本当に優しい人
「ダニエル、君の所のレモンバターは最高だな。いいや、どの料理のどれもこれも美味しすぎて、レシピ本を作って我が商会で販売したいくらいだ。」
「イアン、我が家の料理人は秘密主義者ですのでそれは適いませんが、あなたの称賛に応えるためにこれからも腕を振るう事でしょう。」
父とダニエルがファーストネームで呼び合っているとは!
これは婚約発表がもうすぐかもしれない、と、私はびくびくっと脅えた。
しかしながら、父が褒めるぐらいに美味しいレモンバターが掛かったポーチドエッグは、口に運んだ一瞬で私を宥めた。
「美味しい!」
あ、声を上げて喜ぶなんて、淑女のすることでは無かったわね。
私は自分の失敗で両親に恥をかかせてしまったかもと視線をダニエルに向けたが、なんと、彼は幸せこの上ないという笑みを作って私を見守るだけだった。
「あ、あの。」
「君が喜んでくれるのが何よりだ。いいや。君の笑顔で我が料理人も配膳係も、一瞬でみんな幸せになってしまった。」
ダニエルって人を嬉しい気持ちにさせるのが上手な人だ。
だから我が弟達は彼を気に入り、彼に懐いて甘えるのだろう。
「ありがとう。あなたは本当に優しい方ね。」
私の言葉で彼はさらに笑顔を大きくして、まるで、幸せそうなライオン、そんな感じになってしまった。
光を浴びて輝く彼の金色の髪は、赤みがかっているからこそ情熱的な人情家の温かな雰囲気を彼に与えている。
私に微笑む彼の瞳は私の弟達によく似ている水色で、そのせいか彼をとっても茶目っ気のある好人物に見せていた。
彼の存在が気安過ぎて、完全に私達家族の一員のようだ。
自分には家族がいないと言っていたダニエル。
彼自身もきっとそう感じているからこそ、こんなに幸せそうなのだわ。
でも、そんな彼でも、子供と大人の食事は分けている。
それが当世のルールであり常識なのは分かっているけれど、私は子供部屋で子供達だけで朝ご飯を食べているであろう弟達を思って悲しくなった。
両親と私は、貧乏だった時代は小さな家に住んで食事は必ず一緒に取った。
忙しい父が妻と子供と一緒にいられる時間がそこだけだったからかもしれない。
その習慣が抜けないからか、その時代を忘れないようにとの父の考えなのか、我が家は豊かになろうが弟達の行儀が悪かろうが、食事の席は家族全員一緒が当たり前だったのである。
「ゆっくり食べても大丈夫だよ。カイル達は私達が食事を終わるのを待ってはいない。今日はもう先に食事を済ませてね、彼らの新しい弟と遊んでいる。」
「弟?」
「ああ。今朝ようやく到着したんだよ。領地の自慢の猟犬の仔犬を一匹、領地から連れて来させた。子供には仔犬。どうしてそこに気が付かなかったかと、私は自分の不甲斐なさが悲しいよ。」
数日も経てば私の頬の内出血もほとんどわからないものに変わっているが、そのぐらいの日数で我が弟達はしっかりとダニエルの頭痛の種になっていたらしい。
弟達と協調関係だと思っていたダニエルには、私に群がる弟達が彼を追い払う様になったことが不可解であっただろう。
けれど、それは仕方がない事だ。
ダニエルの家で食事の席を別々にされる事になった弟達は、特にカイルが、かなり憤慨しているはずなのだから。
それでも私は居候なのだからと、ダニエルに感謝の笑みを浮かべた。
ダニエルは嬉しそうに見返して来たが、そこに我が父が半泣きのような声をあげてダニエルを褒め始めた。
「ああ。悲しいがその通りだ。私こそ息子達をここまで上手く扱えるダニエルが素晴らしいと称賛するしかない。」
私は父の言葉によって、しまった、と慌てた。
私とダニエルの仲を誤解されて婚約が決定してしまったら、私もダニエルも不幸になってしまうわ。
だって、私の心にはデュラハンしかいないし、デュラハンの為に私は彼の首を探し続けなければいけないのよ。
彼が勝手に契約を破棄して、勝手に石の棺に閉じ籠っているのだとしても。
「あの、お父様。」
「イアンは息子が出来たみたいに大喜びね!」
いえ、父は泣きそうですよ?
認めたくはないが認めなければ、という葛藤を勝手にしている状況ですわ。
私は母を見返した。
彼女は貴婦人だから時々現実を見誤るのだろうか。
美しき陶器人形のように完璧な外見の人は、聖母像のような微笑みを顔に浮かべており、本当に幸せだわ、という風に目を細めた。
決める気だ。
彼女こそ私の輿入れを決める気だ。
「いえ、お母様。お父様はすでに四人の息子をお持ちじゃないの。む、息子が出来たみたいって言い方は、カイル達が聞いたらむくれてしまうわよ。」
母は品よくクスクス笑うと、まだ赤ちゃんよ、なんて言った。
「息子なんて紹介するには早すぎでしょう?あの子達はまだまだ分別が付いていない赤ちゃんじゃないの。私もイアンもつい甘やかせてしまうから、しっかりとした大人の男の人にあの子達が出会えて良かったわ。あの子達がなるべき姿をダニエルから学び得る事が出来るでしょう。」
父とダニエルが同時に咽た。
弟達がダニエルを操って悪の道を学んだらしいことは、どうやらか弱き貴婦人である母には内緒であったらしい。
「そして、プルーデンスもまだまだ子供。だからこそ、懐の広い大人の男の人に見守っていただくような結婚が望ましいと――。」
「ごほ、ごほん。」
母の言葉を遮るために、無作法だろうが私も咽てみた。
私とダニエルを縁結びさせたいのは、元子爵令嬢の母こそ、らしいのだもの。
これはとても危険だわ。
商売敵には物凄い悪辣にもなれる父であるのに、彼は母に対しては単なる追従者に成り下がってしまうのが常であるのだ。
私は結婚に賛成よ、そうでしょう、イアン?
君の賛成に私は賛成だ。
絶対に危険なこの流れになる。
「お、お母様。が、学校ではピアノが弾けるのが当たり前で、ええと、私は自分の好きな曲を披露するようにと課題を与えられてしまったの。だ、だから、あとで教えていただけるかしら。ほら、壊し屋の弟達がいない今なら、こちらの音楽室をお借りできるでしょう?」
話の流れを変えようとした話題であったが、実際に私は毎日指を動かす練習はしていたから、ピアノを弾いて音を確かめたい気持ちもあったのだ。
デュラハンから教わったメロディを忘れたくはない。
でも、自分が言葉を言い切ったそこで、私は大失敗をしたと気が付いた。
そうよ。
我が家がピアノを購入した時、どうしてまずはピアノ講師を呼んだのか、を、私は突き詰めて考えるべきであったのだ。
私や弟がピアノを弾けなくとも、母が弾けるのならば母がピアノを弾いたりしているはずであったのだ。
我が家のピアノが誰にも弾かれないで放置されていることこそおかしいと、私は気が付くべきだったのである。
母は私の視線を避けて顔の向きを変えると、美味しいバターソースね、と数分前の父の台詞を口にした。
母の追従者でしかない父は、そうだね、と私の失言の一瞬が無かったようにして相槌を打ち、ダニエルは事の成り行きに両目を丸くした。
「え、ええと。わ、私は上手くはないがピアノはそれなりに弾くことはできる。私が君に教えようか?」
本当にダニエルは優しい人だわ。




