子どもを産むことについて【哲学エッセイ】――なぜ議論は噛み合わないのか
子どもを産むかどうかについて考えてみたい。
これに関して、かなりの論争がある。最近では反出生主義という言葉が流行り始めており、生まれない方がよかったという感覚が生じている。
しかし議論を見ていると、どうもお互いがかみ合っていないように感じた。このエッセイでは、具体例を通してその論争を今一度整理し、前提条件のずれを認識したうえで、一般的に子どもを産むことについての私見を述べていく。
まず、その具体例から考えてみたい。この問題が出てくるシーンとしては、子どもが親に向かってお金がないのにどうして自分を産んだのか聞く場面が真っ先に挙げられるだろう。
これは金銭面や環境に対する怒りから来るものと、一般論としての疑問という2つの側面がある。後者については別に親に言わなくても、個人の考え方として持っている人も多い。これについては、後ほど僕の意見も交えながら触れたい。
前者について、子どもを産む際にどうして金銭の計算をしないのか。実はここには、一言では言い表せない多くの事情が人によって存在している。おそらく、この点が議論に亀裂を生んでいるのではないか。
すべてを説明することは到底できないため、ここでは擁護派と反対派の2つの立場でそれぞれどのように見ているのかを述べたい。
まず、擁護派について。ここにおいても多くの事情がある。よく言われるのは、仕方なかったということ。
ここでいう仕方ないとは外因的なもの、すなわち母親が望んでいなかったケースが挙げられる。なぜこのような曖昧な書き方をするかというと、ここを詳しく書いてしまうと人によっては大きなショックを受けてしまう可能性があるからだ。それは到底僕には計り知れないものである。
もしこのニュアンスが伝わらないのであれば、中絶の理由の一覧などをネットで調べてみてほしい。そうすれば多少は僕の言いたいことが伝わると思う。
どこからを生命とするかはいまだに多くの議論があり、受精卵となった時点で生命とする人、実際にこの世に生まれ落ちるまでは生命じゃないと考える人がいて、それによって中絶についての考えも大きく異なる。おそらく、ある程度形として分かる状態であれば生命だととらえる人が多数なのではないか。
もし、自分がやむをえない事情ですでに子どもを宿してしまっていると分かった場合、おろせない人も多いだろう。もちろん金銭的な事情もある。医療行為である時点でお金は必要になる。将来的に考えれば今お金を払った方が良いと考える人もいるだろうが、そのまとまったお金が今出せるのかは人によって大きく異なる前提を忘れてはならない。
擁護派についての2つ目の立場は、人間という生き物の生殖本能について言及する立場だ。人間は動物の内の1種であり、他の動物と同じように生殖することでその数を増やしてきた。これはどんなに科学が進歩しても変わらない現実である。
人間と他の動物の違いとして、精神(到底この一言で収まるものではないが)が挙げられる。知能と言い換えてもニュアンスとしては伝わるだろう。人間は考えることができる。
しかし、本能の部分は変わらない。3大欲求が存在し、それを満たすために動く姿は動物と同じである。その1つである生殖本能を果たすというのは、人間の持つ生物としての根本的な義務であると考えている人も意外といる。
そしてその考え方は、金銭などではなくより深い問題となってくるので、自分が子どもを産んで子孫を残していくことが種としての生存本能に基づくものなのだと彼らは言うだろう。
少し生物的な話に寄りすぎたので、別の意味で子孫を残す意義を感じている人々を挙げたい。それは文化的要因である。今まで先祖たちが積み上げてきた伝統を、自分の代で終わらせるわけにはいかない、後世へと繋げていく必要がある。
こちらのほうがしっくりくる人も多いのではないだろうか。親戚の集まり、先祖の墓参り…これらを経験したことがある人は多いだろう。そのような血の繋がりを今後も繋げていきたいという願いが、彼らにはある。
文化的要因で言えば、よく聞くのは子どもがいないことを親戚や親に責められるという問題だ。最近では減ったと言われているが、依然その状況は存在している。「早く孫の顔が見たい」と言われたことがある人はピンとくるだろう。そういった周囲からのプレッシャーが、早く子どもを産まなければという責任感を助長し、金銭よりも深い使命感へと変化していくのだ。
似たような意味で世間体もある。子どもがいない夫婦を差別するような発言をしたり怪訝な顔をしたりする人も、まだ一定数いる。ここについても私見を述べたいところだが、ここではこれ以上踏み込まないでおく。
以上のような擁護派に対し、反対派もいる。昔から反対派は存在していたが、その声が強まるようになってきたのは昨今の反出生主義ブームが大きいだろう。彼らの主張はおおむね一致しているように見受けられる。
子どもの幸せを考えたときに、なぜ環境が整っていないのに産むのか。不幸な子どもを増やすだけではないかという立場だ。ここについては擁護派からも一部反論がある。子どもの幸せを決める指標はお金だけではないと。
しかし反対派も、それは理解していることが多い。反対派が本当に言いたいのは、その選択肢すら与えないのは違うだろうということだ。お金があったとしても幸せになるとは限らないという真の命題から、お金がなくてもいいという命題は導き出せない。この主張を理解したうえで考えていく必要がある。
また、もう1つの意見もある。子どもをそもそも生まなくていいんじゃないかという意見だ。これについては反出生主義の議論の根幹にも関わってくる。誤解を避けるため、ここでは触れないことにする。この節は、あくまで金銭的余裕がない状況で子どもを産むことについて論じるものであるためだ。
以上の擁護派、反対派の主張を見比べたときに、話している前提が違っていることに気づくだろう。擁護派の1つ目の立場であるやむを得ない状況というのは、既に子どもがお腹の中にいて産むかどうかという瀬戸際の話をしている。だからこそより現実的な生命倫理の問題が絡んでくる。
しかし、反対派の主張はその前である。そういった状況ではなく、という前置きがあってもいいかもしれない。環境(経済状況含む)が整っていない状態で子どもを産むかどうか、ではなく作るかどうかについて話しているのだ。だからこそここはぶつかってもお互いがお互いをあまり理解できないままに終わってしまう。
生物的、文化的な理由についてもそうだ。理想論として擁護する立場と、現実状況から反対する立場とでは、そもそも議論の前提が異なっている。この前提の違いを理解しない限り、議論は噛み合わない。まず理想論の是非を整理し、その上で現実問題へと議論を拡張していく必要がある。
また、子どもが親にそれを尋ねるという部分にも問題がある。先ほど述べた前提のずれにもつながるが、子どもがそのような疑問を親にぶつけるという状況は基本的に既に育てられた後だということだ。
環境が悪いと言っても人によって大きく差がある。それを比べてしまうとすべての子どもで異なる。例えば虐待や育児放棄のような育てていない場合、子どもがなんで産んだのかという発言を親にすることは筋が通っている。筋が通っているというだけで受け取ってもらえるかは別であるが。
一方で、衣食住はあるがそれ以外の部分で大きく制約を受けている場合。例えば教育費やプライバシーなどの問題があるが、これは親の姿を見てから発言を考える必要がある。親が自分のお金を削っても、子どものためにお金を捻出している場合、その思いやりをすべて踏みにじるような発言となってしまうからだ。親がそれを全く考えずに贅沢してその結果子どもの経済状況が悪くなっている場合はこの限りではない。
これを聞いて、いやそれでも根本的に産んだことが間違いじゃないかと思う人は、日本の養育費問題に鑑みても多いだろう。
しかし、そうした一般論的な考えは親ではなく世間に向けて発信していくべきではないだろうか。親はその行動を後悔し、その上で不完全さを抱えながらも努力して子どもを育てている可能性が高いからだ。
もちろん当事者としてはそれすら許せないという人もいるだろう。どうしても納得がいかないなら、親子間での議論の余地はある。
しかし、行動というのは一度起こしてしまうと変えられない。だとすれば、今後そのような行動をしないために、世間に対して今一度問いかけるというのが大きなはたらきを持つのではないだろうか。
議論という意味でも、こうした問題を感情同士のぶつかり合いとして処理してしまうと、本質を見失うリスクをはらんでいる。
さて、ここで世間に対しての問いかけとしての反出生主義を考えていこう。今までの議論でもその点は多く含まれていた。生物や文化、子供の幸福についてはまさにここの根幹といっても過言ではない。
僕は若干、功利主義的に人生の幸福を捉えている。どういうことかと言うと、人生においての良いこと悪いことを量的、質的な総量として捉えているのだ。
生きている中で、良いこと、悪いことは必ず存在する。これは主観的なもので構わない。簡単に言うと、美味しいものを食べれば基本嬉しいし怪我をしたら基本悲しい。人生はその連続であると考えている。
今は直感的な話をしたが、もっと深堀りすると人生で最も楽しかった経験と一番苦しかった経験がある。僕は苦しかった経験というのが精神的なものであり、それはかなり僕の人生を苛んだ。その後、楽しいことはあった。これは事実だ。
しかし、その楽しいことがあったからといって、結局苦しかった当時の重みというのは完全には解消されないなと感じた。
「人生生きていれば楽しいことがあるから生きろ!」という言葉があまり好きではない。確かにこれは事実なのだが、生きていればその分辛く苦しいことも多い。それを無視して楽しいことだけ摂取しろというのは、人によってできるできないに大きな差があるのではないか。僕はできない方である。
そして、それは子どもも同じである。子どもだって意思を持った1人の人間だ。産んだからと言って子どもの考えていることは完全には理解できないし、そこに干渉する権利は親といえどない。
そして子どもも同じように、人生を歩んでいく。その中で楽しいこと悲しいことがある。どちらが大きいかは誰にもわからない。だからこそ産む価値があると考える人は多いと感じる。それは産むことをやめる理由にはならないと。
しかしよく考えてみてほしい。子どもにとって楽しいことが多いのか悲しいことが多いのかが分からないというのは確かに事実だ。しかし、それがどちらであっても親を含む他の人間が責任を取ることはできないのだ。産まれなければ責任という話は出てこないし、不幸な子どもが増えることは100%ない。だって産まないのだから。当たり前だが子どもの意思も介在しない。
今話した意見についても反論は多く生じるだろう。それは構わない。大事なのは、その価値観を自分の中で何度も考えたうえで、パートナー同士で相談すること。そしてそれだけではなく、将来の子どもの生活をできる限り想像していくことだ。自分の幸せが子どもと同じとは限らない。考えることには限界がある。それでも、少しでも歩み寄っていく姿勢が、もし子どもを産んだ時に幸せになってもらうことができる唯一の希望ではないだろうか。
最後に、僕の主張は不完全である。僕個人に限らず、この議論全体が不完全であると言ってもいいかもしれない。この文章を読んで何か思ったことがあれば、コメントとして残してくれると嬉しい。僕もそれについて考えるし、他の人も考えることができる。あくまで議論なので相手への思いやりは忘れずに、それであれば自分の意見を隠さずに言うことはとても大事なことである。
「誰かが考えればいいのではなく、自分でも考えることが世界を変えていくのだ」
何のまとまりもないエッセイでした。ノスケ
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