私は学園に戻る
私が学園に戻ることを反対していた父とダニエルであるが、母の一言、明日には我が家全員で首都に戻る、それを聞いた途端に意見を翻した。
父は犬と別れさせられた弟達の事を考えて躊躇して、ダニエルは私と離れがたいからと、どちらも私の安全の為に数分前に反対したことを忘れたようである。
今すぐに首都に帰る、私がそう言ったら彼らはどうするのだろうか。
そんな意地悪心が芽生えたが、母が私にこっそりと囁いてきたことでそんな気持ちなど一瞬で消えた。
「その方、あなたが心惹かれる程に素敵な方なの?」
私は、はひゃっとなりながら母を見返すと、母はわかるわと私に言ってから、父をうっとりと眺め始めたのである。
今でこそ恰幅の良い強面の中年男であるが、母の昔話によると、父は痩せていて妖精のようにすんなりした肢体をもつ素敵な人だったそうだ。
薄茶色のサラサラの短い髪は無造作に跳ねていて悪戯な少年のようなのに、母に恋を語る時は嘘偽りのない情熱的な騎士のようだったらしい。
彼女が全てを捨てて駆け落ちしたくなるほどに。
確かに、私のおぼろげな記憶の中の父は、かなりの美青年だった。
今は膨らんじゃったけれど。
いや、今だって、モスグリーンの瞳を持つ父は、同年代と並べばまだまだ魅力的な男性の部類に入るはずだ。
だってほら、母は今の父にも恋をしているように見惚れているじゃないの。
ああそうか。
お母様は私の恋を応援してくれているのね。
「イアンは私を影ながら見守って下さったわ。ダニエルだってそうでしょう。美しく心惹かれる男性は数多にいるけれど、本物を見極めねば女には幸せなど掴めやしないのよ。」
ぜんぜん、母はブレていなかった。
それでもって、母は声を潜めて私にだけに語っているようだけれども、実は同席者全員に聞こえる音量で台詞を言い放つという阿漕な事をしてくれた。
よって、父は強面の癖に可愛らしく頬を赤らめて照れ、ダニエルは、その通り、という誇らし気な顔を作った。
ああ、狭まってきた。
結婚への包囲網が、どんどん私を囲んで、どんどんと狭まってきているわ。
「そうだ。君は我儘に振舞っていいんだ。私が君を守る。」
「えと、あの。」
かえって学園に戻りたいって言えなくなってしまった!
どうしようかと思ったその時、食事室の扉がノックされた。
まるで助け船だわと戸口を見返せば、召使いによって開かれたそこからダニエルの執事が入ってきたのである。
彼はまっすぐにダニエルに向かうと、かなり声を押さえてダニエルに囁いた。
「閣下、我が家の失態で怪我をされた方がいらっしゃいました。」
「怪我?我が家の失態で?」
「犬が飛び掛かってきたそうです。」
「それだけなら君だけで解決できる話ではないのか?」
「閣下、お耳を。」
執事は今度こそ私達には聞こえない内緒話を、手袋した手で自分の口元を隠しながらダニエルの耳に直接注ぎ込んだ。
するとダニエルは、はああ、と大きく溜息を吐き、私が初めて聞いたウンザリした声で執事に答えたのである。
「すぐに行く。」
そして彼は苛立ちが見えるような仕草でナフキンを放ると席を立ち、それでも優雅な一礼を私達にしてからテーブルを離れていった。
「犬って、えと、我が家の悪魔達が与えられた犬のことかしら?」
「さあ。そうでもダニエルが何も言わないのですから、私達は何も知らない振りを通すのですよ。」
「お母様。それではダニエルに申し訳ないわ。」
「思いやりたい相手が出来るって楽しいわよね。」
「お母様、違います。」
母親に否定したが、私は実は気になっていた。
あそこまで温和なダニエルが嫌そうな顔をしたのである。
私は不安に思いながら彼の後姿を見送っていると、扉が開いて彼が消えていった代りのようにして我が家の長男が颯爽と室内に入ってきた。
まだ八歳なのに、いえ、もっと小さな頃でさえ、カイルはテクテクやポテポテという音を当てられるような幼児特有の動作からほど遠い身のこなしをしていたなあとぼんやり考えた。
双子やフェリクスのように子供っぽかった時はあったかしら?
その子供らしくない私の弟は、私の視線を一身に受けながら私の席にまでくると、先程の執事がダニエルに囁いたようにして私に囁いた。
「プルの学校の先生を僕達が引っ掛けちゃった。」
「え?」
「うふふ。まだまだ分別のつかない仔犬の散歩は大変だ。仔犬が飛び掛かっちゃってね、女の人を転ばせちゃったんだ。ドレスの裾がドロドロになっちゃって、本当に申し訳ない事をしたなあ。」
「えええ?」
カイルが私に向けた顔は、これ以上無いぐらいに悪魔的で魅力的だった。
魔物としか言いような笑みを八歳の子供が浮かべているなんて。
「仔犬のお礼にね、僕達もダニエルの為に美人を捕まえたんだ。大人の男の人には美人がご褒美って言うじゃない?でもね、彼女がプルの学校の先生だったなんて驚きだよ。リーブって狭いね。」
「そうね。明日から、いいえ、今晩の夕食から、あなた方も一緒のテーブルに着く事になるのね。ダニエルが悪戯ばかりのあなた方を監視できるように。」
「え?別に僕達は子供部屋のままでいいよ。フェリクスもアービーとヒューも、ディと離れがたくなっちゃっているもの。大人のいる場所には犬を入れちゃいけないでしょ?分かっているよ。」
「家の中に外犬を入れちゃいけないってルールはどこに行ったのかしら?」
「君達の弟だよってダニエルは言ったよ。僕達が大事な弟をお外に締め出すなんてひどい事をすると思うのかな?彼こそ分かっているよ、お姉さま。」
私は両親を見返した。
彼らは人形のように動きを止めてはいるが、ちゃんと自分達の作品の言い草に聞き耳を立てていたようだ。
父は、侯爵になんてことを、と頭を抱えて嘆き、母は貴婦人らしく額に手の甲を当てて貧血一歩手前の仕草をした。
「明日にでも私は寮に戻るわ。だから、お父様達は弟達を連れて首都にお戻りくださいな。それが一番だと思います。」
「そうだな。そうしよう。それが一番だ。」
「そうね。あのお優しい方でさえ怒らせてしまったら、我が家の子供達の結婚話なんて永劫にあり得ませんわね。」
「じゃあ僕は姉さまと学園に行きますね。大丈夫です。ちゃんと女の子の格好をして潜入しますから。それで、お父様。僕がお姉さまを守っている間にそれなりの学校をお姉さまの為に探しておいてくださいね。」
我が家の誰も、駄目だ、とカイルに言えないのは何故だろう。
恐らく、誰もカイルを怒らせたくないから、かもしれない。
彼は必ず仕返しをするのだ。




