あらゆる借金には返済の時がある
教室の戸口には大人の美しい女性が立っていた。
ローザも地味な格好をしていたが、彼女はそれ以上どころか喪中に思える黒のドレス姿である。
しかし、黒髪に黒い瞳に日に焼けた肌の彼女がそんな真っ黒のドレスを纏っていると、地味どころかカラスか黒豹のように見えて美しいことこの上なかった。
私が彼女の美しさに溜息を吐くと、彼女は私に親友のようにして悠然と微笑んだのである。
「わたくしと兄が見失っていたパズルピース。それがあなただって証明していただけるかしら?」
「あに?いったいどういう。」
「お手紙なんか書くんじゃ無かった。」
私の横に座るカイルが美女の出現に対して呟いた上に、彼女に抗議をするような細目で睨んでいることで、私は彼女の素性が分かってしまったかもしれない。
そうよ。
私に答えさせるために黒板に書き込まれた数式は、発熱反応の化学式と、単なる穴あき問題にしか見えないがすでに答えが見える方程式ではないか。
姉さま!火を使わないホカホカを生み出せるか計算していただけますか?
可愛い弟のおねだりの声が頭の中で再生された。
そう、黒板の数式は、かって私が計算した時に作った式よりも単純で効果的であるが、反応式の熱量を生み出すために必要な物質の分量を探るためのものだと私は理解したのである。
「悪い子!」
「お姉さまあっての僕ですから。」
全く悪びれない弟に溜息を吐くと、私は席から立ち上がった。
そんな私にモーリーンは声をかけた。
「私はあなたが嘘吐きなんて思ってはおりませんわ。」
なんて義理堅くお優しい方なのかしら。
あなたに信じて頂いている私こそ、結果として弟の犯罪行為の片棒を担いでいたと、たった今気が付きましたのよ。
ただし、それは言えない。
私はモーリーンに微笑んで見せるだけに留めた。
それから真っ直ぐに黒板の前に行って黒板前の少女達からチョークを受け取った私は、肥料を爆発させるために必要だったであろう材料の必要量を導き出す数式の穴あきを完成させて見せたのである。
「まあ!素晴らしい。あなたの解答に私は硝酸アンモニウムが爆発するぐらいに気持が高揚しております。ありがとう。では、お席に戻って。はい。協力して下さった皆様ありがとうございます。」
フィレイソン先生は手を叩きながら私達に声をかけ、私達は彼女の朗らかすぎる声と様子に気が削がれたようになりながら席へと戻ろうと動き始めた。
「マックスさん。あなたはお友達への疑いはすっきりされたかしら。あなたも努力家、彼女も努力家。同じぐらい頑張り屋さんで素敵だと思いますわよ。」
そこで終わりになれば良かった。
けれど、私を貶めるために黒板に数式を書いていただろう少女達は、誰かが追い詰められて潰される所こそ見たかったらしい。
それが私でもマックスでも。
「覗き見って以前に言った時も勘違いでしたわよね。」
「そうそう。庇っていただいた事を感謝こそすれ逆恨みなんて、とっても性根が浅ましい方!」
「お勉強ができるって偉そうにしていらっしゃるけど、がり勉なだけよね。それが分かったからあの日も庇ったんでしょうね。痛々しすぎて可哀想って。」
「リンダ様からお勉強を取ったら何も残りませんものねえ。」
私は少女達を唖然として見返すしかなかった。
あなた方こそ楽しそうにマックスの手伝いをしてらっしゃらなかった?
もしあの日、私がデュラハンの助言を聞かずにマックスを責めていたらどうなったっていた事だろうか。
きっと全員の敵だった私は、ここぞとばかりに責められていた?
でも、今の私はみんなが慕っているらしいモーリーンの好意を受けているから、一度はみんなを裏切ったマックスこそ責めるべき的にされている?
危険だわ!
「優しい君。借金は返すものだ。マックスが君に好意的であろうとすれば、その借金は返されたも同然となれただろう。だが、彼女は君を逆恨みするばかりで、さらに余計な借金を重ねたのさ。そうして、彼女は取り立てに遭う事になってしまった。哀れなぐらいに引っぺがしだ。」
「デュラハン!」
デュラハンの囁きを合図にしたように、クラスの中は悪意の哄笑がそこいらじゅうで沸き起こった。
「あの方こそ盗み見をなさっていたのでは?」
「そうよ。自分で解いたと言いながらちゃんと説明も出来ないでしょう。あの方こそ家人にさせていたのでは無くて?」
それらの悪口は誰が囁いたものかわからなくとも、マックスどころか教室中の誰もに聞こえた。
「私は盗まれたのよ!」
マックスが絞め殺される鶏みたいな叫び声を上げた。
それだけではない。
マックスは両手をかぎ爪にして、私に向かって襲い掛かって来たのである。
首を絞められる!
「お止めなさいな。リンダ!どうしたの!リンダ!」
私を庇うモーリーンの悲鳴に近い声。
私は襲い来るマックスの手を咄嗟に掴んでいた。
合わさった手は指を絡め合い掴み合い、マックスの指先が私の手の甲に刺さる。
「い、……たくない。」
痛いなんて言ったらデュラハンがマックスに何をしてしまうか!
私は歯を食いしばりながらマックスの攻勢に耐えた。
「ああ、血が!お止めになって。リンダ!待ってリンダ!」
モーリーンがマックスの体を私から引き剥がそうと押さえるが、マックスの力は弱ることなど無い。
マックスはただただ私を睨んでいる。
「あなたが努力家なんかであるはずない。みんな私の努力ばかり盗むもの。あなたは私の頭を奪ったわね!私の全部を私の知識を盗んだのねええええ!」
彼女の瞳孔は真っ黒く広がって、青い目が真っ黒に染まって見えた。
マックスの混乱、これは魔法使いの仕業?
「いいや。薬物による興奮だな。」
「医務室に行きましょう、マックスさん。悲しい事に、あなたからヘリオトロピンの強い匂いがするわ。」
デュラハンの言葉にフィレイソン先生の言葉が重なった。
ヘリオトロピンの匂い?
私はデュラハンの指摘の言葉よりもフィレイソン先生の言葉に気が削がれ、そのせいでマックスとの均衡が崩れた。
私はマックスの力に押し負け、結果として突き飛ばされて腰を机の角に当てた。
「いたあ!」
私達の手はそこで離れ離れとなった。
マックスはさらに私に襲いかかる。
だが、フィレイソン先生がマックスの体をぐっと抱きしめて動きを抑え、デュラハンは私を守るように私達の間に腕を入れた。
「頭を冷やせ。」
デュラハンはその手でマックスの額を掴んだ。
冷たい冷たい亡者の手は、マックスの体を凍えさせて意識を失わせた。
フィレイソン先生が抱きしめていたマックスは、意識を失ってぐらっと大きく傾き、フィレイソン先生こそ大きく身をかがめる事となった。
その時に私は見てしまった。
フィレイソン先生が頭を下げた時、彼女のうなじが襟元から覗いたのである。
私は彼女がここまで肌を黒く焼いている理由が分かった気がした。
そして、その努力も無駄だろうと言う事も。
彼女の肌には秘密結社の印が刻まれていたのである。




