井蛙
私は井の中に住むカエルである。
ときに人間たちの間には、無知蒙昧のして見識の狭いやからの事を、
『井の中の蛙』と揶揄し、哂う風潮があると聞く。
これは無礼極まりない蔑視、偏見である。
そもそも、かような事を言う者は、
井中に暮らすカエルのともがらの生涯を何も知らぬのであろう。
我らは井中に生まれ、井中に暮らし、井中に死す一族である。
すなわち、我らにとって井の中こそ全世界である。
井外の事は、ただ日が現れてやがて消えるという事の他は、
何も知らぬし思いもよらぬ。
この事を承知した上で、なお我らを嘲笑する者がいるならば、彼こそ愚かである。
なぜなら、井外の事を望むすべも持たぬ者に対して、自らの知るところを大いに振るい、
無知を救おうとも思わずに、ただ自身より劣った者の姿を指して哂うというのは、
まさに何も知らぬ者のなす事だからである。
それでも我らを蔑する人間がいるならば、それに言おう。
自分は何でも知っているつもりで良い気分かもしれないが、
我らほど、井の中について詳しく知る種族はないのである。
各々の井戸に宿るカエルは、その井戸に生じる水草の葉の数まで、
正確に言いあてるであろう。
昔、ある聖人は、どんなに下らぬことでも、自分より優れた人には、
礼節をもって遇したというではないか。
ならば本当の賢人とは、井の中の蛙に対しても、
決してあなどりの心を持たぬ人を指して言うのであろう。
逆に我らを哂う連中は、救いようのない愚物である。
我らは棲む井戸の事について、何者よりも博識だと自負しているが、
それでも唯ひとつだけ、知らぬ事がある。
それは、この井戸がいつ掘られたか、という事である。
はじめに井戸があって、そこに我らが棲みつく、という物事の順序がある以上、
これはいかんともし難い。
ただ水草の伸び具合、石の古さ、それに苔むした様子から、推測するばかりである。
これを誰か暇な人間が調べて、我らより優位に立ち、悦に入らんとするならば、
それこそ愚の骨頂。
我らより賢いつもりで、本質は我らと何も変わらぬ。
そもそも人間には自分よりも小さく弱いものを見下す姿勢がある。
自分たちだけが大きく発展してきたのを見て、
まるで他に生き物はないかのごとく、驕り高ぶる事はなはだしい。
彼ら以外の生物など、食い物同然に見ているのである。
だから、たとえ人間が井戸に桶を投げ込んで、下にいたカエルを潰したとしても、
そこには何の同情もおこらない。ただ水が汚れただの穢いだの、と騒ぐばかりである。
かりにも1つの命を奪っておきながら、それに罪悪を感じる気配もないとは、
高慢な事この上ない。
この態度は、すぐにでも改めるべきである。
すくなくとも、人間同士の殺しあいに目を向ける余裕があるのならば、
人によって迷惑を蒙っている他の生物の思いも斟酌するべきではないだろうか。
ここまで読んだならば、『井の中の蛙』に対する心象にも、
幾分変化が生じてきたことであろう。
ここに至ってもまだ誤謬に頑迷固陋とする者がいるとしたら、
それは身の程を知らぬやからである。
私にそれを憤る気持ちはない。ただ憐れむのみである。
自分の優位なるを信じて、かえってその卑劣なるをさらし、
しかも全然それに気がつく事もない。
その愚直な様に私は憐憫の情を禁じえないのである。
できる事であれば、その者らに事の道理を説き、真理を諭して、
無知なる暗闇に包まれたその視界を晴らしたい。
我らに対する嘲笑がまったくの見当はずれである事を知らしめてやりたい。
しかし、それはできない。
私は1匹の井蛙に過ぎないからである。
人間と会話する事もできないし、そもそも深い井戸のあなぐらから、
這い出る事さえかなわないのだから。
ただ、我らが眷族が、人間たちによって不当に貶められていると知って、
それにあて、この書を記すのみである。
願わくば、人間たちがみな、目を覚まさんことを。