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「・・死傷者数、ゼロだと?」
カイルの指し示した一行の数字に、おもわず、マティアスはがたり、と椅子から立ち上がる。
マティアスの美しい銀の長髪と一緒に、何枚のも書類がひらひらと、執務室に舞い上がる。
美しい紺色の目は、紙に記されたゼロという数字から離す事ができなかった。
「第六に、一体なにがあったんだ」
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ここ辺境ディトマスの地は、魔獣の多く発生する魔の谷に面する、断崖絶壁の谷に築かれた辺境の要塞の地だ。
この地は全部で20の断崖の要塞に守られており、国防の最前線として、常に魔獣との熾烈な戦いが繰り広げられている。
マティアスは、この地の辺境伯の跡継ぎで、毎年おこなわれるこの慰霊祭での式典の責任者でもある。
ディトマス辺境領を治めているのは、戦場の猛虎とその名を馳せてきたディトマス辺境伯だ。 だが先の大スタンピートでバッファロー型の大型魔獣に胸を突かれより、伯爵は次第に激しく運動すると息切れがする症状になやまされるようになり、近年ではディトマス要塞の防御は、その嫡子であるマティアスが担当する。
要塞の被害状況を正確に国の重鎮に報告し、国から然るべき人員の補填と予算を訴えることが、この慰霊祭の大きな目的の一つでもある
慰霊祭に合わせ、マティアスは執務室で全ての要塞の被害状況を最終確認の最中だ。
マティアスは、戦場の猛虎と呼ばれた父と同じく、断崖のユキヒョウと渾名されるほどの、断崖戦での猛者だ。 ユキヒョウのごとく紺色の瞳を持ち、銀の長髪を翻して戦うその美しい姿からも、そう呼ばれている。
(15要塞が一番ひどいな・・この半年で死傷者20名、行方不明者7名、スタンピートの合計が3回)
全ての被害状況の数字を明確に、内容を把握する事は、マティアスの大切な責務の一つでもある。
一枚の書類の上に記されると、死傷者の数はただの数字にしかすぎない。
だがこの数字一つ一つに、人生があり、家族があり、未来があったはずだ。
そして、この要塞での国防の貴重な戦いの犠牲の上に、このアストリア王国の安寧は成り立つのだ。
マティアスは深く、書類に認められた数字をその指でなぞり、執務室に響くほどの大きなため息をついた。
「ははは、お前失恋でもしたみたいなそんな大きなため息、辛気臭いな! ため息をつくと幸せは逃げるというぞ、ほら、笑っておけ!」
ガハハとマティアスの後ろで笑い声が聞こえた。
笑い声は近づいてきて、マティアスの後ろに回り込んでユキヒョウのごとく美しい、長い銀髪をぐしゃぐしゃにする。
この黒髪の大男はマティアスの右腕として子供時代から共に育ち、共に幾多の死線を乗り越えてきた幼馴染の騎士・カイルだ。
「ああカイルか。もう騎士の断崖訓練は終わったのか? 随分早かったな」
カイルはマティアスの心許せる、希少な友人だ。国の最強と名高い辺境騎士団長の息子として、マティアスと共に戦場に赴き、お互い命を預けあっているような幼馴染の関係に、辺境伯の息子だろうが遠慮ない。
カイルにわしゃわしゃと髪の毛を好きにさせながら、マティアスは、手元の書類を読み込んでいく。
(第4要塞は、再起不能者が多いな。ここには優先的に物資の補充が必要か。第8の被害は去年よりマシだが、その代わりに第9要塞が相当やられている)
カイルは、マティアスの手元の書類を覗き込みながら、言った。
「なんだその書類を見てたのかマティアス、なあ、お前は気がついたか? 第6要塞」
マティアスは不思議そうにカイルに振り返った。
「ん? なんだ? スタンピートの回数も、駆逐魔獣数も大体去年と同じだ。なにかあったのか?」
「ここだ」
カイルはマティアスの問いに、その長い指で書類の一点を指差した。
「・・死傷者数、ゼロだと?」
カイルの指し示した一行の数字に、おもわず、マティアスはがたり、と思いマホガニーの椅子から立ち上がる。 机に積まれていた何枚のも書類が、雪のようにひらひらと、執務室に舞い上がった。
「第6に、一体なにがあったんだ」
カイルは言った。
「ああ、辺境騎士団で、第6要塞の事は噂になっていたんだ。 俺も気になって調べてみたが、本当に訓練からメンツから、全部去年と全て同じだ。書類上で確認できた変更は、年寄りの馬番が引退して若い男の馬番に変わったのと、門番が2人配置替え、それから洗濯係が一人異動になって、騎士の見習いが一人増えたくらいだ。普通の要塞と何も変わらない。」
もう下調べはしてある、とばかりにカイルは第6の詳細な収支の報告書を手渡した。
「・・そんなわけがあるか」
マティアスはおもわず唸った。
死傷者ゼロ。
それは、マティアスが辺境の防衛責任者となってから、全ての要塞の記録において、初めてみる数字。
マティアスが求めてやまない、夢の数字だ。
「第六はあそこは場所も普通だし、隊が何か特別な訓練でも始めたのか? カイル、教えてくれ、なにか知っているか?」
カイルはガリガリと頭を掻いて言った。
「いや、この報告書を見る限り、全く完全に通常運転だ。気になって書記官に30年前からの報告書を全部洗って細かく調べてもらった、この1年で何か変わったように見えるところは全くない」
「では一体この1年で第6になにがあったんだ?」
「魔獣は通常通りの発生数、ということは、聖女があの要塞で生まれたわけでも、土地に変化があったわけでもなさそうだ。みろ、隣の第5要塞の方が、魔獣の総駆逐数は低いくらいだ。通常運転だ。何も変わっていない」
では、なぜ。
カイルはマティアスの隣のマホガニーの椅子にどっかりと座ると、もう一度丁寧に数字を確認しながら、マティアスに言った。
「来週の慰霊祭には、第6からも隊長がここに来て、式典に参加するだろう? お前が直接聞いてみてくれないか」




