キスがなくともあなたが欲しい
カイルは私に小さな紙きれを突きつけた。
そこで私は時間が止まった。
「僕が出遅れた理由です。枕の下に挟んであるのを見つけました。流石としか言いようがない。」
「……そうね。流石だわ。」
私は自分の言葉を絞り出すだけで精いっぱいだった。
いえ、抑える事に精いっぱいだったかしら。
だって、叫び出しそうだ。
大声で叫び出しそうだわ。
カイルが翳すメモには、私達が注意すべきことが殴り書きされていた。
そして、その文字を私は知っている。
崩してある乱暴な文字でも、その文字はデュラハンのものだ。
何度も見てきた彼の筆跡以外の何物でもないのよ。
贈り物は全て中を改めろ
食べ物は少しずつ齧れ
独りになった時は出口を必ず確認せよ
ここは敵の巣だ
慎みなど忘れて危機には大声を上げろ
私はカイルからそのメモを受け取ろうと手を伸ばした。
震えながら。
しかし、カイルは私の手からそのメモを遠ざけたばかりか、さっさと自分のドレスのポケットに片付けてしまった。
「まだよく見ていないのに!」
「プルは内容を覚えなくていいです。変な警戒が顔に出たらかえって面倒じゃないですか。食べ物も僕が改めてから渡しますから、いつものようにパクパク食べて大丈夫です。そう、守りは固いから安心してください、ってだけです。」
「うむむむ。」
生意気な弟に何も言い返せなくなった私に対し、カイルはしてやったという風に笑顔を作った。
それでも彼は紳士がするようにして、私に手を差し出したのである。
女の子の格好をしているくせに。
「では、そろそろ行きましょうか。スズメバチの巣の中に。」
私はカイルの手を握った。
大丈夫、私にはカイルがいる。
そのカイルはデュラハンの加護を受けている。
私は全く脅えてはいないと顎を上げ、敵が待っているだろう学習室へとカイルと手を繋ぎながら部屋を出た。
それから数分後に学習室に着いたのだが、そこには誰もいなかった。
「昔ながらの高い窓。どうして暴れん坊じゃない女性用の場所こそ、こうして牢獄の一室みたいな窓の作りをしているのでしょうね。」
カイルは教室を見回してからぽつりと呟いた。
私はカイルに言われてから初めて気が付いた。
高い位置にある窓から明かりは室内にさんさんと入ってきてはいるが、何かがあっても窓から逃げ出すことは出来ないという事に。
出口を必ず確認せよ
メモの一文を思い出し、私はぞくっと寒気を感じた。
それでその寒気を振り払うために、私は少々軽い声を上げていた。
「あ、そうそう。自習ってことだったから、皆様は別の部屋だったかしら。」
「どこに行くんです。お勉強室はこの学習室だけでしょう。あ、まだありましたね。裁縫室、それから、音楽室に美術室?四十人程度の生徒を三つのグループに分けて、それぞれのお部屋をグルグル移動しながら授業をされるんでしたっけ?いい運動になりそうですね。」
「バカにしているでしょう?」
「いいえ。同情しています。男の子用の寄宿舎もこんな感じでしたら、僕はこのまま一般用の学校に通いたいですよ。あそこには実験室もある。素晴らしき教授もいらっしゃる。」
「私はその方にお会いしたことが無いわ。」
「僕のクラスにだけいらっしゃりますから。図書館でお会いして以来、彼は僕に広い世界を教えてあげたくて堪らないそうです。」
「あなたの尊敬する教授がそこまであなたに肩入れするのはなぜかしら?」
「あの方の著作を参考に肥料爆弾を作ったから?」
私が言葉を失ったその時、少女達の嬌声ともいえる笑い声が一斉に起きた。
「え?」
廊下側に振り向いたそこで、開いた扉から何かが投げ込まれた。
それは帽子用の紙でできた丸い小箱であった。
だからか投げ込まれた戸口からあまり遠くへは飛ばず、すぐに教室の床に落ちて、ぐしゃっと潰れて中に入っていたものを飛び出させた。
私がそれが何かを確認する前にカイルは舌打ちをして、私の手を引っ張った。
そして彼は私をぐいぐい引っ張りながら教室のもう一方の戸口に向かったが、私達の目の前でドアが乱暴に閉まっただけだった。
バシン。
ヴァーン。
幾重にも重なった羽音が耳障りなぐらいに響き始めた。
彼らが投げ込んだ箱に入っていた茶色のもの、それは蜂の巣だった。
巣を破壊されて怒り狂った蜂達が、その復讐に飛び出して来たのである。
「プル!部屋の隅に走りますよ。そこでじっとしましょう。」
「そうね。」
私はカイルを抱き上げると部屋の隅に走り、角になった所でカイルを庇う様にして身を丸めた。
「違います!あなたが僕の壁になってどうするのです!」
ヴァーン。
恐ろしいばかりの羽音が私達に迫ってくる。
私は大事な弟を自分の体の中に入れ込む勢いで抱きしめた。
「お姉さま!僕があなたを!」
バアン。
壁を叩いた音にカイルが私の腕の中でびくりと脅え、口を閉ざした。
でも、私が壁を叩いたわけではない。
私の背中はひんやりと冷たい。
私の真後ろに壮絶な冷気が発現したのだ。
私達を襲いに来た蜂達は、全て凍え死に、全てが床に落ちた。
ヴァーン。
蜂の羽音はまだまだ教室中に響いている。
だが私は脅えてなどいなかった。
私は私達を守るように後ろから突き出された両腕、壁の左右に着いた大きな男性の手があるだけで動けなくなっていたのだ。
「スズメバチじゃない。気立ての良いミツバチだ。静かにしていれば落ち着く。」
懐かしい声が私に囁いた。
私はカイルを安心させてあげるために、デュラハンの言葉を弟に伝えてあげなきゃいけないのに、喉が詰まったようになっていた。
「大丈夫。君の賢い弟は状況はもう読んだ。ミツバチはまだ興奮しているが、第二陣がこちらには来ないと気が付いた。」
「う、うう。」
どうして嗚咽しか出ないの。
彼がまたいなくなる前に、私は彼に何か言わなきゃいけないのに。
「さあもう大丈夫だ。脅えないで。キスして君を宥めたくとも、俺には唇が無いんだよ。」
壁にあった右手は外れ、彼はいつも私を揶揄う様にして私の唇を指でなぞった。
びくっと私の身体は震えたが、それは脅えでもなんでもない、いつしか彼に触れられると感じるようになった反応だ。
体の奥底に炎が点いたような感覚。
だからこそ彼のその行為で私には声が戻った。
「お、脅えてなんかいないわ。キスだっていらない。」
「プルーデンス、そうだな。亡霊なんかから何もいらないな。」
「あなたがいれば何もいらないの。キスが出来なくともあなたがいいの。だ、だから、あなたの本当の名前を教えて。あなたを私に教えて。」
何度も聞き慣れた笑い声が私を包んだが、低くて掠れた心地よい彼の笑い声でも、なんだか寂しさを感じる笑い声だった。
「デュラハン?」
「そう。俺はデュラハンだ。これが俺の名前だ。君が俺の名前が偽物だと言えば、俺の真実の名を唱えれば、大地との契約はそこで破棄される。君は自由だ。」
私は落雷で燃えた楡の木を思い出していた。
あの出来事でレイヴン騎士団の団長の名前についての会話が有耶無耶になったと、私は今さらに気が付いたのだ。
あなたは私達を繋ぐ契約が消えてしまうことになる、自分の真実の名を私に伝えたくなかった。
そして、あなたが燃やした楡の木は、婚姻の象徴だ。
私達には先が無いと私に示しながらも、あなたは私を縛り付けていたかった。
「私はあなたとの契約を消しはしない。ぜったいに。」
「俺は君を守ろう。君が俺をデュラハンと許す限り。」
お読みいただきありがとうございます。
プルーデンスにデュラハンはしっかり憑りついておりました。
そんな彼でありますが、彼はプルーデンスが解放されたい時には自由にしたいと考えていたので、デュラハンという偽名にて大地との契約を行っています。
その場合に彼がペナルティを負う事も覚悟してです。
そこまでプルーデンス思いやっていた彼ですので、亡霊の自分ではプルーデンスの邪魔になると己の姿を彼女から消しました。
だからこそ、プルーデンスの思惑通り、彼女の危機ともあれば絶対に(簡単に)出て来てしまうのです。




