2 幻想庭園
ガーデニア家。古から続く名家の一つである。この家の代名詞といえば、近隣諸国にまで知れ渡る、とても美しい庭園であった。その名は「幻想庭園」。その名を冠する所以は、色とりどりの花々が織りなす幻想的な美しさと、庭全体に張り巡らされた魔力が、まるで生きているかのように共鳴し合うことに由来する。だが、今、その庭は呪いの荊棘に絡め取られ、かつての輝きを失っていた。
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朝靄が漂うガーデニア家の広大な庭園。かつては貴族たちの称賛を集めた花々が、今は灰色の靄に覆われ、力なく萎れている。葉は色褪せ、茎は折れそうに弱々しく、噴水の水さえも淀んでいる。
クロウは、肩に大きな剪定鋏を担ぎ、庭の入り口に立っていた。リーナの提案を受け入れ、ガーデニア家の庭師として雇われた初日である。使用人の服に着替えさせられた彼の姿は、元々端正な顔立ちと相まって、気品に溢れていた。長くだらしなく伸びていた黒髪は一つに束ねられ、簡素ながらも清潔な服を身にまとったクロウは、まるで別人のようだった。着替えを手伝ったメイドたちが、彼の美麗さと力強さに目を奪われ、ため息をついていたことには、もちろん気づいていない。
「リーナに少ししてやられたかな」
クロウは心の中で呟いた。庭師という仕事が具体的に何を指すのか、彼にはまだよくわかっていなかった。だが、この広大な庭園全体にかけられた呪いの黒い荊棘を剪定することが、自分の役目ではないことだけは理解していた。リーナにかけられていた呪いとは質が異なり、量が膨大で、庭全体に根を張るように絡みついている。
「ここまで広大な範囲に、とんでもない量の呪力をかけている。だが、この庭園の魔力が相当なものであったからこそ、こんな芸当が可能だったんじゃないか?」
クロウは、隣に控えるように立つ白髪の初老の男に尋ねた。男は、ガーデニア家の庭園管理を長年担ってきた執事、ベリアだった。白髪を一つに束ねた彼は、穏やかだがどこか厳格な雰囲気を漂わせていた。
「左様でございます。ガーデニア家の庭園は、幻想花を咲かせるために、広大な範囲に長年をかけて魔力を張り巡らせておりました。この庭は、ガーデニア家の命そのもの。魔力は花々や木々、土にまで宿り、調和を保っておりました。ですが…」
ベリアは一瞬言葉を切り、庭の奥を見つめた。
「その魔力が、呪力によって逆流させられたのです。まるで、庭の命を吸い取るかのように」
クロウは目を細め、庭全体の命の流れを「視る」。黒い荊棘のような呪力は、土の奥深く、木々の根、噴水の底にまで絡みついている。
「なるほどな。呪力と魔力は相反する関係だが、向きが違うだけだ。ここまでの術の使い手なら、魔力を呪力に変えるだけで、庭を思うままに操れるってわけか」
クロウの言葉に、ベリアは静かに頷いた。
「おはよう、クロウさん。早起きですね」
背後から、リーナの柔らかな声が聞こえた。彼女は純白のドレスに身を包み、盲目ながらも確かな足取りで庭の小道を歩いてくる。朝日を受けた彼女の黄金の髪は、庭の灰色を一瞬和らげるように輝いていた。
「こんな朝早くに、何の用だ? 病人なら寝ていろ」
クロウはぶっきらぼうに答えたが、リーナはくすくすと笑うだけだった。
「病人でも、庭の空気は吸いたいんです。それに、クロウさんがどんなふうに花を元気にしてくれるのか、気になってしまって」
彼女はそう言って、近くの萎れたバラの茂みにそっと手を伸ばした。指先が花弁に触れると、まるで彼女の温もりに反応するように、バラがわずかに揺れた。クロウはそれを見て、眉をひそめる。
「お前…その呪い、庭と繋がってるんじゃないか?」
リーナは微笑んだまま、答えなかった。代わりに、彼女はバラから手を離し、クロウの方へ向き直った。
「クロウさんには、視えるのでしょう? 庭の命の流れが、私の命の流れと似ていること。この庭は、ガーデニア家の命そのもの。だから、呪いは私だけでなく、この庭にも及んでいるのかもしれません」
クロウは無言で庭を見渡した。リーナの言葉は、彼の観察と一致していた。庭の命の流れは、彼女の体内を巡る流れとどこか似ていた。呪いの荊棘は、彼女の命を縛るだけでなく、庭全体に根を張り、すべての生命を蝕んでいる。また、盲目であるリーナが庭の敷地に踏み入れた時から、メイドの介添なく歩けていることにも辻褄があう。
「なら、話は簡単だ。呪いを断ち切ればいい」
クロウは剪定鋏を構え、庭園の奥深くに進もうとしたその時、庭園内に繁栄している黒い荊棘が意思を持ったかのように蠢き出す。蠢き出し出した荊棘が集まり、形だった姿は禍々しい巨人であった。
「なるほど。この家にはそこの初老の爺さんを含め、かなりの手練れが重鎮しているが、そいつらでも手が出せない訳はこういうことか」
「左様でございます。国家魔術師の上級魔法で焼き払うことは可能かもしれませんが、庭園を焼き尽くし焼土と化すことは、ガーデニア家の終焉を招くことにも繋がってしまうので、我らでは何もできませんでした」
ベリアは奥歯を噛み締めながら、静かに答えた。
クロウは鋏を握りしめ、命の流れを集中させる。指先からかすかな光が漏れ、鋏の刃に流れ込む。まずは、巨人の周囲張り巡らされている黒い荊棘を、一本一本を、丁寧に、だが力強く断ち切っていく。鋏が動くたびに、土が震え、風が唸った。
「…これは、思ったより厄介だな」
クロウは呟いた。呪いの荊棘は、切っても切っても再生するように新たな糸を生み出し、彼の力を削いでいく。リーナは静かに言った。
「クロウさん、この庭は私の家族の歴史そのもの。呪いは、きっと誰かがこの家に恨みを抱いて仕掛けたもの。…でも、私にはその理由がわからないんです」
彼女の声には、かすかな悲しみが滲んでいた。クロウは鋏を止めて、彼女を見た。閉じられた瞼からは、感情の揺れが伝わってくるようだった。
「理由なんざ、関係ねえ。呪いを断ち切る。それが俺の仕事だ」
クロウにしては珍しく燃えるような感情を表に出し、再び鋏を構える。巨人の胸部に刃を向けた。そこに呪いの核があると、彼の視る力は告げていた。膨大な魔力を解放し、鋏に込める。庭全体が震え、木々の葉がざわめいた。
「クロウさん、危ない…!」
リーナの声が響く瞬間、黒い荊棘が一斉にクロウに襲いかかった。まるで生き物のようにうねる荊棘は、彼の腕を、足を、首を締め上げようとするために。
だが、クロウは動じなかった。迫りくる荊棘を、寸前のとこで避けつつ、荊棘を切断しながら、巨人に向けて一直線に駆け出す。巨人が眼前に迫ったとき、巨人がクロウに向けて、鉄槌を振り下ろす。
庭園の土に大穴が空くほどの威力の鉄槌は、周囲に土埃を巻き起こし、クロウの姿を皆確認することができなかった。
皆の息が止まっていたとき、土埃が晴れていく中から、黒髪の男の姿が現れる。巨人の腕が音もなく、崩れ落ちると共に。
間髪入れず、クロウは渾身の魔力を鋏に籠め、巨人の胸部を切り裂いた後、顕になった呪いの核を一刀両断した。
瞬間、庭に光が溢れた。黒い荊棘が霧散し、灰色の靄が晴れていく。花が色を取り戻し、噴水の水が透明な輝きを放ち始めた。クロウは膝をつき、息を切らしながら、庭の命の流れが再び流れ始めたことを視た。
「…やったか」
彼は呟き、倒れそうになる身体を支えた。リーナが駆け寄り、彼の手を握る。
「クロウさん、ありがとう。この庭…生き返ったみたい」
彼女の声は震えていたが、喜びに満ちていた。クロウは彼女の手の温もりを感じながら、ふと笑みを浮かべた。
「庭師の仕事、こんなもんか?」
リーナは笑いながら、そっと彼の肩に頭を預けた。
「まだ始まったばかりです。クロウさんには、この庭を…そして、私を、もっと元気にしてほしいんです」
その時、けたたましい足音が響き、ガーデニア・カーネが庭に飛び込んできた。
「リーナちゃん! 庭が! 庭が輝いてるぞ! こ、この暗殺者がやったのか!?」
カーネの驚愕した声に、ベリアが静かに答えた。
「当主様、クロウ様は庭師として雇われたのです。幻想庭園の輝きを取り戻すために」
クロウはカーネの騒がしさにため息をつきながら、リーナの手を握り返した。
「おっさん、騒がしいな。静かにしろ、庭がびっくりする」
庭には、朝日が差し込み、幻想花が少しずつ色を取り戻していた。クロウは、リーナの手の温もりを感じながら、庭師としての新たな一歩を踏み出したのだった。
「少し疲れた。飲み物を飲ましてくれ」
クロウはそう言うと、邸宅に向けて歩みを進めた。
そこに、リーナがついてくる。彼女の足音は軽やかで、まるで庭と共鳴しているようだった。ベリアは一歩下がり、二人を見守った。




