頃からお仕えしている古い侍女です。泣いたあとのような赤い目をしていました。
「リゼット様はいまも臥せっておいでです。医師は毒だと断じました。ヴィオレッタ様が毒を見落とされなければ、こんなことには」
三人の声が止むと、広間に沈黙が降りました。
わたくしの父が、隣で拳を握っています。母は扇の陰で唇を噛んでいます。二百年の名誉が、この広間で砕けようとしています。
壇上を見ました。クロード殿下の隣にマリアンヌ・ド・ブラシュ様が立っていらっしゃいます。男爵令嬢です。社交期に入ってからこの半年、頻繁に公爵家の催しにお顔を出されるようになった方です。今夜の宴席の装飾と段取りを取り仕切ったのも、マリアンヌ様だと聞いております。
マリアンヌ様がこちらを見ていました。目が合うと、哀れむような顔をなさいました。
「ヴィオレッタ・ラヴェール」
クロード殿下がわたくしの名を呼びました。
「弁明があれば聞く。なければ、婚約は今日で終わりだ」
広間の視線が集まります。百を超える目が、わたくしの次の言葉を待っています。同情の目はひとつもありません。毒見役が毒を見落としたのです。庇う者などいるはずがありません。
わたくしは息を整えました。広間の空気を、もう一度舌で転がしました。
にがみの奥に、微かに甘い匂いが混じっています。花の匂いです。広間の隅に活けられた白い花から漂ってきます。
この花の名前を、わたくしは知っています。
弁明はいたしません。弁明というのは、自分は悪くないと主張することです。わたくしが申し上げたいのは、そういうことではございません。
「殿下。弁明ではなく、お尋ねをしてもよろしいでしょうか」
クロード殿下の眉が、ほんの少し動きました。それ以外の表情は変わりませんでした。
「許す」
「ありがとうございます。では、まず一つ。三日前の夜に使われた杯を、お持ちいただけますか」
広間がざわつきました。杯はとうに片付けられているはずです。毒見の失敗と判定された場合、杯は毒を含む危険物として翌日に処分されるのが慣例です。
ところがクロード殿下は、侍従に目配せをしました。
侍従が布に包まれた杯を持ってまいりました。
杯が、残っている。
わたくしはそのとき初めて、小さな違和感をおぼえました。処分されるはずのものが、三日も保管されている。けれど今は、その疑問を脇に置きました。先にやるべきことがございます。
布が外されます。銀の杯です。持ち手に蔦の意匠が彫られた、公爵家の来客用の杯です。中には乾いた染みが残っています。三日前に注がれた葡萄酒の痕でした。
「お手を触れることをお許しいただけますか」
殿下がうなずきました。
わたくしは杯を手に取りました。右手です。毒見は必ず右手で行います。左手は記録用の筆を持つためです。十八年、一度も変えたことがございません。
杯の縁に唇をつけました。
乾いた葡萄酒の残り香が舌に触れます。三日経っておりますので、揮発した成分は飛んでいます。残っているのは糖分と酸と、樽の木の風味です。
南部のラングレー産の赤でした。酸味が強く、果実の甘みが後から追いかけてくる種類です。渋みはやや控えめ。樽の中で二年から三年。若い酒です。三日前のリゼット様の席にこの酒が選ばれたのは、リゼット様が渋みの強い酒を苦手とされるからです。配膳係なら知っているはずの事実です。
舌の上で、味の地図を広げます。
葡萄酒の成分を一つずつ剥がしていきます。酸。糖。タンニン。微量の酸化した鉄。樽材のバニリン。
それだけです。
砒素の金属味はありません。鈴蘭の甘い後味もありません。トリカブトの痺れもありません。鉛白の収斂も、水銀の灼ける味も、石蕗の苦みも、何一つございません。
わたくしは杯を卓に戻しました。
「毒はございません」
広間が揺れました。
「何を」
マリアンヌ様の声が、壇上から飛びました。
「リゼット様が倒れたのは事実です。毒がなかったなどと、苦し紛れの弁解を」
「はい。事実です。リゼット様は倒れられました」
わたくしは壇上を見上げました。
「けれど、毒で倒れたのではございません」
広間が再び静まります。わたくしは三人の証人に向き直りました。
「エマ。先ほどの証言で、あなたはわたくしが杯を口にして安全だとうなずいた場面を見たと仰いました。それは何の刻のことでしたか」
「三の刻でございます」
「配膳記録によれば、リゼット様のお席に葡萄酒が運ばれたのは四の刻です」
エマの顔から血の気が引きました。
「三の刻にはまだ、杯は厨房にございました。あなたが三の刻にわたくしの毒見を見ることは、できません」
「それは……わたくしの記憶違いで」
「記憶違いは構いません。では、もう一つお尋ねします。わたくしが杯を手に取った場面を見たと仰いましたが、わたくしはどちらの手で杯を持っておりましたか」
エマが唇を舐めました。考えている顔です。
「左手でございました」
「わたくしは右利きです。毒見は必ず右手で行います。先ほどこの場で杯を手に取りましたのも右手です。左手は記録用の筆を持つためでございます。十八年、一度も変えたことがありません」
広間がかすかにざわめきました。
「つまり、エマ。あなたはわたくしが杯を口にする場面を見ていらっしゃらない。三の刻という時間も、左手という利き手も、どちらも事実と異なります」
エマの目に涙が浮かびました。けれどわたくしは手を止めません。
「カトリーヌ」
二人目の証人が、背筋を伸ばしました。
「あなたはリゼット様が顔を赤くされ、呼吸が荒くなったと仰いました。それを毒の症状だと断じました」
「はい、その通りです」
「いくつかお聞きします。リゼット様が倒れたとき、お顔の赤みは首まで広がっておりましたか。それとも頬だけでしたか」
「首まで……いえ、頬と額だったと思います」
「目の周りは腫れておりましたか」
カトリーヌがまばたきをしました。
「腫れておりました。まぶたのあたりが」
「嘔吐はございましたか」
「いいえ」
「痙攣は」
「ございません」
「では、じんましんのような発疹は」
「はい。首のあたりに赤い斑が出ておりました」
「ありがとうございます。カトリーヌ、あなたの観察は正確です。ただし結論が誤っています」
カトリーヌが怪訝な顔をしました。
「経口の毒で人が倒れる場合、嘔吐か痙攣のどちらかが先に起こります。砒素なら激しい嘔吐。トリカブトなら口の痺れと痙攣。鈴蘭なら心臓の乱れ。あなたが挙げた症状のどれにも合致いたしません」
わたくしは指を折りました。
「顔と額の赤み。まぶたの腫れ。嘔吐なし。痙攣なし。首のじんましん。呼吸が荒い」
「この六つの症状が同時に出る原因は、毒ではございません」
カトリーヌの目が泳ぎました。
「ジャンヌ」
三人目の証人が、体をこわばらせました。ジャンヌは先ほどから一度もマリアンヌ様の方を見ていません。足元ばかり見ています。
「医師が毒だと断じたと仰いましたね。その医師のお名前を教えてくださいますか」
「バルベール先生です」
「バルベール先生は外科医でございます。骨を接ぎ、傷を縫う方です。毒物の診断は専門外です。公爵家の侍医であるモンテーニュ先生は、なぜ呼ばれなかったのですか」
「モンテーニュ先生はその晩、不在でいらしたと聞いております」
「不在だったのは事実です。なぜ不在だったか、ご存じですか」
ジャンヌが首を振りました。
「モンテーニュ先生は三日前の夕方に、急な往診の依頼を受けて屋敷を出られました。依頼主はブラシュ男爵家です」
広間にどよめきが走りました。
「ブラシュ男爵家が往診を依頼した。だから公爵家の侍医が不在になった。その結果、毒物に詳しくない外科医が診察することになり、症状を毒と誤診した」
わたくしは壇上のマリアンヌ様を見ました。
「アレルギーでございます」
広間が凍りました。
「毒見役は、担当するご家族の体質をすべて把握しております。食べられないもの、触れてはならないもの、近づけてはならないもの。リゼット様には一つ、公爵家の中で広く知られた禁忌がございます」
わたくしは壁際の花瓶を指しました。白い六弁の花が、銀の瓶に三本活けられています。
「月白花です。リゼット様は八歳のとき、この花の花粉を吸い込んで高熱をお出しになりました。顔が赤くなり、まぶたが腫れ、全身にじんましんが出て、呼吸が荒くなりました。モンテーニュ先生が花粉のアレルギーと診断されました。以来、公爵家ではこの花を飾ることを禁じております」
今夜の広間の隅にも月白花が活けられています。きれいな花です。香りも良い。けれどリゼット様のいらっしゃる場所に置いてはならない花です。
「三日前の夜会で、リゼット様のお席から一歩の距離に、月白花が飾られておりました。宴が進むにつれて花粉が舞い、リゼット様はアレルギーの発作を起こされたのです。杯の葡萄酒とは無関係です」
マリアンヌ様の顔が強張りました。
「装花の手配は宴席の主催が行います。三日前の夜会の段取りを仕切ったのはマリアンヌ様です」
「花の選定は花屋に一任しただけです」
マリアンヌ様が声を上げました。
「わたくしが月白花を指定した証拠があるのですか」
「ございます。花屋リュカスの主人に確認いたしました。元の注文は牡丹と白百合のみでした。その後、前日の夕方にブラシュ男爵家の従者が店を訪れ、リゼット様のお席にだけ月白花を三本飾るようにと追加の指示を出しています」
マリアンヌ様の目が揺れました。けれどすぐに表情を整えました。この方は存外に頭の回る方でした。
「花屋の聞き間違いでしょう。従者など誰でも名乗れます。わたくしの家の名を騙った者がいたとしても、わたくしが命じた証拠にはなりません」
広間のどこかで小さな声が上がりました。そうだ、と。客の何人かがうなずいています。従者の口上だけでは証拠に足りない。もっともな話です。
わたくしの指先が冷たくなりました。花屋を出たときと同じ震えです。ここで止まれば終わりだと、舌の奥が酸っぱく教えてくれました。
「では、もう一つお尋ねいたします」
わたくしはジャンヌに向き直りました。
「ジャンヌ。あなたはリゼット様付きの侍女です。三日前の夜会で、リゼット様のお席に花が届いたとき、あなたはそばにいらしたはずです。花を運んできた者の顔を覚えていますか」
ジャンヌの肩が震えました。足元を見つめたまま、長い間黙っていました。広間の誰もが息を詰めて待っています。
やがて、絞り出すような声が漏れました。
「右の頬に、大きな黒子のある若い男でした」
広間がどよめきました。花屋の主人の証言と同じ人物です。
「その従者は、なんと名乗りましたか」
「ブラシュ家の者だと。お嬢様から言づかった、リゼット様のお席を華やかにするようにと」
ジャンヌの目から涙がこぼれました。
「わたくしは月白花だと分かっておりました。リゼット様に近づけてはならない花だと知っておりました。けれどブラシュ家のお嬢様のご命令だと言われて、逆らえなかったのでございます」
広間が静まりました。先ほどとは質の違う沈黙です。
「花屋の主人とリゼット様付きの侍女が、同じ人物を見ています」
マリアンヌ様が一歩、前に出ました。声が震えていましたが、まだ折れてはいませんでした。
「わたくしは装花を任されただけです。従者が余計な指示を出したのかもしれません。月白花がリゼット様に害を及ぼすなど、知りませんでした」
広間の何人かが、再びうなずきかけました。知らなかったのなら罪ではない。もっともな話に聞こえます。
「では、お尋ねいたします」
わたくしは一拍おいて、続けました。
「月白花がリゼット様に害を及ぼすとご存じなかったのであれば、モンテーニュ先生を遠ざける理由がございません。アレルギーの発作が起きることを予測していなければ、侍医が正しい診断を下すことも困るはずがない。けれど実際には、夜会の前にブラシュ男爵家が偽の往診依頼を出してモンテーニュ先生を屋敷から遠ざけました」
広間が、三度目の沈黙に落ちました。
「月白花を置くことと、侍医を遠ざけることは、別々の偶然では説明がつきません。どちらも一人の人間が同じ目的のために仕組んだことです」
マリアンヌ様の顔から、最後の色が消えました。
わたくしは壇上を見上げました。
「リゼット様のアレルギーをご存じだった。月白花の花粉で倒れることをご存じだった。その症状が毒に似ていることもご存じだった。だから侍医を屋敷から遠ざけ、毒物に詳しくない外科医に診察させた。ご自分の推薦で公爵家に入れたエマとカトリーヌには偽証を覚えさせ、リゼット様付きのジャンヌには花を置くよう命じて口を塞いだ。すべて、わたくしの毒見が失敗だったように見せかけるためです」
わたくしの声が、広間に響きます。
「目的は、わたくしの排除です」
マリアンヌ様の目が、すがるようにクロード殿下に向きました。
殿下は、何も仰いませんでした。
衛兵が壇上に歩み寄りました。
「ブラシュ男爵令嬢マリアンヌ。偽証の教唆、傷害の疑いで、お預かりいたします」
マリアンヌ様が連れ出されるのを、わたくしは見ておりました。彼女が広間の扉の前で立ち止まり、振り返りました。
わたくしと目が合いました。
その目に浮かんでいたのは、怒りではありませんでした。泣きそうな目でした。手が届かなかったのだと思います。欲しいものに手が届かないとき、人は道を間違えます。
扉が閉まりました。
広間に、長い沈黙が落ちました。
わたくしは壇上のクロード殿下を見上げました。
殿下の表情に、驚きがありません。
マリアンヌ様の正体が暴かれた。証人の嘘が崩れた。妹が毒ではなくアレルギーで倒れたと判明した。これだけのことが起きて、殿下のお顔には、驚きが一片も浮かんでいないのです。
「殿下」
「何だ」
「謎はすべて解けましたが、一つだけ、分からないことがございます」
殿下の目が、わずかに細くなりました。
「あの杯が三日間保管されていたこと。毒物と判定された杯は翌日に処分されるのが慣例です。それが残っていた。処分を止めたのは、殿下でございますね」
殿下は答えませんでした。
「もう一つ。毒見の失敗で罷免される者に、弁明の機会は与えられません。それが家令の定めた規則です。その規則を曲げて、わたくしにお尋ねの場を設けてくださったのも、殿下です」
殿下は壇を降りていらっしゃいました。わたくしの前に立ちました。間近で見ると、殿下の目の下に薄い隈がありました。この三日、あまり眠れなかったのだと思います。
「ブラシュ家の動きには気づいていた」
低い声でした。広間に響かせるためではなく、わたくしに伝えるための声です。
「侍医に偽の往診依頼が来た時点で、何かが起きると分かっていた。だが証拠がなかった。花屋に辿り着いたのは、お前だ。俺ではない」
「杯を残してくださったのは」
「毒がないことを証明できるのは、お前の舌だけだ。杯を残しておけば、お前が証明してくれる。そう思った」
「弁明の機会を」
「お前は弁明などしない。分かっていた。お前は必ず、尋ねる。証拠を調べる。真実に辿り着く。その場が必要だった」
わたくしは殿下のお顔を見つめました。
「殿下。では、婚約破棄の宣言も」
「あれは本心が混じっている」
殿下の声が、少しだけ固くなりました。
「ブラシュの令嬢は、お前が邪魔だから排除しようとした。成功すれば次はもっと直接的な手を使う。お前自身に毒を盛るかもしれない。婚約を解消すれば、お前を狙う理由がなくなる」
「わたくしを遠ざけるために」
「遠ざけたかった。安全なところに」
殿下が、わたくしから目を逸らしました。
この方は昔からそうです。大切なことを仰るときに、目を逸らされます。十八年、毒見の傍で見てまいりましたから、知っています。
「殿下」
「何だ」
「ばかなことを仰います」
殿下が、まばたきをしました。
「毒見役を遠ざけてどうなさるのです。わたくし以外に、リゼット様の月白花のアレルギーを覚えている者が何人おりますか。侍医のモンテーニュ先生と、わたくしの母と、わたくしだけです。わたくしがいなければ、今夜の真実は誰にも分かりませんでした」
「だから、賭けだったと言っている」
「賭けではございません」
わたくしは、はっきりと申し上げました。
「杯を残してくださった時点で、殿下はわたくしの舌を信じてくださっていた。わたくしの言葉に価値がないなどと、一度も思っていらっしゃらなかった」
殿下が、目を戻されました。わたくしの顔を見ています。
「次に何かございましたら、一人で決めないでくださいませ。わたくしは毒見役です。危ないものを先に口にするのが仕事です。わたくしを守るために、わたくしの仕事を取り上げないでくださいませ」
殿下がしばらく黙っていらっしゃいました。
「婚約破棄は撤回する」
「ありがとうございます」
「初めから無効だ。書類も出していない」
「存じております。殿下は書類をお出しになる前にわたくしに確認をとる方です。今回は確認がございませんでしたので、正式な手続きには進んでいないと思っておりました」
殿下の耳が、ほんの少し赤くなりました。壇上であれほど冷然としていた方の耳が赤くなるのは、滅多にないことです。
「お前は本当に、何でも分かるのだな」
「味と匂いだけでございます」
「嘘をつくな。それ以外も分かっている」
わたくしは少し、笑いました。
「では一つ、申し上げてもよろしいですか」
「言え」
「殿下の今のお顔は、平常よりわずかに赤みが差しております」
「それは」
「花粉ではございませんね」
殿下が息を吐きました。笑ったのだと思います。声は出ていませんでしたが、肩が小さく動いていました。
「花粉ではない」
「存じております」
広間に拍手が起こりました。わたくしは拍手の音に驚いて壇上から目を離しました。百を超える招待客が、立ち上がって手を打ってくださっています。
父がわたくしのもとに歩いてまいりました。泣いてはいませんでしたが、鼻が赤くなっていました。母は扇で顔を隠したまま近づいてきて、わたくしの手を握りました。扇の向こう側が濡れていました。
二百年の名誉が、元に戻りました。
けれどわたくしにとって、名誉よりも大切なことがございました。
殿下が杯を残してくださったこと。
わたくしの舌を信じてくださったこと。
毒見役の言葉には価値があると、あの方は知っていてくださった。
窓の向こうで、母が馬車に乗るのが見えました。扇はもう閉じています。馬車が並んで走り出すとき、母の馬車の窓から手だけが出て、小さく振られました。今朝、わたくしの肩を叩いた手です。
帰りの馬車の中で、父が訊きました。
「花屋の証言は、いつ取り付けた」
「二日目でございます」
「三日間で、よく調べたな」
「舌が間違えるはずがないのです。杯に毒がなかったことは、倒れたと聞いた瞬間から分かっておりました。わたくしが間違えるはずがないのに間違えたと言われたなら、嘘をついているのはわたくしではなく相手の方です。そこから辿れば、行き着きます」
「一度も迷わなかったか」
父の声が低くなりました。
「迷いました」
正直に申し上げました。
「初めの夜に、自分の舌を疑いました。花屋を出たときに、証拠が足りないと思いました。ジャンヌが黙っていたら終わりだと思いました」
「だが、止まらなかった」
「舌が止めてくれませんでした。毒がなかったと分かっている舌が、諦めることを許してくれなかったのです」
父が鼻を鳴らしました。笑ったのか泣いたのか、馬車の中は暗くて分かりませんでした。
「お前は母に似た」
「母上も毒見役でございますもの」
「違う。舌ではなく、気性が似た。調べずにはおれないところが、そっくりだ」
馬車の窓から、夜風が入ってまいりました。秋の初めの匂いがします。枯れ始めた草と、どこかの竈から立ちのぼる煙と、遠くの空に溜まった雨の匂いです。
舌の上で、風の味を確かめました。
毒はございませんでした。




