私が救世主!?
数日前のこと。
私は、ただぼーっと目の前の湖を眺めていた。
頬を撫でるそよ風が心地よく、水面に反射する陽光がきらきらと宝石のように輝いている。
「きれいだな~……」
考えるともなく、そんな淡い感傷に浸りながら、私はただその光景に意識を委ねていた。
しかし。
背後から響いた鋭い声が、その穏やかな時間を唐突に切り裂いた。
「お前は誰だ! どこから来た! そこは女神様の聖域の中だぞ、早くそこから出なさい!」
あまりに突然の怒声に、私の意識は一気にはっきりと覚醒した。
「すみません……っ、聖域だって気がつかなくて」
反射的に口を突いて出た言い訳に、相手はさらにボリュームを上げた。
「気がつかないわけがあるかっ!」
地響きのような大声に、思わず背筋が縮み上がる。
恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは、ボロボロのローブを纏ったみすぼらしい格好の男だった。
年齢は不詳だが、その眼光だけは、射抜くように鋭い。
「とにかく、そこから出なさい」
促されるままに立ち上がって、ようやく私は自分の置かれた状況に気づいた。
私は、いつの間にか、きれいに掃除された石造りの祭壇の中に座り込んでいたのだ。
「すみません……こんな場所だったんですね」
「だから聖域の中だって言っただろうが」
男は苛立たしげに鼻を鳴らした。
そもそも、ここはどこなのだろう。
私はさっきまで、自分の部屋にいたはずなのに。
「あの、ところでここはどこですか? 私は家で鏡を見ていただけなんですけど……」
「ここはアルセリア王国の古都、アクアリシアだ」
聞き覚えのない名前に戸惑っていると、男が怪訝そうに私を凝視した。
「お前の名前は何て言うんだ。呼びにくくて仕方がない」
「私の名前はエリです。……おじさんの名前は?」
「俺はオーエン。賢者オーエンだ」
自信たっぷりに名乗るその姿に、私はつい毒づいてしまった。
「おじさん、自分で『賢者』って言っちゃう人なんですね」
「悪いか! 人々は尊敬を込めて俺をそう呼ぶんだ。名前がわかったんだから『おじさん』じゃなくて『オーエンさん』と呼べ、エリ」
ムキになって言い返す様子が少しおかしくて、私はわざとからかうように口角を上げた。
「オーエンさんって、案外怒りっぽい人なんですね」
すると、オーエンさんはさらにイライラを募らせた口調で吐き捨てた。
「そんなことはない! ……全く、救世主かと思って来てみれば、とんでもないじゃじゃ馬娘じゃないか」
「救世主……? 何ですか、それ」
その言葉に、彼は表情を改めて、重々しく口を開いた。
「古からの言い伝えがあるんだ。『この世界に困難が訪れるとき、この湖の畔に救国の魔法使いが現れる』とな。俺はそれを信じて、ずっと見張っていたんだ」
彼はそこで一度言葉を切り、私を忌々しそうに見つめる。
「そこにお前が現れた。てっきり『来たっ』と思ったのだがな。……容姿だけは、伝えられている女神様と同じなのだが」
「女神様と、おんなじ……?」
心当たりがなさすぎて、私は首を傾げた。
「ああ、そうだ。金髪碧眼で、透き通るような白い肌。女神様の絵姿そのものだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
そんなはずはない。
「げっ……何言ってるの。私は黒髪黒目の日本人よ? 鼻が低くて地黒なのがコンプレックスだったのに!」
「何を言っている。……あそこの湖に、自分の姿を映してみるがいい」
私は弾かれたように湖畔へ駆け寄り、静かな水面を覗き込んだ。
「……っ! これ、は……」
そこに映っていたのは、私の知らない、あまりにも美しい「誰か」の姿だった。
あまりの衝撃に頭の中が真っ白になり、私はそのまま、深い闇の中へと意識を手放した。




