インモウラル
(注意)全篇通して下ネタです。苦手な方はご注意下さい。
子供の頃から気になっていた。そう、チン毛のことだ。
階段を下りると、改札までの通路に売店が見えた。その向かいにトイレがあった。次に乗り継ぐと三十分以上は電車に揺られることになる。どうしよう。わずかな尿意。人波に流されるようにして通路を改札へと歩く最中、逡巡さえもラッシュ時にはその流れを大きく阻害する。もうコレを逃すと会社に着くまで出来ないだろうと意識すると、尿意も強まってくるような気がするから不思議だ。私は人の波から外れた。
電車が駅に着いてすぐ、しかも通勤ラッシュ時ということもあって、トイレの中は混み合っていた。小便器が一つだけあいている。同じように勤務先に向かう背広の男達と肩を並べた。タテ長の白い便器の中を覗くと、思わず眉根が寄った。
やっぱりここもか…… 夥しいまでのチン毛だ。
絡み合う縮れ毛が溜まっている。亀裂のよう…… そう瑕疵だ。利用者の誰もに清々しく用を足させるという本来の便器のレゾンデートルは、こうなるとそれを全うしていない。チャックを下ろす。すると私の陰部からもまた、一本陰毛が舞い落ちた。群れの最後尾に加わる。こうやってまた増えていく。だけど思う。本当に? 本当にそれだけなのか? それだけでこの雲霞のような群れが形成されうるのか? 誰か故意に抜いているヤツがいるんじゃないか? チラリと隣を見やる。私よりも幾分背の高い中年の男は、気まずそうに視線を逸らし、半歩便器に近づいた。
ありえないことではない。眉毛やスネ毛、体の体毛を抜く人間は実は多い。ストレスが原因だとか聞いたことがある。ならばそこには恐らく何かしらの発散効果があるのだろう。有り体に言えば気持ちいいのだろう。スカッとするのだろう。眉やスネ、或いは鼻毛でその快感が得られるというのなら、より敏感で快楽中枢を刺激しやすい、ジョイスティックの周りに生えている毛を引き毟って快感が得られない道理はないはずだ。
「抜いているんだろう? そうだろう?」
いつの間にか、思考は口をついていて、隣の吊り革にぶら下がっていた女子高生が無理矢理に人を押し退けて通路を遠ざかって行った。
気になる。仕事中に毎日十面はクリアしている麻雀ソリティアが今日は三面で躓いた。このままでは仕事も手につかない。
黒だ。誰か抜いているヤツが絶対にいるはずだ。そうでなければああまではならない。だがしかし、毎回毎回来る人間来る人間が一本づつチン毛を不可抗力で落としていったとしたらありえないことではないのか。いや、騙されない。掃除のオバサンが掃除をしたすぐその後にチン毛が散乱している便器を見たことがある。だが確証がない。確固たる動かぬ証拠がない。全ては憶測でしかない。全ての人間が小便をしているのをつぶさに観察することも出来ない。便器の裏で張り付いて見ていたら簡単に捕まってしまう。だけど気になる。何か手はないか。確かめる方法は……
チン毛を抜いている瞬間を…… 観察?
「そうだ! その手があったか!」
頭の中に電気が走ったような閃きを感じて、手の平を打ち合わせると、隣で週刊誌を読んでいた青年がゴミでも見るような一瞥を残して席を立った。
日曜日。間断なく乗客のある休日ではあるが、こと駅構内のトイレとなると、利用者はまばらでエアーポケットを見つけるのにそれほど苦労することはなかった。誰も見ていないことを確認して個室に入る。長丁場になりそうだ。人心地つく間もなく、コンビニで買ったおにぎりと緑茶のペットボトルを備え付けの棚に置いて、上着のポケットからキリを取り出す。安全キャップを取り外すと、音を立てないように木製の扉にキュルキュルと穴を開けていく。慎重に、慎重に。汗が滲む手は幾度となくキリを取り落としそうになる。木を掘削する小さな音。
やがてキリの先に手ごたえがなくなる。よし、貫通した。また慎重にキリを引き抜くと、扉には米粒大の穴が開いていた。
最初にやってきたのは男子学生。部活か学習塾の帰りだろうか、大きなボストンバッグを肩にかけ、やりにくそうに股間をまさぐっている。行け! チン毛を引っこ抜け!
少年はおかしな動作は何一つ見せずに用を足してトイレを出て行った。ちなみに手を洗わなかった。
次にやってきたのは壮年の男性。頭髪は見事に後頭部まで禿げきっており、それこそチン毛のようなクセのある残骸を未練たらしく生やしている。お前か! ぶちかませ!
男性もまた何一つ常人と違う動きを見せることなく小用を足した。やはり手は洗わなかった。
子供の頃からの疑問が氷解すると思うと、何か不思議な高揚感がある。行列の出来る飲食店に並んでいるような心境だ。いずれは必ず自分の番がやってくる。私の心に、自分の思い過ごしかもしれないという迷いはもうない。不惑とはよく言ったものだ。私は今年で四十を迎える。だから私の心にあるのは、待望の瞬間を想う高鳴りだけ。早く来い! 私は間違っていなかったと、私の苦労は無駄ではなかったと。報いよ!
夜も更けてきて、午後の九時を回った頃、久しぶりの獲物がかかった。妙にガタイの良い、ガラの悪そうな男だ。虎柄のシャツを着こなして様になっている。堅気ではないかもしれない。だが私にはヤクザだろうが、チン毛を引っこ抜いてさえしてくれれば関係ない。今日はこれがラストチャンスかもしれない。唾を飲み込む喉仏の動きさえ憚られて、鼻を擦りつけるようにして穴を覗き込んだ。
いきなりだった。小便を放出する前に、明らかに不自然な手の動き。それは照準を合わせるためでは絶対ない不必要な動き。髪の先を引っ張り上げるような上下運動。おまけにはっきり見えた。大きく開いた股の間から、便器へと降り注ぐ大量の黒。やりやがった! コイツやりやがった!
気がつくと、私は手の平を強く握りこんでいて、爪を立てた部分だけ白く変色していた。そうだ、私は白でアイツは黒だ。ついに見つけた。確固たる証拠。私の推測はやはり間違ってなどいなかった。
しかし、次の瞬間…… 私の興奮は一気に冷め、胸の動悸は質を変える。
男性がこちらを見た。確かに、いや、それどころかこちらに近づいてくる。反射的に身を反らして、覗き穴から顔を離す。しかしそれは何の意味もなかった。
「おい! 中に居るヤツ出て来い!」
やってしまった。視界が白み、頭がちかちかする。それなのに思考は駆け巡っている。見つかった。相手はどう見ても穏やかな人種ではない。下手をすると埋められるかもしれない。いや、よしんば生き延びたとしても、地獄だ。大手建設会社社員、男子トイレを覗き、逮捕。これではまるで変質者だ。妻は何と言うだろうか。下手をすると埋められるかもしれない。今年十二になる娘は…… 同僚は……
「おい、聞こえてんだろう? 早く出て来い」
嫌だ。しかしそんな心の叫びは当然に無視され、ドアが蹴破られる。三十代くらいだろうか、色眼鏡をかけた男が湯気でも出そうな剣幕で私を睨みつけていた。
私が何をしたというのだろう。ただ純粋な好奇心からチン毛の謎を探っていただけなのに。どうしてこうなってしまうんだろう。そもそも他人の迷惑も顧みず、所構わずチン毛を撒き散らしている輩に私を裁く権利があるのだろうか。
「このチン毛野郎が。釈放しやがれ」
口の中だけで呟く。色眼鏡が蛍光灯の光に反射して嗜虐の光を放ったようにも見えた。
「何か言ったか?」
ここは所謂やくざの事務所。ただ思っていたより悪趣味ではなく、どちらかというとオフィス然としている。整然と机が並び、コピー機まで置いてある。ワンフロアを貸しきっているようで、ただとても広い。昨今のやくざ者のアジトはそこまであからさまではないのかもしれない。間仕切りされた応接用のスペースに通されて、詰問が始まった。相手は何故か一人。ここまで私を引っ張ってきた男、つまり私に小便をするところを見られた男。
「いえ、私事ながら妻子のある身。どうか命だけは」
「妻子のある身で他人の小便なんて盗撮してんじゃねえよ!」
「そ、そんな。撮影などしておりません」
「そういうことを言ってんじゃねえ」
「も、申し訳ありません!」
牛皮の高級ソファーから飛び降りると、目にも留まらぬ速さで両手を広げてマットにつき、その間に額を擦りつけた。金で解決できるなら、多少の貯えはある。誠意さえ見せれば怒りを静めて示談に持ち込めるかもしれない。そんな淡い期待を持っていた。そんな私を見ているのか、見ていないのか、やがて男が一段と低い声を出した。
「何であんなことしてたんだ?」
もっともな疑問。しかしこのやくざ者から聞くとは思わなかった。意表を突かれ一瞬呆けたが、すぐに相手に無視したと思わせてはならないという、本能的な怯えが考える間もなく口を動かしていた。
「チン毛の謎を探るためです」
「……はあ?」
今度は男が呆ける番。しまった、おちょくっていると思われたか。
「チン毛の謎って何だ?」
しかしまたも私の予想にない答え。
「え、えっとですね……」
私は緊張からくる渇きで、上手く回らない舌を動かし、懸命に経緯を説明した。
これまた意外にも男は水を差すこともなく最後まで私の話を聞いてくれた。話し終えて、私はこの男への印象を変えつつあった。見た目とは裏腹に存外良い人間かもしれない。小便を覗かれた怒りから、粗暴になっていたが、実は落ち着いて話せばわかる人間かもしれない。私は示談の話を切り出すことにした。恐らく法外な額を取られるだろうが、職や名誉、家族には変えられない。
「あの……」
「素晴らしい!」
男はソファーから立ち上がると、小便を覗かれた時よりも紅潮した顔で捲くし立てた。
「陰部へのあくなき探究心。それこそ男のロマン。私は貴方のような方を探していたのですよ!」
「……はい?」
男が拳を振りかざす。殴られる。反射的に体を縮めて目を閉じたが、いつまで経っても衝撃は来なかった。うっすら目を開けると、男の顔から眼鏡が外れ、虫一匹殺さないような、目尻の垂れ下がった温厚そうな二つの目がこちらを見ていた。
「申し訳ありません。私は筋者でも何でも御座いません。貴方の才能の片鱗を垣間見て、勝手ながらご足労いただいたのです」
「お、仰ってる意味がわからないのですが?」
目の前の男が、自分の思っていたような職種の人間ではないという安堵よりも混乱が勝った。
「これは失礼。私こういう者です」
そう言って私の前に一枚の紙を懐から差し出す。名刺のようだ。
<有限会社 ゲイ脳プロダクション POWER ゲイN スカウト部部長 堀穴 真>とある。
「真は真性ということを現しておりまして……」
「聞いてねえよ」
こんな展開も、アンタの名前の由来も。
誠に申し訳御座いませんでした。