私を不幸にするのはあなたこそ
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ダニエルは自分で言った言葉、「私が彼の婚約者である」を自分で裏付けするようにして、床にしゃがみ込んでいる私に手を差し出している。
女性だったら誰もが彼の手を掴みたくなる笑顔つきで。
ただしその笑顔は、今までダニエルが私に見せてきた笑顔では無い。
彼が侯爵様だって事を私に思い出させるような、そんな絶対的な笑顔だった。
「ここで会えて良かった。ここは危険だ。我が家に戻ろう。」
「首都になんか今から帰ったら、途中で真っ暗です。狙ってくださいって言っているようなものじゃないですか。」
助かった。
カイルはやっぱり私の守り手だったわ。
カイルは私の腕から抜け出した後、ダニエルに立ち向かってくれたのだ。
しかしダニエルには生意気な子供の言葉など何の意味もなさなかった。
彼は私に伸ばしていた手で、そのままカイルの頭をさらっと撫でた。
「私の家は君達の家でもあるでしょう。」
「まだ我が家じゃありません!」
私は淑女と言えない甲高い声を上げていた。
だがダニエルは私に向けた笑みを湛えた表情を一つも崩さず、再び私に手をさし伸ばした。
「ああ、そうだ。だが今はそんなことを言っている猶予はない。さあ、プルーデンス、行こうか?荷物などまとめる必要も無い。足りないものは私が揃える。」
ダニエルの笑みは、今までダニエルが私に見せた笑顔のどれでもない。
向けられた者が彼に逆らえないだろう断固としたものだった。
これは我が父が商談相手に見せる時の笑みに似ている。
いいえ、そのものだ。
さあ、より良い決断を、だ。
ダニエルの手を握ったら契約完了よ?
私は彼のお嫁さんとならなきゃなのよ。
「プルーデンス?」
どうしよう。
答えて動かねばならない私は、立ち上がっても後へ一歩後退るだけだった。
だって、私はここにいたい。
デュラハンと一緒にいたいのだ。
再会してからまだ、私は彼からピアノを教えてもらってもいないのよ。
私の脳裏にデュラハンが書いた楽譜が閃き、するとそのまま私に覆いかぶさるようにしてピアノを奏でるデュラハンの長い指先の記憶が浮かんだ。
その指先は私をつつく。
キスをするように、鳥の羽で撫でるような優しさで。
「わた、私はここに――。」
「差し出された手を掴むんだ。」
デュラハンの言葉は私を引き止めるものでは無かった。
私の背中を押すものだ。
私が決して望んでもいない先へと。
「デュラハン。」
「あいつは君を妻にしたい。俺が君に望むのは永遠の愛人だ。俺が与えられないものをあいつは君に捧げられる。」
デュラハンは自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。
あなたは私の心を砕いたのよ。
「それでも君は生きている。」
「傷ついて死んでしまう、か、か弱き乙女でなくて悪かったわ。」
「それで良かったと俺は思う。俺は生きている君が好きなんだ。子供達に囲まれて笑っている君でいて欲しいんだ。」
彼は私をこんなにも愛している。
私はデュラハンが私の前から消えた日を思い出していた。
あの日だって彼は私の幸せのために姿を隠したのだ。
「消えないで。もう消えないで。私の心を死なせないで。」
「いるよ。君の傍にずっといる。君が俺をデュラハンと許す限り。」
「でも私はあなた以外は嫌なのよ。」
「子供が生まれれば変わるさ。みんな変わって、俺を忘れるんだ。」
「忘れるのはあなたでしょう!捨てたのはあなただったはずよ。」
私は心の中で叫び声をあげていた。
心の声なのに、ひび割れて甲高い、浅ましい声を振り絞っていた。
卑怯者!
ここでは泣く事も叫ぶことも出来ないじゃないの!
「プルーデンス?そんなに脅えているのか?」
ダニエルの心配した声にハッとして自分を見直してみれば、私は張り裂けそうな胸を両手で押さえていた。
心の中でデュラハンに向けて大声で叫んでいたから、私は自分を押さえるように猫背にもなっていた。
私が今一番愛しているデュラハンは私に酷い言葉ばかりしか与えないのに、ダニエルこそが私を労わる言葉をかけてくれるなんて。
表情まで彼は変えた。
先程までの威圧的な笑顔ではなく、普段の、カイル達に困らされても許すばかりの優しい人の笑顔だった。
私はそれだけで涙が零れた。
そして、自分の涙によって泣いていた少女を思い出した。
私こそなんて卑怯者だろう。
モーリーンを思いやる気持ちどころか、この場から、いいえ、私を心配するダニエルから逃げ出せる口実を見つけたという気持ばかりだったのだ。
「プルーデンス?さあ。」
「だ、ダニエル。お、恐ろしい事が起きているならば、私はお友達を残してなんかいけない。優しい子がいるの。ここには頑張っている優しい子がいるのよ。」
「わかった。わかったよ。君が優しい人だと言う事はよくわかっている。だからこそ一先ずここは我が家に行かないか?」
「そ、そうですよ。殺されたのは侯爵家のあなた付のメイドです。あなたが安全な場所に避難されるのが一番です。」
警官はダニエルの後押ししか考えていなかったのだろう。
でも、私とカイルは警官の言葉によって、短い悲鳴を上げた。
それからカイルは私にしがみ付き、私は恐ろしい現実から弟を少しでも遠ざけたいという風に彼を強く抱きしめ返した。
「ね、姉さま。くる、くるしい。」
「まあ!ごめんなさい。」
大きな溜息が頭上で起こり、私達は同時に顔を仰向けた。
ダニエルは父が私達に向けるような表情を浮かべていた。
寝なくて大騒ぎばかりの弟達を追いかけまわす私に父が見せる顔に似ていた。
ダニエルは、しょうがないな、と呟くと、カイルに向かって両手を差し出した。
「さあ、おいでカイル。私が彼を抱こう。さあ、プルーデンス。」
ダニエルがカイルを抱き上げる行為はとても自然で、まるで父がするようで、そして、彼が私に語りかけて動きを促す行為は、どこから見ても父と母がするような振る舞いだ。
彼はもう決めたのだ。
私が彼の手を握ろうと握るまいと、私を自分の伴侶にと決めてしまったのだ。
もう決まってしまったのだと絶望ばかりだが、私はクーデリカ家の長女として家の恥になるべからずと、歯を食いしばって笑みを顔に貼り付けた。
「クーデリカ、行こうか?」
「彼?あの、髪の毛は短いですけど女の子ですよ、侯爵様。可哀想です。」
警官はひたすらに人が良い人だったのだろうか。
女の子の格好をしているカイルを女の子だと思い込んでいるからか、ダニエルがカイルに向けた人称が違うと訂正の声を上げてくれたのである。
それが、私からダニエルの婚約者としての言葉や振る舞いを一先ず保留にできる時間を与える事になったと思わずに。
それから彼はカイルが傷ついていると考えたのか、ポケットを探って包み紙に包まれたキャンディを取り出してカイルに差し出した。
菫色の包み紙は、私にサシェを持って来たティナの瞳を思わせた。
「どうぞ。貰いものですが。」
「その飴を誰から貰ったか教えてもらおうか。パターソン。」
警官が差し出した手首は後ろから掴まれた。
警官の後ろにはいつのまにやらソーンが立っていた。




