未来のない私達
「お姉さま。僕はお姉さまの教科書を読んで、これ以上ないぐらいの同情心が沸き上がっています。そこで決めました。僕は絶対に寄宿舎に行きません。」
人の数学の教科書を開いて読んで、貧血の振りをする弟に笑みが零れた。
ありがたいことに彼は私が解ける数学についてはまだまだであるが、私が以前に使っていた教科書を見た事もある。
その時に予習として私が書き込んだ問題の答えの数式、それがカイルにはまだ意味が分からなくとも、今の教科書に書き込まれた数式よりも複雑だってことは彼が賢くなくともわかるはずなのだ。
自分だって単純すぎる問題と答えに悲しくなるぐらいだもの。
平方根はそもそも嫌いだけれど、平方根を必要とする数式に四苦八苦出来ないのも消化不良を感じるばかりであるのだ。
「でもね、カイル。寄宿舎に進まなければ大学には行けないのではなくて?」
「教授の推薦状があれば大丈夫です。」
「教授様はあなたをかなり買って下さるのね。」
「彼の著作を引用しての犯罪を、僕に二度と犯して欲しくないからでしょう。僕の肥料爆弾で彼は警察とお話する事になったそうですから。」
「今度その教授様に会わせて頂ける?御礼と謝罪をしなきゃだわ。」
「父様が彼の大学の研究室に寄付したから大丈夫ですよ。ついでに、商品化できそうな彼の研究も買ったそうですね。やはり父は誰よりも尊敬できる人です。」
「そうね。あなたが褒める度に父が悪徳商人にしか見えなくなってきますけど。」
「さあ、小鳥さん達。少々口を閉じようか。君達のご学友が教室にやって来た。」
私に囁くデュラハンの言葉で私は口を閉じて、教室の入り口を見返した。
デュラハンの言う通りに、数人の少女達が笑いさざめきながら学習室に入ってくるところで、私は少々緊張しながら笑みだけ顔に貼り付けた。
私達が誰よりも早く教室に来たのは、私とカイルに何かできないようにデュラハンが下調べと結界を張る時間を得るためである。
結界など張れば魔法使いに一瞬で察知されるだろうけれど、デュラハンは魔法使いが動いたそこで魔法使いを見定めて切り捨てるつもりなのだ。
「ミツバチの巣事件は奴の仕業だ。刺されたら自分こそ死ぬかもしれない、そんな生きている蜂でいっぱいの巣をお嬢様が持ち運ぶか?つまり、魔法が関与している。君はすでにそいつに俺の契約者だとしかりと認定されているってことさ。」
デュラハンはそう言った。
そして、私の部屋の扉を叩いたティナこそ魔法使いの術具の一つであり、彼女が私を訪問した事で魔法が発動されたのだとも。
「お姉さま。モーリーンが真っ直ぐにお姉さまの方に来ます。」
カイルの囁きに私は再び少女達の集団を見返して、確かにカイルの言う通りにモーリーンが私に笑顔を見せながら向かってくることを知った。
私は席から立ち上がり、彼女が自分の直ぐそばまで来るのを待った。
モーリーンは私の真ん前に立つと軽く膝を折った。
私も同じように膝を折って挨拶を返し、私達はまるで親友のようにして隣同士に席に着いた。
「お早いのね。」
「お寝坊して朝食に出遅れたものですから、授業だけは遅れまいとやってまいりましたの。」
これは嘘だ。
デュラハンが朝食の盆を私達の部屋に運んでくれたのである。
朝食を乗せたお盆が宙にフワフワ浮きながら私の部屋にまで移動して来る、それはとっても怖い風景だ。
でも、あの目立つ恰好をしたダニエルとソーンが私の部屋まで見咎められずに来られたのであれば、もしかしたらデュラハンの行動も誰も気が付かなかったかもしれない。
「阿呆。この寮にも使用人専用の廊下や階段がある。あいつらはそれを使っただけだよ。メイドにたっぷりのチップを渡してね。それから俺は、メモという手を使ってそのメイドに飯を持って来させた。」
「え?」
私もカイルも朝食が乗っている盆をメイドから受け取ってはおらず、私がデュラハンから受け取ったのである。
あら?
そうするとメイドは誰に盆を手渡した……。
「あ!」
「どうしましたの?プルーデンス様。」
モーリーンは突然小さな叫び声をあげてしまった私を訝し気に伺い、私は何でも無いと笑って誤魔化した。
だって、昨夜ダニエルからチップを受け取って彼らを私の部屋に案内したメイドが、翌朝の私の部屋にて男性の手に朝食の盆を手渡したってことなのよ。
私の評判は地に落ちたも同然。
「そのメイドは侯爵家から派遣された君専用のもので、廊下で彼女から盆を受け取ったのは君のカイルに化けたドラグーンだ。」
でも、ダニエルが私の為にメイドを派遣した事は寮の使用人全員が知っていることで、私は完全に彼の婚約者認定されているってことではないの?
「まあ。難しい顔をなさって。わかりますわ。新しい先生がどんな方か不安でいらっしゃるのね。ローザ先生は気さくで話しやすい方でしたから。でもね、ローザ先生は少しひいきをなさるところもありましたから、私達は新しい先生にこそ期待している所もございますのよ。」
私はモーリーンの新しい情報に彼女への注意を戻した。
少女達を女王蜂に仕立てる教育をしていた。
ローザはダニエル達にそう豪語していた。
だが、モーリーンの言葉では、彼女達はローザを指導者として適任では無かったと認識していたという事ではないのか?
「ひいきをなさっていたのですか?私がマックス様に盗み見の訴えをされた時は、ローザ先生はマックス様の勘違いだととりなしてくださりましたわ。だから、私はてっきり公正な方なんだと思い込んでおりました。」
「ええ。勉強ができる方にはお優しいわね。彼女の持論ですの。爵位も無ければ財産も無い私達は小説にあるような素晴らしい結婚など出来ない。そう断言されていましたわ。美しさもない私達の将来は、家庭教師かお金持ちの老婦人のコンパニオンになって生計を立てねばならないと。ですから、学べる機会に学ぶべきで、それを怠るのは人生を捨ててしまった方なのだと見下されておりました。」
「ずいぶん片寄っていらっしゃったのね。では、あのキャサリン達は実は努力家で勉強家でいらっしゃったのかしら?」
そこでモーリーンはさらに声を潜めた。
教室にリンダ・マックスが入って来て、私達の直ぐ近くに腰を下ろしたのだ。
「マックスはキャサリン達にテストや宿題の答えなどを流しておりましたの。ほら、彼女達の仲間になれば良い目が見れるでしょう。以前は私達にもお勉強を教えて下さる良い方でしたのに。ローザ先生のお気に入りになられた途端に、私達を見下すようになられてしまって。」
「それは、ローザ先生があなた方を愚図で未来が無いなんておっしゃったからでしょうね。」
私は私とモーリーンの会話に入って来た弟の失礼さに慌てるしかなかった。




